僕の夏休み

「……星華ねえ……」
バスから降りた僕が声を掛けると、その女(ひと)は、こくり、とうなずいた。
僕の母方の従姉妹――美月、星華、陽子の三姉妹の次女、星華(せいか)ねえだ。
「お帰り、彰(あきら)」
──僕が帰省するとき、この女(ひと)は絶対に「いらっしゃい」と言わない。
「お帰り」と言う。
まるで、僕も、僕の両親も、「本家」から一時期ちょっと出て行っただけで、
またすぐにここに戻ってくるものだから、と言うように。
あるいは、星華ねえにとっては、僕は弟であるかのように。

──僕は、毎年夏休みの最初の日にここにやってきて、最後の日に帰る。
冬休みも、春休みも、ゴールデンウィークも。
そのことを不思議には思わなかった。物心ついた時からの習慣だったからだ。
そして星華ねえを、星華ねえ、つまり「星華姉さん」と呼ぶことにも。
僕に対する星華ねえの挨拶が、「お帰り」ということにも。
……だけど。
だけど、今年の夏、僕はじめてそのことを意識した。
志津留(しづる)家の「お定め」を知った夏に──。
僕が当たり前に生きてきた世界が揺らいだ夏に──。

「……」
僕が何を言っていいかわからないまま立ち尽くしていると、
星華ねえは、もう一度うなずいた。
そして片手に下げていたものを僕に差し出した。
「……これ」
差し出されたものは──僕の麦わら帽子。
見慣れたそれを目にして、僕のなじんだ世界がすっと戻ってきた。
──今は。そう……今だけは。

「彰は、それがよく似あう」
星華ねえは、麦わら帽子をかぶった僕を見てうなずいた。
無表情に見えるけど、すごく嬉しそうだ。
他の人にはわからないも知れないが、僕にはそれが分かる。
僕も自然に笑顔が出た。
「毎年かぶってるもん」
「……こっちは、夏、暑いから……」
「あっちだって夏は暑いよ。アスファルトの照り返しはきついし。
なんだか暑さの質がちがう……っていうか。こっちの暑さのほうがよっぽどいい」
「……」
星華ねえは、あるかなしかの微笑を唇に浮かべた。
多分、星華ねえを知る人──学校のクラスメートとか、近所の人とか──の
ほとんどが見ることないまま一生が終わるだろう、貴重な微笑み。
星華ねえは目を閉じて小さくうなずいた。──機嫌のいい時の星華ねえの癖。
「……車、呼ぶ?」
「本家」のお屋敷は、バス停からさらに相当な距離がある。
バス停は山のふもとで、「本家」の本宅は山の中腹に建っているからだ。
というより、この山と、その背後に広がる森と、つまりこの辺一帯全部が志津留家のものだ。
あんまり広いので、携帯電話──ちょっと前まではバス停の横にある公衆電話から
お屋敷に電話をかけて、お手伝いのだれかに車をまわしてもらうかどうか、聞いているのだ。
ちなみに、駅まで車を回してもらうことはもちろんできるけど、僕はそうしたことは一度もない。
さっきまで乗ってきた、くたびれたバスにゆられてこのバス停に降り立つことこそが
「夏休みのはじまり」のような気がしてならないからだ。
そして、バスから降りた後の行動も決まっている。
「うーん。歩いていこうかな――まだ陽が強くないし」
朝早くに出発したおかげで、まだ昼までにはだいぶ時間がある。
エアコン熱やらビル熱やらがない自然の中にあっては、午前中はけっこう涼しい。
僕はその空気がとても好きだった。
「――そう」
星華ねえは、もう一度目を閉じて小さくうなずいた。

「んー、今年も見られなかったなあ」
お屋敷に至る途中にある麦畑は、もう丸坊主だ。
僕は毎年、春夏冬やゴールデンウィークに「本家」に帰省するけど、
麦の刈り取り期は初夏だから、僕は刈り取る直前の実った畑を見たことはない。
ここからちょっと下ったところにある水田の風景も好きだけど、
この麦畑が実っているところに出会わせられたら最高だろうな、と思う。
「彰は、麦畑が好きだな」
星華ねえは、刈り取られた後の切り株が広がる畑を見ながら言った。
「うん」
僕は、麦畑が好きだった。
実際、このあたり一杯に広がる麦畑は、実がなる季節だったらさぞかし壮観だろうと思う。
「……誰かさんと、誰かさんが、麦畑……」
歩きながら、星華ねえが歌いだした。
びっくりするくらいに、きれいな声。
普段あまりしゃべらない星華ねえは、実は歌がものすごくうまい。
中学時代、合唱部の顧問の先生が泣いて入部を頼んだというくらいだ。
化学(ばけがく)一筋の星華ねえは、きっぱり断ったのだけど。
学校の音楽の時間を除けば、星華ねえは、家族──嬉しいことに僕も含まれる──以外の人間の前で歌うことはない。
でも星華ねえは、すぐに歌詞をつけることをやめ、突然続きをハミングにした。
「フフッフフッフフッフフッ、フフフフフーフフー……」
「あはは、星華ねえ。歌詞忘れたの? 手抜き、手抜き」
「……ここからの歌詞は、たくさん種類があるから……」
「あ、そういえば……」
いわゆる「誰かさんと誰かさん」はスコットランド民謡で、日本語の訳歌詞は一つではない。
一番有名なのは、「チュッチュチュッチュしている、いいじゃないか♪」とつながるもので、
これは、テレビで大人気だったお笑いグループが歌って広めたものだ。
その元になったとされるバージョンは
「こっそりキスした、いいじゃないか♪」や「かくれてキスしてる、いいじゃないか♪」とも言われる。
原曲歌詞とは完全に異なる「夕月晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫鳴く」と歌う「故郷の空」という唱歌もあるのだ。
僕は、ドリュフの歌う「チュッチュッ……」のバージョンを歌おうとして──押し黙った。
星華ねえが、歌いだしてから突然ハミングに切り替えたわけも、分かった。

──僕と星華ねえは、この麦畑でキスしたことがある。

キスといっても、たいしたことではない。
当時、小学校に上がるか上がらないかの頃だった僕が、この辺りまで遠征に行くとき、
その保護者は、三つ年上で、その頃、小学校の三年生か四年生だった星華ねえだった。
星華ねえが帰ってくるまでは遠出が出来なかった僕と、三姉妹の末っ子で僕と同い年の陽子は、
早く星華ねえが帰ってこないかと、門の前で首を長くして待っていたものだ。
麦畑は、僕のお気に入りの遊び場で──もっとも中に入って荒らすようなことはしないが──、
星華ねえと僕(と陽子)は、何度もこの辺りまで出かけた。

思い出した。
ある時、陽子が珍しく熱を出して寝込んだ日、
看病は美月ねえとお手伝いさんたちがするというので、僕は星華ねえと二人で麦畑に来たんだ。
その前の晩にドリュフを見て歌詞を覚えた僕は、大声で麦畑の歌を歌っていたんだけど──。
「――チュッチュッチュッチュッしている、いいじゃないか……」
僕に合わせて歌ってくれてる星華ねえの声に聞きほれてしまった。
星華ねえは、ドリュフ版の麦畑の歌をうたいおわると、呆けたような僕を見てちょっと笑い、
今度は、自分が一番好きな歌詞で歌い始めた。
「――誰かさんと誰かさんが麦畑。こっそりキスした、いいじゃないか。
私にゃいい人いないけど、いつかは誰かさんと、麦畑……」
その声があんまりきれいだったから、僕は、ついつい
「星華ねえは、いい人って、いないの?」
と聞いてしまった。
「……」
星華ねえは、無言で僕を見た。
僕は、どきりとした。
表情があまり変わらない星華ねえの感情を、僕はなぜか分かることができる。
なぜ分かるのか──そりゃ「家族」だもの。
でも、その時、星華ねえが何を考えているのかを僕は分からなかった。
嬉しいでも、哀しいでもなく、怒っているのでもなく──今まで僕が見たことがない感情。
だから、僕は、星華ねえが無言のままその顔を近づけてきても、金縛りにあったように動けなかった。
そのまま、星華ねえの唇が、僕の唇に重なっても。
「――彰に、そうなってほしい」
唇を離した星華ねえが、そう呟いても。
僕は、目をまん丸に見開いて、星華ねえの美貌を見つめるほかに何も出来なかった。

「……」
そんなことを思い出して、僕は黙りこんでしまった。
「……」
星華ねえは、もともとが無口だ。
ハミングのまま、歌い終わると、口を閉ざす。
いつもの風景だけど、僕はちょっと息苦しくなった。
だって、今年の夏、僕が「本家」に来た目的は──。

──ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。

──ど、ど、ど、ど、ど。

「――!?」
僕は、地面がぐらりとする、めまいのような感覚を覚えてたたらを踏んだ。
「……」
星華ねえも立ち止まっている。
その目は、向こうに見える「御山」――お屋敷の方向を見ていた。
「……星華ねえ……」
「……「御山」の<流れ>が、また悪くなっている……」
ぽつりと言った星華ねえのことばを、僕は理解することが出来た。
……僕は、そのためにこの夏、この場所にきたのだから。

──星華ねえ。今、僕の目の前にいる女(ひと)と交わるために。
──交わって、子を為すために。

志津留家は、平安から続く名門・七篠家の支族で、この家自体も千年続いた名家だ。
──平安の闇から生まれた七篠家と、その七つの支族は、
たった十数人の一族郎党で、強大な「敵」と戦うために、
一族を増やし、「血」を重ねて強化することで力を得てきた。
怨敵を滅ぼした後もその「血」の力は、「ものの流れ」を感じ取り、操ることで一族に繁栄をもたらした。
……でも、その繁栄は、七篠総本家から分かれて以来連なる「血」の為せる業だった。
志津留家の事業が成功してきたのも、力のある「血」を以って
お屋敷のある「御山」の地脈を操ることで為されたものだと言っていい。
そして、「力」を「血」に秘めた一族は、子供に血をつないでいくことでしか繁栄を得られない。
だからこそ、「本家」は薄まりつつある一族の「血」を再度結集することを決めたのだ。

──もっとも志津留の「血」を色濃く引き、そして一族の中で唯一の若い男である僕と、
現在の「本家」の三姉妹、その中でも最も強い「力」を持つ星華ねえとを交わらせることを。

「――志津留家の「血」は、他の六支族に比べて、だいぶ薄まっています。
本来、最も志津留の「血」が濃く出ていた私が、あなたのお父さんと結ばれるために
家の外に出たせいで、本家に残った「血」は弱まってしまったのです」
目を伏せ、申し訳なさそうに説明した母さんは、いつもの母さんではなかった。
父さんと母さんが結婚するのに、「本家」との間でなにか揉め事があったのは、
子供心にも気付いていた。
夏休みや冬休みといった長期の休みの間中、僕が本家に行くようになっていたのも、
最初の一、二年以外は、両親がそれに付き添うことがなくなっていたのも、
何か理由があることなのだろうとは思っていた。
だけど、それがこんな荒唐無稽な話だったなんて……。

「――子供を作る?! ――星華ねえと、僕が?!」
母さんから言いわたされたその話は、僕にとって青天の霹靂だった。

しかし、僕は、そんな家のしがらみをすんなりと理解することが出来た。
なんとなく、志津留の家が普通とは「ちがう」ことはもうずっと前から気がついていた。
それがどうやら、婚姻と血縁関係の中にあるものだということも。
けれど、頭で理解していても、それが逃れられない宿命だとわかってしまっていても、
僕の心の中は複雑だった。

……星華ねえと、子供を作る?
生まれてからずっと姉弟のように育ち、仲良く遊んできた女性と?
僕は、その話を聞かされたとき、足元の地面が崩れるような衝撃を受けた。
家族──実の姉と交われ。
そう命令された人間のように、僕はショックと本能的な嫌悪感を抱いた。

星華ねえ。
僕は、この女(ひと)のことが大好きだ。
でも、それは、姉のような存在という意味で、であって、
夫婦だとか、子作りの相手とか、そういう生々しい行為の対象としてではない。
星華ねえ。
他の人たちとは「違う」力を持って生まれてしまった僕にとって、
同じ力――それも僕よりも強い力を持っている星華ねえは特別な存在だった。
その力に、従っているわけではない。
人の身で、人のものではない力を備え、時々それに飲み込まれそうになる子供にとって、
その力を冷静にコントロールすることが可能だと、身を持って指し示してくれる女(ひと)は、
どれほど大切な存在であったろうか。
僕は、時々暴れそうになる志津留の血の力を、星華ねえのまねをすることで抑える術を知った。
星華ねえといっしょにいるだけで、ことばも交わさずその側にいるだけで、
僕は、やってはいけないことと、やるべきことの両方を教わった。
僕が、今、僕という「人」でいられるのは、まったく星華ねえのおかげだった。

……その人と、獣のように交わって子供を作るだなんて、
──それは僕が今まで生きてきて築いた「良い思い出」を、すべてぶち壊してしまうようなものだ。

だけど、僕はその「お定め」から逃れられない自分を一瞬で悟ってしまっていた。
目を伏せた母さんが、ぽつぽつと語る、志津留家の話が本当のことだというのにも。
いままで漠然と感じていた不思議が、ジグソーパズルがぴたりとあてはまって完成したように
すべての答えに導かれたことで。
……けれど、頭で理解したって、心が納得しない。
納得しないまま、僕はここまで来てしまった。

僕は、隣を歩いている星華ねえから、そっと視線を外した。
その時、自分たちが三叉路にさしかかっているのに気が付いて、僕は咳払いをした。
「……そ、そうだ。お屋敷に行く前に、シロに会っていこうよ!」
「……」
星華ねえは、無言でうなずいた。
三叉路のこっちを行くと──志津留の馬場。
シロとは、そこで飼われている白い馬のことだ。
今は亡き伯父さん──星華ねえたちのお父さんが、知り合いの馬主から引退した競走馬を譲り受けたものだ。
──ハムスターはハム公、犬はポチ、九官鳥はキューちゃん。
おおよそ、動物の名前というものに関して、ひねりというものを全く入れない伯父さんのせいで、
競走馬らしいかっこいい名前を持っていた牝馬は、みんなからシロと呼ばれるようになった。
その名の通り、真っ白な馬で、牡馬と見まがうばかりに大きなシロは、
身体は大きいけど、性格がおとなしくてなかなか勝てないままに引退したらしいけれど、
ここにもらわれてきて、良かったと思う。
志津留は、一応近所の神社の宮司ということになっているので、
白馬のシロは、神馬として大切に扱われている。
僕は、帰省のたびに、シロに乗ることを楽しみにしていた。

馬場と言っても、それほど大きなものではない。
一応、このあたりに二つある神社のうちの一つ、
みんなから「上の神社」と呼ばれている神社の宮司を兼ねている志津留家は、
神馬として、二頭の馬とその牧場を所有している。
引退した競走馬を引き取って飼っているのだけど、その二頭が神馬らしいことをするのは、
実は志津留家の「上の神社」のほうよりも、街の「下の神社」に貸し出されたときのほうが多い。
この街には、ふたつの神社がある。
「上の神社」は、志津留家の私有地の中にあり、参拝する人間もいないけど、
駅の近所にある「下の神社」は、田舎町にしてはかなり大きくて、かなり有名だ。
理由は、馬に乗って走りながら弓を放って吉凶を占う神事、流鏑馬(やぶさめ)が行なわれる珍しい神社だから。
でも、「下の神社」は、本当は馬を常時飼っていられるほどではないので、
県内屈指の実業家の顔を持つ志津留家が飼っているシロたちや
近くの乗馬クラブから馬を借りて流鏑馬を行なうことにしている。
志津留は、こうしたところで地元に協力して、地盤を固めているのだ。

「……あれっ? 誰かいる……」
馬場に近づいた僕は、牧場をのんびりと歩いているシロの他のもう一頭、
アオと呼ばれている葦毛の馬が人を乗せて駆け足をしているのに気がついた。
乗り手は馬の世話をしている宍戸さんではない。
誰だろう。
「――」
それが女の人だと分かる前に、その人を乗せたアオは猛烈な勢いで駆け寄ってきた。
「――志津留先輩っ!」
「……マサキか」
星華ねえが言うと、アオから飛び降りた女の人――というにはちょっと年齢が若いか。
僕より一つか二つくらい上の女の子は、顔を赤らめた。

「……流鏑馬(やぶさめ)の練習か」
ああ。なるほど。
街にある「下の神社」は、流鏑馬を行なうことでちょっと有名な神社だ。
他の神社と違って、「ナントカという故事に倣って、女の射手は巫女の格好で騎射する」という風習のため、
今では全国から観光客が訪れるほどになっている。
駅裏の繁華街では<巫女さんバー>なるあやしげな飲み屋さんができるほどの観光資源だ。
二、三年前から突然有名になったけど、神社自体はそれほど大きくないから、自前で神馬を飼うほどではない。
志津留家や乗馬クラブから馬を借りるのだけど、流鏑馬の出場者の練習も、そこでやらせてもらうしかない。
だから、毎年の出場者はこの馬場に練習しに来るのだ。
シロとアオの一年で一番大きな仕事は、この練習と流鏑馬だといっていい。
マサキ、と呼ばれた女の子は、今年の出場者なのだろう。
「……先輩……この子は?」
マサキさんは、星華ねえの隣に立っている僕に気がついてじろじろと眺めた。
さっき、星華ねえに声を掛けられて真っ赤になったときとはまるで別人の冷たい目だ。
そうすると、美人、と言ってもいい顔立ちが険を含んで台無しだ。
「彰。私の従兄弟。――明日から、旦那」
ぶっ!
星華ねえの爆弾発言で、僕はもちろん、マサキさんまで飛び上がった。

「せ、星華ねえ……」
「あ、あは、あはは……志津留先輩、冗談がキツいんだからぁ〜」
「……」
マサキさんが笑い出したが、星華ねえは無言のままだった。
その無言の意味を、僕はわかっていた。
星華ねえは、冗談のつもりで言ったんじゃない。
後輩だという、この女の子に詳しく説明する必要を感じなかったので、それ以上は口に出さないだけだ。
でも、マサキさんはその沈黙を肯定の意味でとらえたらしく、話題を変えてまた話しかけはじめた。
「先輩、今年は私、頑張りますよ! 三年前の先輩みたいに、全部命中させますっ!」
「……」
星華ねえは無言でこっくりとうなずいた。
マサキさんがまた真っ赤になる。
「ええっと……星華ねえ、この人……」
「正木真紀(まさき・まき)。高校の後輩」
星華ねえは、そう言った。
「よ、よろしく……」
僕は軽く頭を下げたけど、マサキさんは──。
「それより先輩っ! 私の騎射、見てもらえませんか?」
と星華ねえに声を掛けた。
無視された形の僕は、ちょっとムッとした。
何か言おうとしたとき、後ろで、ブルルっと鳴き声がした。
「――シロっ!」
僕は不愉快な気持ちをすっかり忘れさって叫んだ。
真っ白な大きな馬が近寄って、僕に顔を摺り寄せる。
シロと僕は仲良しだ。
アオとも仲がいいけど、二、三年前にこの馬場にやってきた葦毛さんと違って、
シロは僕が子供の頃からここにいる。
僕と、星華ねえの妹で僕の同い年の陽子が、はじめて乗った馬もシロだった。
年に何回も帰省する僕のことを、シロは志津留家の人間と認識してくれているらしく、
三姉妹と同じように気を許してくれる。
「あはは、ごめん。今日は人参ないよ。今度もって来る」
頭をなでると、シロはブルルっとまた鳴いた。

「あら仲良しね。じゃ、シロさんのお相手をしていてくれないかしら。
私は、ちょっと先輩とお話があるから……」
シロにじゃれ付かれている僕を見たマサキマキ──うん、さん付けはやめよう。
年齢は上そうだけど、別に僕の先輩というわけでもないし──が、猫なで声で言った。
「……いや。シロの顔を見に来ただけだから。彰、帰ろう」
星華ねえは、くるっときびすを返した。
シロが、ブルルと、鼻息をあげて、僕から離れる。
この優しいお婆さん馬は、空気を読めるということでは人間以上だ。
「あっ……、せ、先輩っ……!!」
マサキマキはあわてたが、シロが促したアオが、ヒヒーンと鳴いて辺りを駆け足しはじめると、
馬と、振り向きもしないで道を戻り始めた星華ねえを交互に見比べ、やがて、
「もぉっ!!」
と怒ったような声を出してアオのほうに駆け寄った。
──すれ違う瞬間、僕にものすごい視線を投げかけて。
ああ、神様。
見るだけで他人を石に変える女怪物メデューサは、きっと心優しい穏やかな女性です。
……今のマサキマキに比べたら。
「ま、待ってよ、星華ねえ……」
僕は、大急ぎで白衣姿の背中を追った。

「……あの人、今年の出場者なの?」
なんとなく気になった僕は、マサキマキのことを星華ねえに聞いてみた。
「……」
無言でうなずく星華ねえ。
「高校の後輩って……化学部?」
「そう」
星華ねえは中学から、部活は化学一筋だ。
家でもフラスコだの試験管だの、へんてこな薬品だのが離れにいっぱい置いてある。
大半は、もともとお祖父さんの集めていたものだというけれど。
「化学部には見えなかったなあ、あの人……」
きりりとした感じと、あの年齢でアオをかなり上手く扱っていた運動神経は、文科系部員に見えない。
もっとも、文科系と言ったって、星華ねえのような例外はあるけど。
「――活動はしてなかったから。幽霊部員」

「へえ……。なんでまた、化学部に?」
「……私がいたから、らしい」
「え?」
「……ラブレター、もらった」
「えええっ!?」
僕は一瞬驚いたけど、なんとなく納得した。
美月ねえと、星華ねえは、地元では有名人だ。
ここらあたり一番の素封家のお嬢さんというだけでなく、文武両道の才媛として名高い。
あまりにお嬢様すぎて、男は近づかなかったし、友達と呼べる女の子もいなかったけど、
その分、年下の女の子たちからは「理想のお姉さま」と憧れられていた。
バレンタイン・デーに、ラブレター付の手作りチョコの山を前にして
美月ねえがはてしなく凹み、星華ねえがこめかみをおさえる姿は、学生時代の慣例行事だった。
礼儀として一口ずつ味見したあと、二人はそれをチョコケーキやチョコクッキーに作り変えて、
みんなのおやつにしてくれたので、僕と陽子は二月の後半をひそかに楽しみにしていた。
「――今年のケーキ、いい出来だよ! ゴヂバをくれた女の人いたんだって! ゴヂバ!」
「へええ。楽しみだなー」
「今日送ったから、着くのは明後日くらいかな。あたしは今日美味しくいただいちゃったけど、にしし」
「あー、ずるいぞ、陽子っ!」
そんな電話は毎年恒例だったから、星華ねえが女の子からモテるのは知っていた。
マサキマキもそういう娘の一人だったのだろう。

「……三年前、覚えてる?」
星華ねえがふいに言った。
「ええっと、流鏑馬?」
「そう」
反射的に返事をしてから、思い出した。
マサキマキも言っていた三年前の流鏑馬に、星華ねえは出場したことがある。
「ええと、うちの馬場で練習していた人が怪我しちゃって、
どうしても代役がいなくて、星華ねえが出た、あれ?」

僕らの志津留家は、平安時代、物の怪(もののけ)を討伐する技として生み出された弓術を受け継いでいる。
でも、それはいわゆる普通の弓道とは目的も手段も異なる異形の弓術だから、
一族の人間は、決して表の弓道にはかかわらない。
「型だけの継承ですので」
と言って、門弟すら取らない「枯れた」流派を装っている。
でも本当は、的に当てる──敵を屠ることだけを言ったのならば、一族の人間は、
みな熟練の猟師以上の腕前を持っている──むろん、星華ねえも。
胸とお尻のあたりはともかく、全体としてはほっそりとした印象の星華ねえも、
弓を持ったら、灰色熊(グリズリー)に襲われたって平気だ。
現に僕は、まだ小学生だった星華ねえが数十頭もいる野犬の群れを、短弓ひとつでまたたく間に蹴散らしたのを見ている。
──そんな弓術を表に出す必要はないし、また出す気もない。
それが志津留の──あるいは七篠一族の考え方だった。
星華ねえも、それにしたがって弓術の腕前を外で披露したことがないが、
その時、怪我をしてしまった女の人の代理を買って出たのは、唯一の例外だった。

「そう。――その怪我した人と言うのが、マサキのお姉さん」
星華ねえが、そう言ったので、僕はなんとなく事情がわかった。
あの年。
巫女装束に身を包んで白馬に乗った星華ねえは、誰もが息を飲むほどに美しかった。
その年の競技者でただ一人の全的命中、というのもみごとなものだったけど、
当時はあまり有名ではなかったここでの流鏑馬が、一気に全国区のものになったのは、
星華ねえが出たその回の盛り上がりが、あまりにもすごかったからだ。
沸き立った会場からは、これを観光資源として全国にアピールする案が生まれ、即座に可決された。
もっとも、星華ねえは、このとき以外、商工会議所の人たちにどんなに頼まれても二度と流鏑馬には出なかったので、
「下の神社」の流鏑馬は、「行ってみると、巫女さん射手は噂ほど美人じゃない」
と酷評される年が多いものになってしまったけれども。
──あれを間近で見たのなら、マサキマキが、星華ねえの熱狂的なファンだというのもわからないでもない。
僕や陽子だって、あのときの星華ねえのことを、魂を抜かれたようにして見ていたのだから。
ましてや、お姉さんの苦境を救ってくれた人なら、
同じ高校に通い始めて、同じ部活に入って追い掛け回すくらい考えてもおかしくはない。
「……困る」
星華ねえが、ぼそりと呟き、僕は苦笑した。
たしかにあんなクセがありそうな女の子に卒業後もまとわりつかれたら、それはそれで大変だ。

──それからは特に何があったわけでもなく、僕たちはお屋敷に着いた。
お祖父さん──僕の母と、美月ねえ達の母親のお父さん──は不在で、
その補佐をしている美月ねえも夕方まで帰ってこない予定だったし、
陽子も学校で部活──ソフトボール部の練習があったから、僕らは、ふたりでお昼ごはんを食べた。
鶏の水炊き風スープと、ヒジキと枝豆のまぜ御飯。
「――ごちそうさま」
「……おそまつさま」
箸を置くと、星華ねえが応えた。
星華ねえは、無口で、挨拶も会釈だけで済ませることもけっこう多いけど、
この手のあいさつだけは欠かさない。
小さいとき、僕たちのお祖母さんから習ったことばだからだ。
「自分の作った料理を、卑下するのはおかしい。日本語のよくないところだ」という人もいるけど、
星華ねえや僕らにとっては、そういう小難しい世界標準はどうでもいいことだった。
目の前の女(ひと)が作った料理がおいしいかどうかなんて、家族ならことばにしなくても分かる。
そんなのは、見たものを見たまま、聞いたことばを聞いたままにしか捉えられない人が気にすればいい。
星華ねえは、台所へ行ってさっさと作ってきたけど、すごく美味しい。
はっきり言って、お手伝いさんの誰が作るのよりも。
本当なら、星華ねえは志津留「本家」のお嬢様だから、そんなことをする必要はない。
でも、この女(ひと)は、一人でいるときや、美月ねえがいないときは、
家族の分の食事は極力自分で作ろうとする。
「本家」の三姉妹は、すごいお嬢様だけど、
こうしたところが逆に千年も続いた本物の旧家らしいのかもしれない。
そして、僕は三姉妹のそういうところがとても好きだった。
「……星華ねえ、あのさ……」
そんなことを思い出した僕は、こちらも食べ終えて麦茶を飲んでいる星華ねえに声を掛けた。
「さっきの話なんだけど……」
「……「お定め」のこと?」
星華ねえは、目を上げて僕を見た。
まっすぐに。
この女(ひと)は、視線もことばも常に最短距離をまっすぐに行く。
僕は、次のことばを捜すのに、ちょっと戸惑ってしまった。
「あ、うん……いや、いいんだ。後で……」
そう言ってことばを濁した僕は、逃げるようにして居間を後にした。

僕の部屋に戻る。
長期の休みのたびに帰省する僕のために、一年中用意されている「僕の部屋」だ。
小さな卓に頬杖をついて、中庭を眺める。

「彰。私の従兄弟。――明日から、旦那」
「……「お定め」のこと?」

さっき、星華ねえが、あっさりと言ったことば。
僕は、それを何度も頭の中で反芻していた。
旦那ってことは──やっぱり、僕と結婚することを言っているのだろうか。
僕はまだ十六歳で、法律上、結婚はまだ出来ないけど、
子作りは、この夏のあいだに済まさねばならないことになっている。
婆(ばば)さま──お祖父さんのお姉さん、僕にとっては大伯母さんが見て取ったことには、
志津留家が新しい当主を得なければならないタイムリミットは、もう一年を切っているらしい。
だから、僕は星華ねえとの子作りのために呼ばれたのだけど、
星華ねえが、それをあんなにあっさりと口にすることは思わなかった。
ことばも行動も直球な星華ねえらしいけど、こんなことまであんなにあからさまとは思わなかった。
僕は、ぼんやりと、星華ねえは「お定め」をどう考えているのだろうか、と不思議に思った。

星華ねえは、三姉妹の中で、なんというか、特別な人だ。
三人の中でも、もっとも志津留の力が強い──僕の母さん、本来、当主となる子を産むべきだった人と同じくらい――し、
小さな時から、お祖父さんやお祖母さんに連れられて、志津留の「お仕事」を手伝っていたらしい。
長女の美月ねえは、当主補佐として、志津留の表のお仕事を切り盛りしているけど、
星華ねえは、僕らが中身も知らない、志津留の真の姿を担っている。
──親戚、七篠の七支族の人たちの中には、星華ねえを「志津留のヒメ」と呼ぶ人もいる。
志津留の血脈をつなぐ、大切な人、と言う意味をこめて。
「次代の当主となる子を産むこと」は、星華ねえの仕事らしい。
それは、他のことのように、星華ねえに定められたこと。
そして、星華ねえは、それを運命として受け入れる。
まるで、志津留という途方もなく大きな機械の、一番重要な歯車のように。

「彰……起きてる?」
ふいに、ふすまの向こうから声がした。
星華ねえだ。
「あ、うん、寝てないよ」
僕は慌てて返事をした。
いつのまにか、辺りは夕焼けのオレンジ色に染まっていることに気付いてびっくりする。
「入っていい?」
「う、うん、どうぞ……」
ふすまが開き、星華ねえが入ってきた。
シャツと、タイトなGパンと、ノリの利いた白衣。
いつもと同じ星華ねえ。
でも、いつもと同じ、表情に乏しい美貌は、夕日の光線の中、はじめて見る人のようだった。
「――」
僕は、息を飲んで星華ねえを見つめた。
「……」
星華ねえは、僕の部屋をぐるっと見渡した。
聞こえるか聞こえないくらいかの、かすかな吐息が漏れる。
それが星華ねえの微笑だということを、僕は知っている。
夕日の中、見知らぬ美人が、僕の知る星華ねえに変化した事を僕は気付いた。
「……彰は、散らかし名人だな」
「……ごめんなさい」
「片付ければ、いい」
短く返事した星華ねえは、もう床に散らかった僕の荷物をしゃがみこんで片付け始めていた。
あたりに散らばる着替え類を、たたみなおして風呂敷に包む。
僕は、服をたたむのも風呂敷に包むのも苦手だ。
Tシャツを一枚引っ張り出すのに、一回あけてしまったら最後、
風呂敷は絶対に包みなおせない。
というよりも、中に入れる服の容量のほうが、風呂敷の容量より絶対に多く感じられる。
だけど、星華ねえの手にかかると、僕の着替えは、随分小さくまとめられてすんなり風呂敷の中に納まった。
星華ねえは、ときどきこういう魔法を使う。
お祖母さんから習った魔法。――お裁縫とか、洗濯とかは星華ねえの得意技だ。
「――彰、……これは?」
最後の仕上げに、僕のリュックを部屋の隅に片付けていた星華姉(ねえ)が、ふとこちらを見た。

「あっ……!!」 やばい、見つかった!
──星華ねえの手にあるのは、「明るい家族計画」。
従姉妹相手に子作り、という話に、どうしても納得いかない僕が、
新幹線に乗る前に駅前の薬局でこっそり買ってきたものだ。
リュックの横側にある水筒とか傘とかを入れるスペースに押し込んどいたんだけど、
カバーのボタンが外れて、外に飛び出したらしい。
コンドームを買って、どうしようとか深く考えたわけではない。
準備と言うよりは、お守りのようなものだ。
でも、それを目にした星華ねえは、一瞬で状況を理解したようだった。
「……」
星華ねえは、いつものように無表情のままだ。
──でも、僕は金縛りにあったように身体が動かなくなった。
(星華ねえ、怒ってる……)
それも、激怒と言っていいくらいに。
他の人間にはわからないだろう。──たぶん、美月ねえと、陽子と、僕以外には。
星華ねえは、しばらく黙っていたけど、やがて口を開いた。
「――彰。これから私と子作りをするのに、なぜこんなものが必要なの?」
星華ねえの瞳が、僕を見据える。
「……あ、あの…」
僕は舌をもつらせながら、やっと声を出した。
ゆらぎのない、どこまでも真っ直ぐな視線。
それの前では、どんなことばの弁解も無意味だと言うことを、僕は知っていた。
星華ねえは、無表情のまま、<明るい家族計画>を僕に返した。
「……私は、こんなもの、要らない。彰相手のセックスで、避妊はしないし、したくもない」
断言。星華ねえが一度言い出したら、変えることは不可能だ。
「……はい」
僕はそう答えるしかない。
「今晩、待ってる」
何を待っているのか、間違えようがない言い方だった。
星華ねえは、つ、と立ち上がった。
「せ、星華ねえ、どこに──?」
「お風呂。身体を磨いてくる。何か準備が必要なことをしたいなら、言って。――何でもする」
星華ねえは、真っ直ぐ僕を見つめたままで、そう言った。


夕飯が終わり、お風呂に入る。
その間の二、三時間のことは、まるで幻の中にいるようだった。
街から帰ってきた美月ねえ──三姉妹の長女、や、
学校から戻ってきた陽子――三姉妹の末っ子、との再会の挨拶も、どんなものだったか覚えてない。

(これから、星華ねえとセックスする)

僕の頭の中は、それだけがぐるぐると渦巻いていた。
夕飯の最中、たぶん、僕は何度も星華ねえのほうを見たと思う。
あるいは、逆に、顔も上げられなかったのかも。
見ていたとしたら、そこにはきっと、いつもと変わらない静かな星華ねえがいたと思う。
どんなときでも冷静で我を忘れない、志津留のヒメ。僕の尊敬する心の師。
その人と交わる。
──渡り廊下を通って、星華ねえの離れに来た時、僕の心は期待よりも不安でいっぱいだった。

震える手で、ドアをノックする。
「入って」
間髪いれずに返事がかえってくる。
僕はドアを開けた。
星華ねえの部屋は、もとは「ばっちゃの機織(はたおり)小屋」だった。
「ばっちゃ」とは、つまり僕らのお祖母さんのこと。
──意外にお祖母ちゃんっ子だった星華ねえは、その人をそう呼んでいた。
お祖母さんが亡くなられたときの形見分けで、星華ねえは裁縫道具とかを全部譲り受けた。
小さい頃から、星華ねえは、お祖母さんが機織部屋で機を織ったり、繕い物をしているのを
傍でみているのが大好きな女(ひと)だったから、当初、壊すことになっていた小屋は、
星華ねえの部屋に改造され、母屋と渡り廊下でつなげてもらうことになった。
機織の機械は、お祖母さんの晩年のころから壊れて使われなくなっていたのでさすがに処分したけど、
丈夫な小屋は、当時のままの雰囲気をずっと残している。
その中に、その雰囲気の部屋の中央に、黒い大きなテーブルが置いてある。
そこには、理科室においてあるようないろいろな実験器具や薬品やらが置いてあって、
──その向こうに、白衣姿の星華ねえがいた。

「……二階に行こう」
なにかの薬品を試験管から、小皿の上の脱脂綿にしみこませている作業をしていた星華ねえは、
それが終わると、椅子から立ち上がって声をかけた。
器用な指先が、薄緑色の液体を操る様に見入っていた僕は、びっくりして、それからうなずいた。
星華ねえは、部屋の奥にある階段を上り始めた。
途中でちょっと立ち止まって、こちらを見る。
「ドア、閉めといて」
僕は、星華ねえを見つめるのに心を奪われ、後ろのドアを閉めることも忘れていたことに気がついた。
あわてて閉めて、星華ねえを追う。
機織小屋は、小屋と言っても、二階――というか屋根裏部屋──のあるかなり大きな建物だ。
星華ねえは、階下を丸々実験室に使い上の階を私室にしている。
ベッドと、本棚と、ソファ。
それに自作のパソコンが何台も置いてある机。
──女の人の部屋にしては殺風景だけど、不思議に優しい感じがするのは、
それらにまじって、古風な桐の箪笥が置いてあるからかもしれない。
お祖母さんの嫁入り道具だったそれは、形見分けの時、真っ先に星華ねえに譲られたものだ。
「……」
何度も来たことのある部屋だけど、僕は思わずあたりを見渡してしまった。
「……座って。……ベッドのほう」
声を掛けられて、思わず普段のようにソファのほうに行こうとした僕は、あわててその声に従う。
ぽふっ。
座ってから、それが、星華ねえが毎日寝ているベッドだということに思い至ってどぎまぎする。
「……」
何か言おうとして、――何も言えなかった。
星華ねえは、折りたたみ式の小さなテーブルを引っぱり出してきて、
その上にさきほどの小皿を置いた。
白衣のポケットから、アルコールランプに火をつける道具を取り出して、火をつける。
ふわ……。
優しい香りが当たりに漂った。
「これは……?」
「香油。気分が楽になって、あそこが元気になる」
星華ねえは大真面目な顔で答え、僕は思わず咳き込んでしまった。

星華ねえの言ったとおり、火がついた香油の出す甘い匂いは、
なんだか気持ちを楽にしてくれるような気がした。
「裸になって」
「えっ……えっ?」
小皿の上でちろちろ燃える火から視線を戻すと、
星華ねえは、脱いだ白衣を壁のハンガーにかけるところだった。
白い手は、一瞬の遅滞もなくブラウスのボタンを外して行く。
タイトなジーンズがするりと脱ぎ落とされたとき、思わず僕は目をそらした。
薄い水色の、下着姿の星華ねえから。
それは、神聖なものをまじまじと見る不信心を、精神がとがめたのかもしれない。
震える手で、僕は自分の服を脱ぎ始めた。
シャツとパンツだけの姿になったとき、さすがに手は止まった。
思わず星華ねえのほうを伺って、――息を飲んだ。
星華ねえの白い裸体が、目の中に飛び込んできたからだ。
「どうしたの? 全部脱いで」
僕を真っ直ぐに見つめながら、星華ねえはそう言った。
「あ、ああ、う、うん」
言われるままに、脱ぐ。
最後の一枚は抵抗があったけど、目をつぶって、脱ぐ。
「そこに腰掛けて」
目をつぶったまま、僕はうなずいた。
尻餅をつくようにして、ベッドに腰掛ける。
素肌のお尻に、星華ねえの使っているシーツのすべすべした感触がくすぐったい。
「……」
その時、僕は、不思議と目を開こうと思わなかった。
星華ねえが、今、目の前で裸になっているというのに……。
そのことの意味を考える前に、すうっと、気配がした。
誰かが、僕の前でしゃがみこんだ気配。
──誰かということはない。それは、星華ねえだ。
僕が目を開けた時、星華ねえは、ベッドに腰掛けた僕の腿のあいだに顔を近づけていた。
「……彰、元気ない」
うなだれたままの僕の股間を見つめ、星華ねえは、さらに顔を近づけた。
「――私が元気にしてあげる」

星華ねえが、僕のあそこに唇を寄せる。
呆然とそれを眺めていた僕は、おち×ちんに、星華ねえの温かな息がかかって我にかえった。
「せ、星華ねえ、だめ……そんなこと」
僕だって、星華ねえがしようとしている「それ」が何かくらいは知っていた。
フェラチオ。
女の人が、男のあそこを口や唇で愛撫する性戯。
年頃の男子のたしなみとして、アダルトビデオや、小説から、そうした知識は得ている。
でも、それを自分がされる──星華ねえにされるとは、夢にも思わなかった。
遠い昔から、ずっと尊敬し、信奉してきた相手から。

そう。
僕にとって、星華ねえは、女神様だった。

「……彰も、見えるの?」
僕が覚えている、星華ねえとのはじめての会話はそれだった。

二歳の頃から、「本家」にいられる時間はできるだけ「本家」で過ごす。
それが、家に決められた相手ではなく、僕の父さんと結婚するために家を出てしまった母さんが、
交換条件に定められた僕の育成方針だった。
産まれたばかりの子供。夫との愛の結晶を、半分よこせ、と言うような無茶な要求に、
母さんが従ったのは、志津留と言う血族の掟だからではなく、僕の身にかかる危険を察知したからだ。
僕は、見えないものが見える。見えてはいけないものが見える。
人間には、見えないはずのものが。
人間には、見えてはいけないはずのものが。
それが鬼と呼ぶのか、妖しと呼ぶのか、陰陽の気と呼ぶのか、
あるいはもっと根本的な力の流れと言うべきものなのか。
とにかく、僕はそれが見えた。
庭の隅にわだかまる黒い影や、夜の虚空から、じいっとこちらを見下ろす巨大な髑髏や、
僕をあやす人々の肩に止まるどろどろとした塊が。
それは、そうしたものも含めて「力」の流れを見切り、操ることができる志津留の「血」が濃いことの証だった。
生まれた時から見ていれば、触れていれば、慣れるというものではない。
それは人間ならば、本能的な嫌悪感と恐怖心を持つ対象だ。
僕がはじめてしゃべったことばは、――周りに見えるものへの恐れだった。

「恐い──恐い──」
幼い舌を懸命に動かして話しはじめた僕に、母さんや他の人たちは真っ青になった。
志津留の血を引くものなら、そうした物が「見る」ことができる。
家伝の修行によって、その力をコントロールし、「見えなく」することも、
それを操るようになることもできる。
しかし、僕の力は誰よりも強力で、敏感すぎた。
僕が見える物は、<志津留のヒメ>、すなわち「次代の当主か、当主となる子を産める女」とされた母さんにも、見えなかった。
それは、現在の当主であるお祖父さんも、全盛期ならば見えただろうが、
年老いて弱まった今では見えないレベルのものだった。
僕が悲鳴を上げて這いずって逃げようとする対象を、まわりの人間は誰一人として感知することができなかった。
──感知しなければ、守れない。
僕は、世界に満ちた正負の力、そのもっとも濃い影の中でひとりきりだった。
背中にのしかかり、肩口から顔を覗きこむどろどろとした「存在」に金切り声をあげても、
それが見えない周りの人たちは手の施しようがなかった。
恐怖に狂気が混じる寸前──それが白い小さな手で振り払われた。

「……彰も、見えるの?」

それは、僕より少し──三つ──年上の女の子だった。
振り払った先で、どろどろの闇が消滅したのを見届け、僕のほうを向く。
「――私も、見える。だから、安心して。
……すぐにこれから身を守る力も、備わる。――私がそうだった」
五歳の女の子とは思えぬ静かな声と瞳は、その時、僕にとって世界の中心だった。
僕と同じものが──いや、僕よりも強くそれが「見える」星華ねえは、
僕がそれに対する「免疫」を備えるまでのあいだ、ずっと僕を守っていてくれた。
「見える」星華ねえは、僕とまわりの大人たちに、「何がどうなっているのか」をことばで教え、
僕は、はじめて自分を取り巻く状況を母さんたちに伝えることが出来た。
「世界で一人きり」ではなくなった僕は、もっとも弱い時期を、それに飲み込まれることなく過ごし、
成長と同時に自然と「免疫」をつけることに成功した。
「見たくなければ見ないようにする方法」を覚えた僕は、幼稚園に上がる頃には、
美月ねえや、陽子、あるいは一族のほかの人間と同じくらいのレベルで
それを感じられるくらいに、自分をコントロールすることが出来るようになっていた。
──それは、星華ねえ以外の人間とも「世界」を共有することが出来るようになったことでもある。

幼児期を脱した後も、星華ねえは、僕の女神様だった。

成長と同時に、今度は「力」自体も強くなりはじめた僕は、
まわりの大人たちに指導されて、その「力」を支配していく術を覚えた。
──160キロのスピードボールを投げられる素質のある選手に指導できるのは、
それ以上の速い球を投げられるピッチャー、とは限らない。
そんな速球は投げられなくても、さまざまな配球を駆使して、
長年マウンドで戦ってきた経歴を持つコーチの投球術は、
ストライク一つ定められない若者の力を引き出すのには、最適の教科書だ。
僕は、母さんや他の志津留の一族からいろいろなことを学んだけど、
心の中にある、一番の師は──常に星華ねえだった。
大人になるにつれ、星華ねえは、<志津留のヒメ>として「本家」の本職にかかわるようになり、
僕に直接何かを教えてくれることは少なくなったけど、
僕の中には、いつでも星華ねえがいた。
あの日、僕にまとわりついた闇を振り払ってくれた、美しい女神が。

──その星華ねえが、僕の前にひざまずき、僕の性器に舌を這わす。
神聖なものを穢す感覚に、僕は恐怖を抱いた。
「だ、だめだよ、星華ねえ……そんなことをしたら……」
「なぜ?」
「な、なぜって……」
「男の子が元気なかったら、相手の女がこうしてあげるもの。
彰の子作りの相手は私だから、私がこうする。――どこもおかしくない」
星華ねえのことばに僕が絶句しているあいだに、僕の女神様は、それを始めてしまった。

薄桃色の唇が、わずかに開き、僕の生殖器を含む。
同じ色の舌が、なまめかしく動いて、僕の男性器を這う。
ぴちゃぴちゃという、小さな音が耳に入っても、僕はそれを現実のものとは捉えなかった。
僕の分身も。
星華ねえの奉仕を受けても、僕のそれは、まったく反応しなかった。
しばらくして、星華ねえはフェラチオを中断した。
「……」
大きくも堅くもならないでいる僕のおち×ちんを眺め、つ、と立ち上がる。

立ち上がった星華ねえは、棚に並ぶ薬瓶のひとつを手に持って戻ってきた。
瓶の蓋を開け、中の液体──というより粘液──を手のひらにこぼす。
「……それ、何……?」
「ローション。柳町の人たちが使っている」
柳町とは、街の駅裏にある繁華街……いや風俗街のことだ。
普通の飲み屋さんや、巫女さんバーみたいな怪しい飲み屋などもあるけど、
代名詞になっているのは、いわゆる「風俗のお店」が立ち並ぶ一角。
巫女流鏑馬のおかげで「下の神社」が有名になるまでは、
街の有名どころといったら、県下一の店ぞろいといわれる柳町のことだった。
「え……」
「もらったのを見本に、階下(した)で自分で作ってみた。うまく出来たと思う」
手のひらに載せた粘液を僕の股間に塗りつけながら星華ねえが答えた。
「……」
予想もつかない返事の連続に、僕はまた絶句してしまった。
ひんやりとしたジェル状のそれは、つまり、エッチな事をするお店で使うもので、
それを星華ねえは、どこからか貰ってきて、自分で作ってみたらしい。
……どこからって、どこで?
ぬるぬるとした感触は、――僕は経験がないけど、お店で使う本物と同じなのだろう。
「……」
にちゅ、にちゅ。
ちゅく、ちゅく。
ローションの付いた手で、星華ねえは僕のおち×ちんをしごき始めた。
僕が自分でオナニーする時と同じような手つきで、男性器を扱う。
ぬるぬるが僕の生殖器を包み込み、すべすべとした手が愛撫する。
──生理的な興奮を誘うはずの触覚に、僕は身をゆだねることができないでいた。
先ほどのためらいもないフェラチオといい、このローションといい、
まるで何でもないことのように振舞う星華ねえに、僕はうろたえきっていたからだ。
ほかの誰かにしたことがあるような、手馴れた動きは、
女性とはじめて交わる僕を困惑させた。
主人の動揺に連動した股間の分身は、大きくなるどころか、さらに縮こまってしまった。
やがて──。
「今は、だめみたいね……。また、明日にしよう」
星華ねえは手を止めた。

「……ごめんなさい」
「謝ることはない。できるようになったら、すればいいから」
タオルで僕の股間と自分の手を丁寧に拭きながら星華ねえが答えた。
愛撫してもらいながら、男として全然役に立たなかった自分に嫌悪感を抱いて服を着る。
星華ねえが、せっかく「お定め」をしようと協力してくれたのに──。
……「お定め」。
僕は、不意に息苦しくなった。
星華ねえは、それを喜んでやっているのだろうか。
階段を下りながら、僕は先を行く星華ねえに思わず声を掛けた。
「……星華ねえ……」
「何?」
星華ねえが振り向く。
「な、なんでもない……」
「そう……」
表情を変えることない星華ねえが、今、何を考えているのか、
──いつもは読み取れるのに、それができないことに気が付いて、僕は狼狽した。
「……」
ドアの前に行きかけて、星華ねえはフラスコ瓶がずらりと並んだ棚の前で、足を止めた。
「──これは強すぎるか……」
一度手に取った瓶を棚に戻す。
<KURARA>
とラベルが付いた薄青色の瓶には見覚えがあった。
クロロホルムを何倍も強くしたような麻酔作用のあるその薬は、志津留の家伝にある同名の薬を
化学が得意な星華ねえが、お祖父さんと一緒に合成化したものだ。
副作用もなく、眠るように一定時間意識を失うそれは、
小学生の頃も時々闇におびえて眠れなくなることがあった僕の
「最終手段」として使われていたから、僕にはなじみが深い。
それを使わなくなってから、だいぶ経つが、見忘れるはずはなかった。
<KURARA>の瓶を戻した星華ねえは、別のフラスコ瓶を手に取った。
「これ──さっきの香油。火をつけなくても、蓋をあけて部屋に置いとくだけでいい。
気持ちが落ち着いて、よく眠れるから──」
フラスコを手渡された僕は、ふらふらしながら星華ねえの離れから立ち去った。

「……」
電灯の下で、僕は天井を睨んでいた。
気力の萎え切った中では、布団を敷くのが精一杯で、
敷き終わるや否や、僕は布団に身を横たえ、でも眠れないでいた。
「星華ねえ……」
声に出して、呟く。
星華ねえは、志津留のお定め──僕と交わって子を為すことを、どう考えているのだろう?
<志津留のヒメ>、すなわち「次代の当主か、当主となる子を産める女」である星華ねえにとって、
それは──義務だ。
千年続いた血を絶やさぬための義務。
そこには、好きとか嫌いとかいう感情の入る隙間はなくて──。
「……」
当たり前のことをこなすように口と手の行為で、僕を愛撫した星華ねえを思い出して、
僕はごろごろと布団の上を転がった。
星華ねえは、もうセックスをしたことがあるんだろうか。
──他の男の人と。
もしかしたら、母さんが父さん以外の人と子作りさせられる予定だったように、
星華ねえは星華ねえで、誰か好きな男の人がいて、もうそうしたことは経験があるのではないか。
母さんの時は、まだお祖父さんの力が全盛期で、
次の当主を作るタイムリミットが迫っていなかったから
志津留のための子作りを拒否することが出来たけど、今は、もうそんな余裕がない。
だから、ひょっとしたら、星華ねえは義務のために自分を犠牲にしているのかもしれない。
「……!!」
僕は、そうした想像に思い至って、息が詰まるくらいに動揺した。
──だとしたら。
だとしたら、僕はどうすればいいんだろう……。

「あーきらっ、起きてる?」
ふすまの向こうから、陽子の声がした。

「お、起きてるよ……」
「ちょっと入っていいかな?」
「あ、ああ」
僕は動揺しながら返事をした。
返事が終わるや否や、ふすまが、すぱーんっ、と音を立てて勢いよく開けられる。
「――あっはっはっ〜! <魔法の美少女ソルジャー・陽子マン>、
なやめる男子高校生のために、ただいま参上〜〜っ!!」
「……な、なんだ、そりゃ……」
飛び込んできた陽子を見て、僕は間抜けな声を上げた。
寝巻き姿の陽子は、アニメチックな女の子の顔を描いたプラスチックのお面をかぶってポーズを決めていた。
お面は、夜店で売っているような子供向けのやつで、ちょっと前まで放映していた作品のものだ。
たしか、お手伝いの千穂さんの息子のケン坊とよく遊んでいる女の子が大ファンで、
一時期ケン坊は、敵役の怪人に見立てられて追い掛け回されていたっけ。
「……あ、あれっ? ノリ悪いなあ……」
呆れて固まっている僕を見て、お面を上にずらし上げた陽子が文句を言う。
「……古いぞ、陽子。だいたい女のくせに、陽子マンってなんだ、陽子マンって」
「あ、それは適当に言ったから……。そっか、あたし女だから……陽子ウーマン?」
「名前の後に付けてどうする」
「うーん……」
「だいたい美少女っていうところからして間違いだ」
どげし。
みごとなキックが決まって、僕は悶絶した。
「源龍天一郎直伝、試練の顔面サッカーボールキック!」
僕と同い年の従姉妹は、女子高生のくせにプロレスの大ファンだ。
「いてっえぇ〜。なんなんだよ、そのお面は……」
「あ、これ? 明日、「下の神社」の夜店で、部活のみんなで売るの。
お面を色々集めたんだけど、古くて売れそうにないやつ、二つ三つもらってきちゃった。
ケン坊の彼女にあげようと思って」
「なんつーか、その……」
「今となってはある意味レアもんなんだぞ。冥王星、今年から惑星から格下げになっちゃったし」
「……なんじゃ、そりゃ」
ケラケラ笑う陽子に、つられて僕は笑い声を上げた。

「……ありがと、な」
「え……」
「元気付けにきてくれたんだろ……?」
何も言わないけど、僕には、陽子がなぜここにきたのかが分かった。
「あ……やっぱりわかった? さっき、渡り廊下を暗ぁーい顔して歩いてたから、さ……。
こりゃ、「お定め」に失敗したかなーって思って……」
「なんでもお見通しってやつか」
「そりゃ、そうだよ。あたしは、星華ねえの妹で、彰とは五分の「兄弟」だもん」
陽子は屈託なく笑ってそういうと、勉強机――こんなものまで用意してもらっているけど、正直ほとんど使ってない──
の前にある椅子にぽんっ、と座った。
普通に座らないで、背もたれを前にしてそこに頬杖を突くのがいかにも陽子らしい。
「まあ、あれだ。最初はみんなうまくいかないものよ、気にしない、気にしない。にしし……」
おかしそうに笑う男女は、実体験どころか、彼氏もいないことを断言できる。
この耳年増め。
どかっ。
布団の上に座ったままの僕の脳天に、踵落としが振ってきた。
「いってえっ……なんで僕が考えていることが分かるんだよ、お前は?」
「だって家族だもん。わかるよ」
陽子は当然、と言うように答えた。
「……家族か……」
僕は、さっきの星華ねえの離れでのことを思い出した。
星華ねえの無表情から、僕は星華ねえの考えていることを感じ取ることができず、ただただ戸惑っていた。
……僕は、星華ねえの家族ではないのかも知れない。
いつのまにか、親しい人ではなくなっていたのかもしれない。
「……なあ、陽子……」
「何さ?」
僕は、思わず、同い年の従姉妹に心の中に澱(おり)のように沈んでいる問いをぶつけてしまった。
「星華ねえって、――好きな人いるのかな?」
「はあ? いるに決まってるじゃない」
これも当然のように答えた陽子に、僕は息を飲んだ。

「そ、そうか……」
「そんなこともわからないなんて、彰はほんと、鈍感ね……」
「――そう、だよな……」
星華ねえには、恋人がいたんだ。
その事実は、僕に猛烈な痛手を与えた。
ショックと、星華ねえへの罪悪感で、僕は頭がぐらついた。
「……どんな人、なんだろ、その人……?」
気がつけば、そんな馬鹿なことを僕は呟いていた。
「え……。馬鹿だよ、すごい馬鹿。あたしと同じくらい。ううん、もっと馬鹿」
「……そ、そうなんだ」
「すけべで、食いしんぼうで、甘えん坊で、まあ、イケメンではないなあ」
「……星華ねえ、そんな奴が好きなんだ……」
「ん。――でも、色々かっこいいよ。やればできる奴だし。まあ、星華ねえのお婿に認めてやってもいいわね」
その人から、僕は、星華ねえを引き離してしまうんだ。
「……陽子」
「何?」
「なんとか、僕と星華ねえが「お定め」をしないで、その人と星華ねえがいっしょになる方法ないかな……?」
「……」
陽子は、唖然とした表情になった。
「彰って、ひょっとして、本当に馬鹿?」
「……馬鹿なのは分かってるさ。でも何か方法が──」
どげし。
脳天にすごい衝撃を受けた。
ギガント木場直伝の脳天唐竹割りチョップ──いや、陽子は素手ではなく、何か堅いものを振り下ろした。
「痛ってぇ〜、陽子、お前、何しやがる!」
さっきのサッカーボールキックや踵落としのように冗談ではすまない痛みに僕は立ち上がりかけ、止まった。
陽子が、僕の脳天に振り下ろして、今は目の前に突きつけているものを見て。
「ほれ、見てみ。――この中に星華ねえが好きな人がいるから」
突きつけられているのは、机の上にあった小さな置き鏡――映っているのは……。
「――志津留彰。こいつが星華ねえが世界で一番、と言うより、たった一人好きな相手だよ」
陽子は、あきれ返った声でそう言った。

「え……だって……その……」
僕は、混乱して、何を言えばいいか全然分からなかった。
鏡を戻した陽子が、くすくすと笑う。
「まあ、星華ねえってば、完璧超人に見えて、色々ズレてるからねえ。
キスとかすっとばして、いきなり真っ裸で相手にせまりかねない勢いがあるよ。
一生懸命考えたあげく、「好きです」って言う前に「子作りする」とか口走っちゃうタイプだね」
「……そうなの……?」
全くその通りだった流れを思いだして、僕は呟いた。
「ん。お祖母ちゃんとか、美月ねえとか、星華ねえのまわりで年上な女の人も、かなりズレてるしね」
「……そうなんだ……」
「特にお祖母ちゃんって、美月ねえをもっとすごくしたような人だったらしいから」
「……そうなんだ……」
拍子抜けしたような声で、僕は繰り返した。
「……でも、さ。僕は、星華ねえが何を考えてるか、分からなくなっちゃったんだ……」
「え?」
そう。だから、僕は星華ねえに、誰か他に好きな人がいるのか一瞬でも疑ってしまった。
「家族なら、何を考えてるかわかるはず、だろ。お前が、僕の心をなんとなく読めるように」
でも、僕は、離れでの愛撫の間中、星華ねえが何を考えているか、全然分からなかった。
そのことは、僕にとってショックだったけど……、
「んんー。ま、それが<男と女の仲になった>って奴じゃないの?」
──陽子は、屈託なく答えた。
「え……?」
「あたしらの父さんと母さんも、子供の頃からいっしょに育ったんだって。
だから相手が何を考えてるか、いつでも分かったけど、ある日突然わからなくなったんだって」
「……」
「後から気が付くと、それがお互い異性として好きになった瞬間なんだろうって、母さんは笑ってた。
まあ、そういうのから始まって、結婚して子作りしたあとは、そりゃもう以心伝心で、
子供の頃以上に相手のことが分かるんだって、のろけてたけどね」
陽子は、くすくす笑いを抑えきれない、といった感じで口元を押さえた。
「……」
呆然とする僕の背中を、陽子がばしぃんっ、と叩いた。
「だから、彰、明日がんばってみ! あ、別に今晩再チャレンジしてもいいんだけどね、にしし……」
──陽子の笑い声に満ちた部屋に、美月ねえが血相を変えて飛び込んできたのはその時だった。


「彰ちゃんっ! 陽子っ! ……よかった。無事なのね……」
部屋に走りこんできた美月ねえは、手に短弓を持っていた。
志津留の家伝の武器。
でもそれは、妖し、すなわちこの世ならざるものと戦うためのもので──。
「美月ねえ?!」
僕は、美月ねえが、和服の上に襷(たすき)掛けをしているのに気がついて驚いた。
陽子も顔色を変えて立ち上がる。
――以前にもこんなことがあった。
この世ならぬ「敵」が、お屋敷を襲った記憶。
「とにかく、二人とも本館のほうへ。――お祖父さまと婆(ばば)さまが来ているわ」
めったにこの屋敷に戻らない「本家」の当主と、その姉の名に、僕らは息を飲んだ。
正真正銘の、緊急事態だ。

「……馬場で、梅久が襲われました。病院に運びましたが、意識不明の重態です」
本館の一室に集まっていた一堂に、事態を説明しているのは、お祖父さんの秘書をつとめる吉岡さんだった。
いつもと変わらぬスーツ姿のこの人は、僕や陽子と親しい小学生・ケン坊のお父さんだけど、
志津留の「郎党」を束ねる頭の一人でもある。
志津留は、直系の人間、つまり「一族」のみの集団ではない。
遠い昔に分かれた傍流や、代々使えてきてくれた人々からなる「郎党」によって支えられている。
吉岡さんに「梅久」と呼ばれた、馬場の管理をしている宍戸さん──宍戸梅久(ししど・うめひさ)という──も、郎党頭の一人だ。
日に焼けたスポーツ万能なお兄さんで、僕や陽子は、この人から乗馬を教わった。
吉岡さんと同じく、志津留の本職──妖しを相手にする仕事にも加わっている人だ。
それが──。
「心の臓の脇を、矢で貫かれていました。あと一センチでも寄せられていたら、即死でした」
吉岡さんは、眼鏡をくっと、上げながら言った。
ずれているわけでもないのに、何度もその仕草を繰り返すのは、――苛立っているから。
緊急事態に、表情も声も判断力も変わらない冷静な郎党頭は、後輩が襲われたことへの激怒を押し殺している。
「だ、誰がそんなことを──」
「……<挑戦者>、だ」
僕の問いは、上座から答えが返ってきた。
和服を着た背の高い老人は、僕が久しぶりに見るお祖父さんだった。

「<挑戦者>……?」
「この御山を自分の棲家に狙う、妖しのいずれか、じゃよ。今、志津留には力のある当主が不在で、
御山にためこんだ力が支配しきれずに放置されているからの。――連中にとっては宝の山、食い物の山。
ここの主になることに挑戦しようとするから、<挑戦者>、じゃ。
何度かちょっかいを出してきていたが、本腰を入れてきた、の」
お祖父さんの隣にちょこんと座る小さなお婆さんは、婆さま、と呼ばれている一族の最長老。
僕らにとっては大伯母さん、つまりお祖父さんのお姉さん、だ。
「……それと、もう一つ。馬場からアオがいなくなっています」
「え……」
「現在、小夜(さや)以下数人を街に放っております。何かつかめたら、すぐに連絡を――」
語尾を言い終わる前に、吉岡さんの携帯が鳴った。
お祖父さんに目礼した吉岡さんが、それに出る。
「小夜か。――正木真紀は家に帰っていない、流鏑馬用の巫女装束がなくなっている?
……わかった。瀬戸と辻を残して、有馬とともに引き上げて来い」
吉岡さんは、携帯を切るとそれをポケットに戻した。
「マサキが……行方不明……?」
それまで無言でいた、星華ねえが顔を上げて質問をした。
「――はい。おそらくは、アオとともに――<挑戦者>に関わることかと……」
「マサキマキが……」
今日の午前中に会った、あの生意気な――と言っても僕より年上だけど――娘の顔を思い出して、僕は呆然と呟いた。
「妖しの中には、人を操ることができるものもおる。御山を狙うような力の持ち主なら、なおさらな」
「……」
星華ねえが眉根を寄せた。
どんな感情も、瞳や唇のごくわずかな反応でしか表さない星華ねえの、はっきりとした感情表現。
つ、と立ち上がった星華ねえは、座敷を出て行こうとした。
「待て、星華――どこへ行く?」
お祖父さんが呼び止める。
「マサキを、探しに行く」
「ならぬ。その娘、おそらくは――<挑戦者>の手に落ちている」
「だったら、なおさら」
星華ねえは、ちらりと振り返って答えた。
その美貌が、もう一度前を振り向いたのは、次の瞬間だったけど、僕は最後までそれを見られなかった。
僕も同時に、同じ方向――中庭に視線が釘付けになっていたからだ。

(……ほ、ほ、ほ)
それは、女の人の笑い声――に「聞こえ」た。
闇の中で。
(……さすがは、志津留のヒメ――とヒコ。当主よりも、早く、気が付いたわ)
「何者っ!?」
吉岡さんが振り返って叫んだ。
「……おぬしらが今言った、<挑戦者>様よ……」
するすると、白いものが闇の中から浮かび上がってきた。
巫女服を着た女の人。
それが庭から見てずいぶんと高い位置にあるのは、馬に騎乗しているからだ。
マサキマキと、アオ。
どちらも、今日の昼前に見た姿と同じで――中身は別物だ。
「憑いたか――」
お祖父さんが、ぐっと睨みつける。
(ほ、ほ、ほ。強い情念を持つ人間は使いやすい。女の身体なら、なおさらわらわに好都合……)
「離れろ」
星華ねえの、短い声。
(ほ、ほ、ほ。――誰が離れるか。この女、実になじむ。この姿で、わらわはこの山の主になるわえ……)
「――悪霊、退散っ!」
美月ねえが、鋭い掛け声とともに矢を放った。
いや。
短弓からはなったそれは、鏃(やじり)を抜いた神矢だ。
小さな弓から放たれた先のない竹の棒は、妖し相手には、射手の「力」に応じた破壊をもたらす。
それが、空中で止められた。
マサキマキ――を操る妖しが、手をかざしただけで。
(……ほ、ほ、ほ。その程度の力で、当主の直系かえ。――この山の主にはふさわしからぬ一族よ)
「……」
二の矢を番えようとする美月ねえの袖を、星華ねえが無言で押さえる。
マサキマキに憑いた<挑戦者>は、狂女のように哄笑した。
(……ほ、ほ、ほ。――一人を、選べ、無力な一族)
(……ほ、ほ、ほ。――明日の夜、この山の、頂で)
(……ほ、ほ、ほ。――主を、決めようぞ……)
こだまする笑い声が消えたとき、すでにマサキマキもアオも闇の中から消えていた。

「……一騎打ちの誘いか。古風なことをする」
お祖父さんが渋い顔で立ち上がった。
「祭りの夜にかえ。――念の入ったことじゃの」
婆さまのことばの意味は、わかった。
御山――このお屋敷がある、志津留一族の<根拠>地は、いわゆる地脈の焦点だ。
志津留はその力を使ってこのあたりに君臨しているけど、その力は、常に一定ではない。
それは自然にこのあたり一帯を潤し、影響を与えているが、
そうしたエネルギーは、周期的に強くなったり弱くなったりする。
そして、四季折々の祭りは、そうした力がもっとも強まる時期だった。
昔の人が、祭り――祭典をその時期に選んだのは偶然ではない。
あたりに満ちた「力」があふれる夜、人々は何かをせずにはいられない。
そして人々が祭りに瞳を輝かせる夜は、地脈もそれに呼応してより一層の力を噴き上げる。
力が音叉のように共鳴しあう時に、その支配者の戦いが行なわれれば、
その「勝者」の御山への支配力、影響力は、より強力なものになる。
簡単に言えば、地脈へのはたらきかけが楽になるのだ。
<挑戦者>は、それを狙っているにちがいない。
「……一騎打ち……」
星華ねえがつぶやいた。
「手ごわい相手だな」
マサキマキが消えた庭の闇を睨みながら、お祖父さんが言った。
「……子は、まだできぬか……」
――唐突に婆さまがそう言い、星華ねえは、傍からみても分かるくらいに動揺した。
「……まだ……」
「はやく、作っておけ。これから――明日、事がどうなるかはわからぬが、
――後悔せぬように、な」
婆さまのことばに、星華ねえは返事をしなかった。

その夜、僕たちは、本館の大部屋で固まって眠った。
婆さまは、「明日の夜まで、<挑戦者>は、手出しはしてこないだろう」と言っていたけど、
万が一を考えて、お屋敷にいる志津留の一族、
つまり、お祖父さんと婆さま、美月ねえ、陽子、そして僕と星華ねえの六人が、
布団を並べて眠ることにしたのだ。

婆さまは、意味ありげに僕と星華ねえを見たけど、僕らは何も言わず、
みんなといっしょに眠ることにした。
隣で、お手伝いさん――の中でも妖しとの戦闘訓練をつんでいる「郎党」が交代で寝ずの番をしてくれている。
もちろん、何かあったら、いっせいに起きだして対応するのだけど、
それ以前に、僕は全然眠れなかった。
いきなりのことに、頭が整理できていない。
――<挑戦者>が、いつか現れるだろうことは、「お定め」の説明の中にあった。
そうしたことを防ぐためにも、星華ねえと交わって、力のある当主を作る必要があるとも。
明日の「一騎打ち」は、どうなるのだろう。
誰が<挑戦者>と戦うことになるのか。
お祖父さんは、あのあと、自分の――当主専用の大弓を持ってきて、それを抱くようにして眠っている。
たぶん、当主として自分が「代表」に出るつもりだろう。
だけど、力が弱まったお祖父さんで、美月ねえの一撃を簡単に防いだ妖しに勝てるのだろうか。
何でも知っている婆さまも、戦いのための力は、弱い。
じゃ、誰が――。
不意に、ぼくは、「その人」が誰か思い至ってどきりとした。

――さっき、<挑戦者>の出現を真っ先に感知したのは、僕と、星華ねえ。
当主に必要な様々な力のうち、たぶん、そうした方面での力は、今、一族の中で僕たち二人が最も強い。
一族を代表すべきは、僕らのうち、どちらかだろう。
「……」
闇の中で、自分の体の毛が逆立って行くのがわかる。
久しぶりのこの感覚は――恐怖。
幼い頃、何もできない僕の上にのしかかってきた、この世ならざるものたちへの、恐怖。
「……」
ごくりとツバを飲み込んだとき、隣の布団から、静かな声がかかった。
「……大丈夫」
「せ、星華ねえ……」
僕が思わず横を向くと、同じように横向きの星華ねえが僕をじっと見つめていた。

「大丈夫。明日は、私が行く。彰を守る」
星華ねえは僕をみつめたまま、そう言った。
何の昂ぶりもない静かな声。
でも、そこには、さまざまな感情がこめられているはずで、
そして僕は、それを読み取ることが出来ないでいた。
――昨日までなら、きっと分かったのに。
陽子は、それが、家族の間柄から男と女の仲になった第一歩だ、と言ったけど、僕は――。
何を言えばいいのかわからなくて、あえぐように呼吸をする僕を見て、
星華ねえはすっと起き上がった。
枕もとの小さな袋を開ける。
「これ、嗅いで……」
中から取り出した小瓶からこぼした液体をハンカチにしみこませ、僕に手渡す。
この懐かしい香りは――<KURARA(くらら)>。
闇におびえる小さな僕を寝付かせた、優しい薬。
渡されたそれをどうしようかと迷う僕に、星華ねえは、
「嗅いで――ゆっくり眠って……」
そのことばに、反射的に僕の手が動いて、従ってしまった。
あっ、と思ったとき、僕はその薬を吸い込み、たちまち眠りに陥ってしまった。
子供の時のような、安らかな眠りに。

――翌朝。
目が覚めると、僕は星華ねえの姿を探した。
僕が眠っているあいだに、星華ねえがいなくなってしまっているのではないか、という思いに駆られたからだ。
――星華ねえは、僕の隣にいた。いてくれた。
「星華ねえ……」
旧家特有の古びた高い天井を見つめるように布団の中でみじろぎもせずにいる星華ねえに、
僕は思わず声を掛けた。
「何?」
すっと、星華ねえが横向きになって僕を見つめる。
「……い、いや。おはよう」
「おはよう」
星華ねえは、そのまま起き上がった。
衣擦れの音に、僕はなぜかどぎまぎとした。

「――山頂が、<封鎖>されています。おそらくはあやつか、と」
「夜明けを待って登ってみましたが、――霧で道に迷わされました。結界を張られています」
「……夜の闇の中ならともかく、朝になっても衰えぬとは予想外でした」
起きるとすぐに、吉岡さんたちが戻ってきて報告にきた。
吉岡さんの右隣に座る、長巻(ながまき)を持ったきりりとした感じの女性が小夜――双奈木小夜(ふたなぎ・さや)さんで、
左隣に座っている木刀を抱えた男の人が、有馬――有馬法胤(ありま・のりたね)さんだ。
どちらも、志津留の「郎党」の人たちだ。
三人は、昨晩から<挑戦者>の動向を探っていたらしい。
「今夜の一騎打ちに余人は入れぬつもりじゃな。それくらいは用意してきておるじゃろ」
位置は確かめられたのだがその場所にはいけない、という報告に、
婆さまが、さもありなん、といった表情になる。
「一族郎党でいっせいにかかれば、あるいは、と思いましたが……」
「無駄じゃ。死人が増えるだけよ」
あっさりと言い切った婆さまに、小夜さんと有馬さんが絶句し、ついで唇をかんだ。
郎党頭に迫る腕前で、強気なことで知られる二人が反論しないのは、
――山頂へのアタックの中で、<挑戦者>の実力を垣間見ただろうから。
「どうにも、向こうの思うようにしか動けんな。
もっとも、御山の主決めはつまるところ、そんな形の争いで当たり前なのだが。
――ご苦労。三人とも下がって休め」
お祖父さんはそう言った後、吉岡さんたちをねぎらった。
「いえ、我々は――」
「休んでおけ。どの道、夜まで何も出来ぬ。――わしらも、朝餉じゃ」
婆さまがそう言って手を振ると、三人は座敷を退出した。
入れ替わりに、お手伝いさんたちが朝ごはんを運んでくる。家族だけの、食事が始まった。

……こんな時なのに、僕はなんだかすごくお腹が空いていて、運ばれてきた御飯をぱくぱくと平らげた。
「よく入るね、二人とも……」
いつもはそこらの男子よりもよっぽど大食いな陽子は、緊張とショックであまり食べられない様子だ。
お祖父さんや、婆さまでさえも。
「そういや、そうだな……」
僕は首をかしげた。

お手伝いさんの作ってくれる料理は、たしかに美味しい。――旅館並みだ。
でも、普段、美月ねえが家族用に作ってくれるごはんは、もっと美味しい。
それなのに、いつもよりずっと食が進む。
というより、味うんぬんの前に、一族の大事を前に、
みな目の前のものを飲み込むのがやっと、と言う感じなのに、
僕だけは、何かに取り憑かれたかのような勢いでそれを片付けていった。
いや、僕のほかにもう一人。
「……ごちそうさま」
僕よりずっと上品にだけど、僕と同じか、それ以上の健啖ぶりを見せた星華ねえが箸を置く。
僕は、あわててお椀に残った御飯をかきこんだ。
陽子が、あきれたような表情で僕と星華ねえを交互に眺める。
当然かもしれない。
六人がそれぞれお代わりしても十分な量の御飯が入っているおひつは、
ほとんど僕と星華ねえだけで空になっていた。
「ご、ごちそうさま」
別に星華ねえにあわせる必要はないはずだけど、
なんとなく、そうするべきだという意識が働いて、僕は食事を終了した。
それは、正解だったようだ。
僕が箸を置くとすぐに、星華ねえは立ち上がった。
「……彰、病院に行こう」
「宍戸さんの、お見舞い?」
「うん」
「――行く」
立ち上がった僕らに、「危険だから外には出るな」という声がかかるか、と思ったけど、
お祖父さんも、婆さまも何も言わなかった。

僕たちは歯磨きや身支度をすばやく済ませて、僕らは車に乗り込んだ。
星華ねえは自分で運転しようとしたけど、郎党の小夜さんが運転手に入った。
「大丈夫なの? 疲れてない?」
御山を夜通し探索していて明け方戻ったばかりの小夜さんに、心配になった僕は聞いた。
「心配無用です。さっき、一時間ほど横になりました。……それに」
「それに?」
「……梅久の様子を見に行きたいのです」


「……」
「……」
車内に沈黙が落ちる。
小夜さんは、もとからの志津留の「郎党」ではない。
双奈木(ふたなぎ)という姓は、七篠の支族のひとつで、僕らのお祖母さんの実家の人だ。
七つの支族のうち、志津留が「四ノ弦(弓)」を現すのなら、双奈木は「二ノ薙刀」を現す支族。
小夜さんは、その直系の人間だった。
だから、本来、他の支族の元に出てくることはないのだけど、
向こうの家で何かがあったようで、双奈木から嫁いで来たお祖母さんのもとに身を寄せた。
はじめは客分ということだったけど、「修行のため」と自分から言い出して、今では志津留の郎党に加わっている。
最初にこっちに来た時は、ものすごくぴりぴりしていて、今もかなり恐い感じの女(ひと)だけど、
今日はいつもにまして、その雰囲気が強い。
もし触れたのならば、こちらの手が切れてしまいそうなくらいに。

宍戸さんは、心臓の脇を射抜かれて、今も意識が戻らない。
病院に話を通して――もともとが志津留家が自分たちや「郎党」の人たちのために資金を出して作った病院だ――、
治療室をガラス越しに覗ける部屋――そんなものまで用意されている――に通された。
「傷は深いですが、そちらのほうの施術は成功しております。ただ――霊障が……」
「<挑戦者>の力ですか?」
「いえ、……おそらくは、御山の力が悪い方向で流れ込んだかと」
「……治りますか?」
「今の段階では、なんとも……。七篠の<再生病院>にも連絡を取っております」
「……そこまでひどいのですか……」
きりきりと唇をかむ小夜さんと、院長先生との会話を、僕らは遠い音のように聞いた。
覚悟はしていたつもりだけど、あらためて目の前にすると、その現実はショックだった。
「……行こう」
身じろぎもしない宍戸さんと、院長先生を質問攻めにする小夜さんを黙って見つめていた星華ねえが、僕を促した。
僕らは、そこに小夜さんを残して、病院を退出した。
小夜さんは、僕らの運転手兼護衛のつもりで付いてきたのだけど、星華ねえが一言、
「宍戸さんの側にいてあげて……」
と言うだけで、びっくりするくらい大人しくそれに従った。
たぶん、他の人の説得だったら、小夜さんは頑として譲らずに「郎党」としての働きを優先させただろう。
――星華ねえのことばは、ときどきこんな魔法のような効果をあらわす。

「……小夜さん、宍戸さんのことが好きなんだね」
「そう」
「意外……でもないや」
刃のように鋭い美女と、能天気なスケベ魔人(お手伝いさんの女性陣から付けられたあだ名だ)は、
対照的で、でも、とてもいいコンビだった。
いっしょにお酒を飲みに行ったりすることもあるらしい。
――もっともたいていは、二軒目あたりで、宍戸さんが巫女さんバーとか、もっと「あやしい店」に入ろうとして、
小夜さんに往復ビンタもらって解散、ということが多いらしいけど。
「……」
「……」
そんなことと、意識不明の宍戸さんを交互に思い出して、僕らは無口になった。
駅前からバスに乗る。
病院には夜が明けてすぐ、まだ開院前に行ったから、バス停に下りたときでも辺りはまだ朝露でぬれていた。
僕らの足は、自然と牧場に向かった。
「……アオも<挑戦者>が連れて行っちゃったんだね」
牧場をさびしく歩きまわるシロを見て、僕は思わずそうつぶやいた。
「……」
星華ねえは、朝風に髪をなぶらせながら、じっとその様子を見つめていたけど、やがて口を開いた。
「……マサキが<挑戦者>に憑かれたのは、私のせいだ」
「そんな……そんなことはないよ」
「あの子は、私に憧れていた」
――そしてたぶん、嫉妬も、ということばを、僕は飲み込んだ。
憧れ、好意、感謝、尊敬、愛情。自分の無力感、嫉妬、そして、そこから生まれる――憎しみ。
マサキマキは、星華ねえに愛憎と言ってもいい感情を抱いているのは、一回会っただけでわかった。
<挑戦者>が、それを利用して彼女を寄代(よりしろ)にしたことも。
僕は、星華ねえにかけることばを失った。
無言のまま、馬場を離れる。
舗装されていない道を、踏み固められた土の感触を足の裏に感じながら歩く。
一歩、また一歩。
――星華ねえが、足を止めた。
――いつの間にか、僕らは麦畑に戻ってきていた。
「彰……。ここでキスしたこと、覚えてる?」
立ち止まった星華ねえが、つぶやいた。

どきん。
唐突な問いに、僕は心臓が飛び出すかと思った。
「お、覚えてるよ……」
忘れられるものではない。
「……よかった」
その横顔を、僕は呆然と眺めた。
「星華ねえ……」
「私、ずっと一人だった。――姉さんや、陽子はいるけど、世界の影の中では、私一人。
じっちゃでさえも、ばっちゃを亡くしてからは、私の世界を「見る」ことができなくなった。
だから、私は一人だった……」
そのことば――僕には、痛いほど分かる。
「血」が薄まり、「力」も弱まった一族の中にあって、僕らは「鬼っ子」だった。
この世ならざるものを「見る」能力が高くても、
本来ならば、当主やそれに次ぐ力を持った大人たちの中で育てば、その負担は軽い。
でも志津留には、最高のパートナーを失い急速に衰えたお祖父さんが、
なんとか当主の役割を果たしている以外、「力」を持った人間はいなかった。
僕の母さんでさえ、「血」は濃かったけど、「力」は弱かった。
だから――僕は、闇に、自分自身の力におびえた。
――そして、星華ねえも。
「彰に会ったとき、はじめて私は一人でなくなった」
「……星華ねえ……」
「だから、私は――」
星華ねえは、ことばにつまった。
それは、僕が知る限り、はじめてのことだった。
「だから……?」
僕は星華ねえを見つめた。
「……」
星華ねえは、僕から視線をそらした。
――それも、はじめてのことだった。
どんなときも冷静で、まっすぐ最短距離だけを進む女(ひと)が。
麦畑の真ん中の道で、はじめて見る弱々しい表情と、声。
「……今、とても、こわい」

「こわいって……」
「……今夜、御山で戦うことが――。
……志津留のヒメとして戦うことが――。
……マサキの姿をした、あの妖しと戦うことが――。
さっきの宍戸さんを見て、こわくなった……」
僕は、息を飲んだ。
目を伏せた星華ねえの身体は、小さく震えていた。
「――僕が行くよ! あいつは、僕に任せて」
それは、僕が今朝から考えていたことだった。
星華ねえは僕のことを守ると言ったけど、僕は、もう子供じゃない。
十分大人になった男で、そして、そういう男は、女を守るべきだ――好きな女(ひと)を。
雄としての原初の衝動が僕を突き動かす。
だけど、――星華ねえは、いやいやするように首を振った。
「だめ……それは、もっとだめ!」
「何でっ!? 僕は十分、あいつが見えていた!」
「でも、私ほどではない。――それに、私は<挑戦者>がこわいのじゃない」
「……え?」
「……今夜、宍戸さんよりももっとひどい怪我をしたら、彰のことが分からないまま死ぬ。
戦うことも死ぬことも、それ自体は何も恐くない。でも、私は、そのことがこわい……」
「……え……」
僕は、星華ねえの意外なことばに、僕は詰め寄りかけた身体を硬直させた。
「私は、彰の心が読めなくなってしまった。――ついこの間まで何でもわかったのに……」
僕を見つめる瞳の中の、おびえたような光。
それは、昨晩の僕の瞳にあったものと同じものにちがいなかった。
――僕は、ぎゅっと星華ねえを抱きしめた。
星華ねえが息を飲む。
「……彰……?」
「大好きだよ、星華ねえ……、大好きだよ、誰よりも、何よりも……」
突然のことに、時が止まったように動かずにいた星華ねえは、
――やがて、大きく深呼吸しはじめた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。そして――。
「私も。――彰のことを、愛してる……」と、そう言った。
それが、星華ねえと僕が「恋人同士」になった瞬間だった。

僕は、その唇に、僕の唇を重ねた。
星華ねえは、目を閉じ、ちいさくうなずいてそれを受け入れた。
最初のときと同じ、誰もいない麦畑の真ん中で、僕らは生涯二度目のキスをした。
「ん……んっ……」
最初のキスとちがうのは、僕も星華ねえも大人になっていて、
キスも大人のものになっていたということだ。
僕は、星華ねえとしかキスしたことがなかったし、星華ねえも、そうだということも分かっていた。
それでも、成熟しつつある身体を持つ若者が唇を重ねれば、
今まで見聞きしたものや、雌雄の本能が十年前とちがうキスを選ばせる。
星華ねえの唇を割って、僕の舌が差し込まれた。
「んっ……ん…ふぅっ……」
星華ねえは、びっくりしたように目を見開いたけど、すぐに目を閉じ、
同じように、いや僕よりも情熱的にそれに応えた。
「ふわ……」
長い長い時間をかけたキスが終わり、唇を離すと、
溶け合った二人の唾液が、朝日の中できらきらとした糸になって二人の間をつないだ。
その光景に、どきりとする。
「僕もね、僕もこわかったんだ。突然、星華ねえが何を考えているのか、何を想っているのか、分からなくなって」
「彰……」
「――だって、今まで、家族として何でも分かりあえてた間柄だったんだもん。
びっくりしたり、不安になったりするよね……」
「彰……」
「でもそれは、星華ねえと僕が、ただの家族じゃなくなった証拠なんだって。
――星華ねえと僕が、きっと<男と女の仲>になったからだって……。
恋人同士になると、最初は、相手のことが分からなくなっちゃうんだって……」
僕は、昨日、陽子に教えてもらったことを自分なりにかみ砕いて話した。
それを聞いた星華ねえは――ほぅ、っと吐息をついた。
「それ……母さんから聞いたことがある……今までずっと忘れてた」
「うん」
話の出所は、同じだ。
「母さんが、父さんに恋をしたとき、父さんを男として愛し始めたとき、
やっぱり、父さんのことがわからなくなって、いつもどきどきしていたって――」

「星華ねえ……」
「私は、今、すごく、どきどきしている」
星華ねえは、一言一言を自分で確かめるように胸に手を当てながら言った。
「――私は,それを不安や恐怖だと思っていたけど、ちがうんだ……」
「星華ねえ……」
「もう一つ、思い出した。
――恋人は家族じゃないから、いつも相手に分かるように想いを伝えていかなきゃだめだって。
そうすれば、家族の中でずっと深い絆で結ばれる間柄になれるって……。
でも、私は、そういうことが苦手で……」
――そう。
家族の中で、夫と妻は、血縁以外の間柄で結ばれる。
その特別な関係は、やがて二人の間に子を為し、命をつないで行くもの――家族の一番の核。
だから、その二人の間には、他の家族とちがうものがある。
それは雄と雌の本能――今、僕たちが感じているもの。
僕らは、その絆をもっと深くしたくて……。
「お屋敷に戻ろう。――私は、彰と今すぐ夫婦になりたい」
「うん。僕も、星華ねえと夫婦になりたい」
二人は、自然と手をつないだ。
指を絡ませ、ぎゅっと握る。
お互いの温かさを感じると、もっともっとそれが欲しくなる。
とっ、とっ、とっ、とっ……
僕らは、どんどん握る手に力を込め、歩くスピードを速めた。

お屋敷に飛び込んだとき、僕らはほとんど全速力で走っていたといっていい。
「あっ、彰ちゃん……」
「星華ねえ……」
廊下で美月ねえと陽子にすれ違ったけど、顔を真っ赤にした僕らは、
ただいまの代わりに会釈するのもそこそこに、猛スピードで通過した。
――二人のびっくりしたような表情が、微笑に変わったのをちらっと見たような気がする。
突進した先は――「ばっちゃの機織小屋」、星華ねえの部屋だった。

ベッドに並んで腰掛けると、後は、もう流れるままだった。
抑えきれないような感情が、衝動のように後から後から湧き出して、僕らを突き動かす。
それは、死を身近に感じた人間が、種の保存の本能を刺激された結果かもしれない。
僕らは、<挑戦者>の警告と恣意のためだけに、あれだけの大怪我を負わされた宍戸さんの姿を見て、
「本当の標的である自分たちは、殺されるかもしれない」と確かに感じた。
だから、――明日がないのかもしれないのなら、お互いに好きな相手ともっと仲良くなってしまおう、と思った。
子供も、作れるのなら作ってしまおうと思った。
――そうとも言える。
でも、――それだけじゃない。
それがきっかけになって気づいた、お互いへの想いのほうがずっと大きかった。
そうだ。
僕は、星華ねえが好きだった。
星華ねえは、僕が好きだった。
それにたどりつくまで、昨日は、いや、今まで随分まわり道をしてしまったような気がする。
僕は、星華ねえの気持ちが分からなくて、
星華ねえは、僕の気持ちがわからなくて、
お互いがとまどっていたけど、――僕らは、結局あの麦畑の中で、お互い変わらずにいたんだ。
十年間も。

(誰かさんと誰かさんが麦畑……)

ふいに僕は、どこからか、声が聞こえてきたような錯覚を覚えた。

(こっそりキスした、いいじゃないか)
(私にゃいい人いないけど、いつかは誰かさんと、麦畑……)

その歌声は、僕の耳元で聞こえ――すうっと溶けていった。
――多分、「誰かさん」に、「いい人」が見つかったから。
自分の「いい人」が誰だか思い出した「誰かさん」は、その人と恋人になり、そして一気に「それ以上」になることを望んだ。

「んっ……ふあ……んくっ……」
三回目のキスは、今までで一番激しいものになった。

星華ねえの服に手をかけたとき、星華ねえは、あ、と小さく声を上げた。
その白磁の美貌には、わずかに朱がさしている。
昨日の晩、自分から脱いだときは――僕の気持ちが読めない焦燥感でそんな余裕がなかったけど、
今は羞恥を感じるだけの余裕がある――僕の想いがきちんと伝わっているから。
だから、それに呼応して、僕の下半身も昨日のような醜態を見せず、雄雄しくそそり立っていた。
目の前の愛しい女(ひと)の望むまま、抱き合いたいから。
痛いくらいに張り詰めた僕の男性器を見て、星華ねえの眼が見開かれる。
「……こんなになるものなの……?」
「星華ねえの前なら……」
「そう……うれしい」
星華ねえはささやいて、僕のそれに手を伸ばした。

ベッドに横向きになって添い寝しながら、星華ねえは、僕のおち×ちんをやさしく嬲った。
すべすべした手がなめらかに動く。
昨日は感じることができなかった快感に思わずうめく。
「気持ちいい、彰?」
「うん、すごく……」
「そう。男の子は、性器をこうするといいって聞いた」
「……そ、それって誰に教えてもらうの?」
僕は昨日から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「ばっちゃと、母さん。あと美月ねえ」
……三人とも、たしかにそういう事を言いそうな女性だ。
「あと、ばっちゃの古い友達で、柳町でお店を何軒も持っている女の人がいて、その人からも聞いた」
……お祖母さん。あなた、どんなお友達を孫娘に紹介したのですか?
僕が複雑な表情をしていると、星華ねえは小首をかしげてことばを継ぎ足した。
「ばっちゃは、じっちゃが大好きだったから、男の人を悦ばせる方法をその人に教わったんだって」
「……」
「私も、彰を悦ばせたいから、色々聞いたんだけど……うまくいかなかった」
ああ、――なんだか、とても星華ねえらしいや。
僕はくすっと笑った。
「ありがとう。でも、そんなことしなくたって、星華ねえはキスしてくれるだけで、僕をこんなにできたよ」
「……そうなの?」
「そう!」

「……」
星華ねえは表情を崩していないけども、その耳は真っ赤になった。
めったに見れない、恥ずかしがっている星華ねえ。
その姿に、僕のおち×ちんはさらに大きく、堅くなった。
「あ……」
「星華ねえ、僕も、星華ねえの、さわってもいい?」
こくり、とうなずいた星華ねえの下半身に、僕は、どきどきしながら手を伸ばした。
「……」
「……あ……」
水っぽい小さな音が聞こえると同時に、僕の指先は、潤んだ粘膜に包まれた。
僕の想像よりもずっと柔らかい星華ねえのあそこは、びっくりするほどにしっとりと濡れていた。

「せ、星華ねえ……」
「……彰のことを考えると、いつも、こうなる」
星華ねえは、僕を見つめてそう言った。
「……」
絶句して見つめ返すと、頬を染めて視線を反らした。
「……今日は、さっき、麦畑でキスしてからずっと、こう……」
ささやくような声に、僕は心臓がさらにどきどきを増すのを感じた。
「あと、その……」
「何?」
口ごもった星華ねえに、僕は思わず聞きかえした。――星華ねえのことなら、なんでも知りたい。
「……彰のこと考えながら、――オナニーしたことも、ある」
「!!」
何事も隠さない星華ねえの告白に、僕は興奮の極みになった。
「せ、星華ねえっ……」
もう一度、キスしてから、僕は、身体をずらした。
首筋や、鎖骨。
なめらかな肌の上に、頬をこすり付けるようにして動いていって、胸のふくらみにたどり着く。
「……」
午前中の柔らかな光の中で、それは、大理石を切り出して作られた女神の彫像のように思えた。
その美を、僕は、僕のものにした。

星華ねえの胸元に、顔をうずめる。
透明な硬質感をもって見えたそれは、実際は弾力と柔らかさに満ちたものだった。
胸の谷間に顔を押し付けると、ミントのような匂いが僕の鼻腔をくすぐった。
――星華ねえの匂い。
星華ねえは、僕の頭をぎゅっと抱きかかえた。
乳房の感触と、香りを十分に楽しんだ僕は、星華ねえからゆっくり離れて起き上がった。
ごくりと唾を飲み込む僕が、次に何をしようかわかったのだろう。
星華ねえは、もっと身体をずらして星華ねえの下半身に近づこうとした僕をそっと制した。
「身体の向き、逆にして。――私も、彰のを見たい……」
一方的なクンニリングスではなく、お互いを愛撫するシックスナインのほうを星華ねえは選んだ。
僕は、さっきの倍くらい唾を飲み込んでうなずいた。
二人は、お互いに体重をかけなくて済むように、横向きのまま互いちがいの体勢で寝そべった。

間近で見る、星華ねえの性器。
それは、白い肌の中央で、薄桃色に染まっていた。
溶けそうなくらいに淡い翳りとなっている飾り毛とともに、
僕の心臓と脳みそを爆発させるほどに興奮に追い込む。
そおっと指をなぞらせると、くちゅ、とも、ぴちゅ、とも聞こえる小さな音を立てて、
それは中にたまった蜜をこぼした。
僕は、本能に駆られるようにしてそこに唇を寄せた。
「あっ……」
中の液体をすするように口付けした僕の行為に、星華ねえが思わず身じろぎする。
僕はかまわずに星華ねえのあそこを舐めはじめた。
女の子のあそこなんて、見るのも、舐めるのももちろん初めてだったけど、
僕は、僕の物になるように差し出されたそれを思い切りむさぼった。
そして、星華ねえも。
僕が星華ねえの女性器を愛撫し始めると同時に、星華ねえのほうも僕の性器を愛撫し始めていた。
口をあけて、僕のこわばりの先端を口に含む。
「んんっ……んくっ……」
緊張にと不安に萎えきっていた昨日と違って、今日の僕のは限界まで膨れ上がっている。
咥える星華ねえは苦しそうだったけど、やがてコツを覚えたのだろう、
愛撫はどんどんと滑らかなものになった

「んふっ、んぷっ……じゅっ、ちゅるっ……」
甘い鼻息と、唾液を使う音。
そして何より、星華ねえの舌と唇の感触。
しびれるような興奮が、僕の性器から始まって、心臓を通り、脳天に駆け上がっていく。
「せ、星華ねえ……ぼ、僕もう……」
「いくの……?」
「うん……」
「……どこに出したい?」
「え……?」
「どこでもいい。彰の出したいところを言って」
星華ねえの、静かな、でもこちらも興奮しきった声に、僕はそれだけで爆発しそうになる自分を必死に抑えた。
大きく深呼吸をして、答える。
「せ、星華ねえの、ここで、していい?」

僕の両手の指先で軽く触れているのは、星華ねえの性器。
僕は、ここに自分のおち×ちんを入れたいということで、つまりそれは――。
「いいわ。――私も最初は、彰とちゃんとしたセックスがしたかった。
彰の最初の精液を、私のここに欲しい」
……星華ねえは、僕以上にはっきりとことばにする。
星華ねえは、くるっと身体を入れ替えて、僕と向かい合った。
目の前に星華ねえの顔が戻ってきて、僕はどきりとした。
「私の腿の間に身体を入れて――そう。手はここに突いたほうがいい……はず」
僕の下で、星華ねえは体勢をいろいろと教えてくれた。
語尾がちょっと懐疑的なのは、星華ねえに教えてくれた人は経験豊富でも、星華ねえ自身には経験がないからだろう。
でも、僕も星華ねえも興奮しきっていたから、そんなことはどうでもよかった。
つぷ。
星華ねえの導くまま、僕のおち×ちんの先っぽは、星華ねえの中心の入り口に当たった。
「そう。……ゆっくり腰を沈めて……」
つる。
ちゅる。
ちゅくく……。
透明な蜜の海に僕の分身が沈み込んで行く。

「んくっ……」
星華ねえがわずかに眉をしかめてあえいだ。
「い、痛いの? 星華ねえっ?!」
今更ながら、星華ねえが処女だということを思い出した僕は、あわてて行為を中止しようとする。
「だ、大丈夫……だから、そのままでいてっ……」
語尾がかすれている。
星華ねえは、僕の想像以上の痛みを感じているようだった。
僕はおろおろとなりかけたけど、目を閉じて体内から感じる衝撃に耐えている星華ねえの顔を見て
――それはぴたりと止んだ。
今、星華ねえの耐えていることに対して何かできる人間は、僕一人だ。
僕に何かできることは――。
ぎゅっ。
僕は、星華ねえの手を、自分の手で握った。
全部の指を絡ませるようにして、星華ねえの手を、指を握り締める。

星華ねえが、驚いたように目を開けた。
「……」
「……」
そのまま、星華ねえは目を閉じた。
こくり。
目を閉じたままで小さくうなずく。
――それは、星華ねえの、機嫌がいい時のくせ。
星華ねえは、ぎゅうっと僕の手を握りしめた。
右手で。左手で。
「入ってきて、彰」
星華ねえは、僕に行為を続けるように促した。
僕は、愛しい女(ひと)の中に入り込む動きを再開した。
ぐぐっと潤んだ肉を押しのけて奥に入り込んでいくと、
星華ねえが僕の手を握り締める力が強くなる。

ぎゅううっ。
星華ねえは、指先が器用で、指の力も、とても強い。
指先が手の甲に食い込むように握り締められると、とても痛かったけど、
星華ねえは、それ以上の痛みに耐えていると思うと、我慢できた。
かわりにこちらは優しく握り返す。
やがて、星華ねえの指先から、すうっと力が抜けて、――僕は、星華ねえの一番深いところに達した。

とくん、とくん。

心臓から直接聞こえてくるような律動が僕の体全体に伝わる。
やわらかくて、すべすべしていて、あたたかくて、――僕は星華ねえの中心に入り込んでいた。
「……うわぁ……」
僕は思わずため息を漏らした。星華ねえも同じように吐息をつく。
愛しい人と一つになった実感を、僕らはしばらく微動だにせずに味わっていた。
やがて……
僕は、びくっと震えた。

「……」
「……どうしたの?」
情けないことに、僕は、――もう、いきそうだった。
星華ねえの柔らかな肉に包まれ、心臓の音とともにゆるやかにうねる律動に触れているだけで、
僕のおち×ちんは、限界寸前まできてしまった。
「……」
唇をかんで耐える僕の表情を見て、星華ねえが手を握っていたのを離す。
そして、その両手を僕の頭の後ろに回して抱き寄せた。
「いきそうなのね。――いいよ。いって」
「でも、星華ねえが……」
まだ絶頂に達してないのに、僕だけがいくことが、僕はすごく恥ずかしかった。
足に力を入れてぷるぷると震えながらそう答えると、星華ねえは下から僕の瞳を覗き込んだ。
「……男の子って、<射精を長く我慢すればそれがいいこと>って思うらしいけど、それ、ちがう」
「え……?」
「女は、相手に愛されてるというのが分かれば、それだけで一番気持ちいい。
――そして、私は彰に愛されてるって、十分感じてる。だから、今、私はすごく気持ちいいよ」

そういいながら、星華ねえは布団につっぱっている、僕の手を撫でた。
星華ねえが強く爪を立てたので、血がにじんでいる僕の手の甲を。
「――だから、今、彰が私の中に彰をくれるのが、一番嬉しい」
「……」
「今、彰の先端が、触れているところ……」
「え……」
「そこ、「精液溜め」。子宮に入れる精液を溜めておくところ。ここに、彰のを、欲しい。
私の子宮に、彰の精子を迎え入れるために……」
甘肉と粘膜の奥にある、生物学的な空間の名称が、限りなく卑猥で神聖なもののように聞こえた。
「せ、いか…ねえっ……!!」
「彰、キスして――」
唇を合わせると、僕は限界に達した。
どくどくと、びゅくびゅくと、ものすごい勢いで射精がはじまる。
星華ねえの一番奥に。
「うくっ……んぐうっ……!」
あまりの快感に、何か叫ぼうとした僕の唇は、星華ねえの唇で塞がれていたから、
僕の声は、星華ねえに吸い取られた。
「ふ、ふああっ……」
唇を離し、荒い息をつく。
はぁはぁと、何度も深呼吸すると、星華ねえも同じように深い息を何度もついていた。
目を閉じた星華ねえの頬は紅潮していて、――体は、ぷるぷると震えていた。さっきの僕のように。
「せ、星華ねえ……?」
「んく……ふう……ふううっ……」
何度も大きく深呼吸をした星華ねえが、ゆっくり目を開く。
その潤んだ瞳のあまりの美しさに、僕はどきっとした。
「……私、今、いった。体の奥に、彰の精子、もらって……」
星華ねえは、とろりとした目で僕を見つめた。
見たこともない星華ねえ――。でも僕はそれを昔から知っていたような気がする。
「……彰」
「え……?」
「ごめん。――もう、私、止まらないかも」
ゆっくりと身を起こした星華ねえは、まるで昨晩の<挑戦者>のよう、
――いや、その何倍も何十倍も妖しくて、美しかった。

雌として目覚めた、志津留のヒメ。
僕は、その姿に魅入られた。
星華ねえが、がばっと僕の上に覆いかぶさって押し倒れるまで呆けたようにそれを見続けた。
「彰、アキラ、あきら、あきらあきらあきら……」
星華ねえは、唇といい、頬といい、額といい、所かまわず僕にキスをしはじめた。
もどかしげにさまよう手が、僕の全身を愛撫する。
太ももがうねり、足がようにシーツの上を掻き、僕の足を探り当てると絡みつく。
星華ねえの、突然の変貌は、しかし、僕にとって不快なものではなかった。
それを待っていたかのように、僕の性器が前にもまして硬くそそり立つ。
「うああ……」
僕は上からのしかかる星華ねえに抱きつくと、同じように星華ねえをむさぼり始めた。
僕たちは、唇を、乳房を、太ももを、お尻を嘗め回し、かじりつき、性器をこすりつけた。
(これは、私の雄)
(これは、僕の雌)
互いに互いの所有印をつけながら、僕らは何度も交わった。後から後から欲望がわいて出てくる。
朝ものすごく食べた御飯がそのまま精力と体力に変わっているようだった。
いや、ようだった、ではなくてそのための本能的な準備だったのかもしれない。
最後は常に、星華ねえの胎内に射精する交わりは、それから半日もかけて何度も行なわれた。

「……子供、できたよ……」
目を閉じ、うなずいた星華ねえが、ベッドの上でつぶやいた。
あたりはもう夕日が差し込む時間になっていた。
獣のように激しく交わったベッドは乱れてしわくちゃになっていたけど、
その上に横たわり、下腹の上にそっと手を当てている星華ねえは、女神のように神聖で美しかった。
「……わ、わかるの?」
「わかる。――御山が、反応しているから」
それは、僕もさっきから感じていることだった。
まだ精子が卵子にもであっていないはずなのに、この交わりが生み出す子の存在を
お屋敷を下をはしる地脈は敏感に感じ取っていた。
「……この子のためにも、彰のためにも、負けない……」
目を開いた星華ねえは、自分に言い聞かせるように、大きくうなずいた。
「……」
僕は、決戦が今夜行なわれることを思い出した。

星華ねえは、麦畑のときとはまるで別人のような自信に満ち溢れた顔で起き上がった。
「星華ねえ……」
「大丈夫……」
星華ねえは、服を着ようと桐箪笥の前に行きかけ、立ち止まった。
そのまま引き返して、僕の前に来る。
「……やっぱり、少しだけ、不安。彰、ひとつ、おまじないをして」
「おまじない?」
「そう……」
「な、何を……」
「私が彰のものだって、彰が私のものだって、もう一回、印をつけて」
星華ねえは、ベッドに座っている僕の股間に顔を寄せた。
昨晩のように、口で僕のおち×ちんを愛撫する。
ちゅる、ちゅる、ちゅぱ……。
舌と唇で、自分のものである雄を奮い立たせる。
星華ねえのフェラチオに、今日、何度も精液を噴出したはずの僕の性器は、たちまち堅くなった。
「せ、星華ねえっ……!」
「いいよ、出して、彰。――私の顔にかけて……」
射精の寸前、軽く鈴口を吸った星華ねえの舌戯に、僕のおち×ちんは、激しく精液を噴き上げた。

びゅくっ、びゅくっ、びゅくっ!
体のどこにそんな精液が残っていたのだろうか、
陰嚢の奥を空にする勢いで、僕は射精した。
すばやく唇を離した星華ねえは、それを自分の顔で受け止めた。
星華ねえの、綺麗な顔が、僕の精液で汚されていく。
女の人が、一番美しく装う、大切な顔が……。
「ああ……」
神聖なものを穢す背徳感――でも、それよりも、その神聖を僕だけのものにしている満足感に僕は震えた。
目を閉じ、僕の精液を受け入れる星華ねえも。
とろり、と白濁の粘液が星華ねえの頬を、額を、髪の毛さえも伝わって流れて行く。
「んん……」
唇の端を流れ落ちようとする精液を、星華ねえの舌が、舐め取った。
「……」
こくん、とそれを飲み込んだ星華ねえが、目を開く。

「……これで、私は、彰のもの。彰だけのもの。彰が印をつけたから」
「……」
「……だから、私は、負けない。絶対に、ここに、帰ってくる。――私は彰のものだから」
それは、僕のもとに戻ってくるという、星華ねえの固い誓いだった。
「星華ねえ……」
僕は立ち上がって着替えはじめた星華ねえの後姿をじっと見つめた。
脱ぎ捨てたズボンのポケットを探る。指先が小瓶と布を探り当てた。
朝、枕元にあったそれを、そこに突っ込んだときから、考えていたことがある。
星華ねえが後ろを向いている間に、その準備を整える時間もあった。
「……星華ねえ……」
「何……?」
「ごめん……」
振り向いた星華ねえの口元に、ハンカチを当てる。
昨日、僕を眠らせた<KURARA>を染みこませたハンカチを。
「――!?」
驚愕に見開いた星華ねえの瞳が、意識の光を失い、とじられていく。
崩れ落ちる身体をささえ、ベッドに横たわらせた僕は、急いで自分の身支度を整わせた。
――外敵と戦うのは、男の仕事だ。
愛しい女とわが子がいる男なら、なおさらのこと。

階段を下りて渡り廊下を進むと、母屋との境のところに陽子がいた。
「星華ねえを、頼めるかな?」
「まかせとけってっ! あたしがばっちり守っちゃりますよ、ダンナ!」
「どこの方言だ、それは?」
五分の<兄弟分>は、星華ねえを眠らせたことさえ、言わずに通じる間柄だ。
「ま、後のことは、この陽子マンが引き受けたから彰はどーんと行って来いってばっ!
あ、これ、<当主の大弓>。祖父ちゃんから無理やり分捕ってきた」
「……な、なかなかやるな」
「まーね。さっき廊下ですれ違ったときから、どー考えてもこうなるとしか思えなかったから」
くすくす笑う陽子に苦笑した僕は、大弓を受け取った。
今まで持ったことがない、志津留の力と権威の象徴は、しかし、今の僕には
気負いなく手にするものが出来るものだった。
――今の僕は、当主代行。次代の当主の父親だから。

靴を履いて、外に出る。
そこには、夜の帳が落ちかける空の下、白馬を引いた和服の女の人が立っていた。
「美月ねえ……」
「……シロがね、お手伝いしたいんだって……」
「……アオも取り戻さなきゃいけないもんね」
ぶるる、と顔を寄せたシロの頬をなでながら、僕はぎゅっと弓を握り締めた。
「……行ってきます」
「はい。……ご武運、お祈りします。星華も、今日さずかった赤ちゃんも、いっしょに祈ってくれるわ」
「うん!」
シロの上でうなずいた僕は、闇が落ちかけている山頂へと走り出した。


夕闇の中を、シロを駆って走る。
お屋敷から山の頂上へ至る道は、舗装されていないけれど、
土の道はシロの蹄(ひずめ)のためには、かえってよかった。
とっ、とっ、とっ。
かなり急な勾配もあるけれど、シロはそれをものとしないで登って行く。
小さな頃から乗馬は習っているので、僕の腕前もそれなりにあるけど、
滑らかな動きの大部分は、シロの協力によるものだ。
この優しい白馬は、人を乗せて走ることに慣れているだけでなく、本当に賢い。
乗り手が未熟でも、どう動けばいいのか自分でちゃんと考えてくれる。
――小さな頃、興奮のあまり手綱をめちゃくちゃに動かす僕や陽子を乗せても、
何事もなかったようにゆっくりと牧場を一周していたシロは、
乗り手に気を使いすぎる性格のせいか、競走馬としては成功しなかった。
だけど、今の僕にとっては、最高の協力者だ。
「――」
林を抜けた瞬間、つぃーん、と耳鳴りがする。
世界が反転する、久々のこの感触。
僕が自分でコントロールできていた<世界>の影を、強制的に「見させる」。
<挑戦者>の力だ。
開けた草原が一瞬で真っ黒に染まる。――うじゃうじゃとはびこった「この世ならぬもの」で。
月が隠れた。――巨大な髑髏の影にさえぎられて。
五感のすべてと第六感が、僕とシロ以外の「存在」をひしひしと伝える。
はぁぁ……。
僕は目を閉じ、息を吐いた。
シロの変わらぬ蹄の音に、心を合わせる。
目を開けた。
そこには、普段と変わらぬ世界があった。
「――お前の術は通用しないよ、今の僕には」
そう。
僕は、もう恐怖におびえる小さな子供ではない。
どこかで見ているに違いない<挑戦者>に対して呟いた僕は、馬上でぐっと背を伸ばした。

霧が出てきた。
シロの歩みを止めた僕は、目の前で濃く渦巻く白い塊を見つめた。
御山の頂上を包み、早朝、吉岡さんたちの探索を拒んだ霧だ。
「行ける?」
僕は、シロの鬣をそっとなでながら聞いた。
ぶるる。
シロは小さく鼻を鳴らした。
その意思を感じ取った僕は、手綱を取った。
ただ持っただけで、何の力も加えないのに、シロは霧の中を走り始めた。
僕が、<挑戦者>を倒したいのと同様に、シロはアオを助けたがっている。
そして、この霧の結界の力は、そうした、想いに強化された霊力に弱い。
はたして、十メートルも進まないうちに、霧は薄れていった。
いや、それは、実際は1キロにも及ぶ分厚い結界だったのかもしれない。
霧を抜けたとき、僕らは山頂にいた。
二十メートル四方くらいの草地と、そこからなだらかに下って行く坂。
――ここが決戦場だということは、向こうに見える影を見るまでもなく分かった。
闇に映える白い巫女装束に身を包み、アオにまたがったマサキマキ――<挑戦者>の影を。

(――ほ、ほ、ほ。よう来た、志津留のヒコよ)
<挑戦者>の声は、お屋敷でのときのように直接僕の頭の中にひびいた。
(ヒメのほうではなく、ヒコのほうが来るとは思わなんだが、これは好都合。
――おぬしのほうが「力」は弱いから、のう……)
「マサキマキとアオから離れろ!」
<挑戦者>の挑発に乗らず、僕は声を出した。
(――ほ、ほ、ほ)
<挑戦者>の笑い声が大きくなった。
(――そうかえ、そうかえ、この娘の名はマサキマキと言うのかえ。
真名を教えてもうろうたぞ。わらわの術が強くなる、礼を言うぞえ……)
「……」
僕は、<挑戦者>のことばを無視した。
――これは、ただの挑発だ。
直感がそう告げていた。

たしかに、対象者の「真の名」を知ることで効果を増加する術式は存在する。
だが、昨晩、<挑戦者>は僕らがマサキマキのことを話していた場に現れたし、
すでに身体をのっとっている<挑戦者>が、マサキマキの所持品から名前を割り出すことは簡単だ。
何より、ここまで自由に身体を使う術式を使う前に、すでに憑依対象の本名くらい知っているほうが普通だ。
つまり――今のは、はったり。
こちらの動揺を誘うための罠だ。
それを見破った僕は、同時に<挑戦者>の戦法を理解した。
どうしてだろうか。
身体はカッと燃え立つように、頭の中は冴え冴えとしている。
高らかに嗤う<挑戦者>を前に、僕は冷静そのものだった。
昨日までの僕には、けっしてできなかった芸当。
――戦いは、能力の高低ではなく、それを使いこなす精神の比べあい。
僕に、そう教えてくれたのは誰だったろうか。
すっ。
僕は、ためらいもなく矢筒に手を伸ばした。
(ほ、ほ、ほ。この娘を射る気かや? ヒメの友人ではない……っ!!)
余裕たっぷりの<挑戦者>の声は、途中で悲鳴じみたものに変わった。
僕が、無造作に取り出した矢を、これも無造作に引いた弓で放ったから。
(……!!!)
アオの馬上で慌てて身をひねって避ける。
(こ、この娘を傷つける気かやっ!?)
「大丈夫。昨日の美月ねえのように鏃(やじり)は抜いてある。
けど、今日の僕の力は強いぞ。お前でも美月ねえの矢のように簡単には防げまい」
(な、何を馬鹿なことを……。ほ、ほ、ほ……)
馬上で<挑戦者>は取繕うように笑い出した。
だが、先ほどの慌てぶりと、僕の放った矢を、とっさに「防ぐ」よりも「避け」た様子に、
僕は、僕の力が<挑戦者>に十分通じることを確信していた。
<挑戦者>は、たしかに強い。
単純な力なら、美月ねえや、今のお祖父さん、あるいは昨日までの僕より上。
でも、星華ねえや、今日の僕ならば、互角に戦える。
そして、<挑戦者>は、この戦いに、星華ねえが出てくることを予想して策を練っていた。
マサキマキに憑依したのは、その最たるものだ。
――両手を広げた<挑戦者>が呼び出した黒い霧がその証拠だった。

二の矢をつがえる暇もなく、黒い霧が僕を襲う。
そいつは――過去の記憶だった。
おそらくは、マサキマキの。
憧れ。
好意。
感謝。
尊敬。
愛情。
僕の周りで高まるそれらの感情が負に転化し、
自分の無力感。
嫉妬。
そして憎悪。
そうしたものが、マサキマキの記憶から引き出されて僕に叩きつけられる。
脳裏に伝わるめまぐるしく変わる風景や声や映像は、それらの記憶を共有したことがある人間ならば
きっと耐えられないくらいの効果を引き出したことだろう。
――もし、これがマサキマキに近い人間ならば、きっと術に囚われ飲み込まれてしまったにちがいない。
クールに見えて、優しすぎる星華ねえだったら、なおさらのことだ。
でも、僕にとっては、それは、十分に冷静さを保つことが出来る「距離感」にあった。
たしかに、僕もマサキマキを助けたい。
だけど、それは、人の心の裏を巧みに突く<挑戦者>が利用できるほどに深い「縁」をまだ持っていないものだった。
僕が頭を振ると、黒い霧はあっさりと飛び散った。
(ちぃぃっ!)
もはや笑うことすら忘れた<挑戦者>が背を向けて駆け出す。
山の頂上から下って行く坂から逃げようと言うのだ。
「待て!」
逃がすかとばかりに僕が追う。
――その頬を、矢がかすめた。
振り向き様に、<挑戦者>が放ったものだ。
「!!」
頬を伝う、生ぬるい感触。
(ほ、ほ、ほ、そちらは鏃を抜いた矢だが、こちらは本物の矢ぞえ。
――術が効かぬのならば、力で殺してしまえばよいこと)
アオをぐるりと駆けさせながら、<挑戦者>が邪悪に笑った。

「――このっ!!」
(――この娘、なかなかの使い手。騎射だけなら、お前にもひけはとらぬぞ)
「……だろうな。感じが悪い子だったけど、流鏑馬(やぶさめ)の努力は本物だよ」
たった一回会ったきりだけど、アオをみごとに駆ってみせた腕前は、天性のものだけで身に付くものではない。
さっき垣間見た記憶を「探る」までもなく、マサキマキの積み重ねた修練はたいしたものだった。
それを見越して<挑戦者>は彼女の身体をのっとったのだ
(ほ、ほ、ほ――この技、わらわが存分に使ってつかわす)
<挑戦者>は余裕を取り戻して走り出した。
僕も、シロを駆って追う。
狭い山頂のポジションを奪い合う争いは、すぐに坂の下へと場所を移った。

草と土を跳ね上げ、二頭の馬が併走する。
互いに弓を射るタイミングをはかりながら坂道を駆け下る。
まさしく、命がけの流鏑馬だ。
がっ!
道の途中で、アオが反転した。
坂を戻って登ろうとする。
「!!」
あわててこちらも馬首を返そうとしたら、そこを射られた。
今度は肩を掠める。
(ほ、ほ、ほ――)
耳障りな笑い声を上げながら<挑戦者>が再度突撃してきた。
「くっ!」
馬上で体勢を立て直すと、シロが猛然と走り出した。
――僕の指示ではない。シロ自身の判断だ。
(――!!)
まさかこちらが突っ込んでくるとは思わなかったのか、<挑戦者>が絶句する。
ぶるるっ……。
すれ違い様、シロが首を振ってアオの横面をはたいた。
(――あっ!)
アオがよろけ、<挑戦者>はずるずるとすべるような感じで馬から落ちた。
足から落ちて尻餅をついたので、マサキマキの身体は怪我もしていない。――少なくとも大きな怪我は。
「ナイス! シロ!!」

乗り手を落としたアオは、慣性の法則にしたがって十メートルくらい先まで進んで立ち止まった。
今のショックで<挑戦者>の呪縛が解けたのだろうか。
アオが戸惑ったように振り向く。
ひ、ひーん!!
シロが怒ったように鳴く。アオは慌てたように坂を下り始めた。
――シロは本当に賢い。
<挑戦者>に再度の騎乗と支配のチャンスを与えず、アオを安全な場所へ逃がした。
「あとはお前一人だ」
僕は尻餅をついたままの<挑戦者>に狙いを定めながら言った。
(ほ、ほ、ほ……)
うつむいた<挑戦者>の口から笑い声が漏れる。
(……わらわ一人じゃと? ――甘いわ、小童っ!!)
巫女服の袖が翻った。
「――!!」
<挑戦者>に矢を放とうとした僕の右手が抑えられたのは次の瞬間だった。

「うわっ!!」
慌てて振り向くと、銀色の光が僕の腕に絡み付いていた。
ひ、ひーん。
シロが悲鳴を上げる。
その首筋に、金色の光が巻きついている。
いや。
銀と金の光は、光そのものではなく、月光をてらてらと反射する毛皮だった。
この世ならぬものが身にまとう毛皮。
(けーん!)
(けーん!)
そいつらが、吠えた。
「狐っ!?」
僕の腕と、シロの首に巻きつき、締め付けているのは、妖しの狐だった。
(――ほ、ほ、ほ。わらわの切り札、わが娘・稲風(いふう)と、わが子・稲空(いくう)よ)
闇の中で、<挑戦者>がにやりと笑った。

「――卑怯だぞ、一騎打ちじゃなかったのか!?」
(なんとでも言え、この娘の「縁」が使えぬとあって慌てたが、伏せておいた甲斐があったわ)
<挑戦者>は立ち上がりながら嗤った。
マサキマキの顔立ちを借りながら、ぞくぞくするほど酷薄で美しいその笑いは、
歳を経た妖狐の表情そのものだ。
「くそっ!」
(ほ、ほ、ほ。解けぬぞえ。隙を突いた霊撃じゃ。おぬしの力を遮断しておる)
<挑戦者>に指摘されるまでもなく、僕は、今まで無意識に汲み取っていた御山からの力が
僕から切り離されてしまったことを悟っていた。
今まで重さすら感じなかった<当主の大弓>がずっしりと手に負担をかける。
取り落としそうになって慌てて握り締めるが、きりきりと巻きつく銀狐に邪魔されて力が入らない。
いや、右手ばかりか、全身が金縛りにあっている。
霊力の戦いは、準備していないところを叩かれると、一瞬にして動きが取れなくなるのだ。
ひ、ひーんっ。
シロも金狐に絡み付けられて苦しそうに鳴いた。
(ほ、ほ、ほ。良いざまじゃ。――さて、とどめを刺してくれる)
歯をむき出して嗤う<挑戦者>。
僕は、ぎりぎりと歯軋りをした。
(ほ、ほ、ほ。睨んでも、なにも起こらぬわえ。無力な自分を呪いながら、死ね)
<挑戦者>が、矢を番え、僕に向かって構える。
狙いは――心臓。
それも宍戸さんの時のように、わずかに外すということはない。
一撃で絶命させられる場所を、ぴったりと狙っている。
「――!!」
「――!?」
僕が、声にならない声を上げたとき、――<挑戦者>も、また愕然とした叫び声を上げた。

ざざざっ!!
ざしゅっ!!
僕の左右で、突然地面が持ち上がった。
そいつらは十メートルもある首を伸ばし、空中で反転すると、下へ向かって一気に突っ込んできた。
――僕とシロを押さえつける銀と金の妖狐にむかって。

「――!?」
(な、なんじゃっ、これはっ!?)
<挑戦者>の慌てたような声を聞くまでもなく、新しく現れた存在
――土で出来た大小二匹の蛇……あるいは龍?――が、僕のほうの味方であることはわかっていた。
厳しく、荒々しく、冷酷な力――だけど、どこかにはっきりと感じる優しさ。
「星華ねえ……」
僕は、御山からその力を引き出している女(ひと)の名を呼んだ。
僕の右手に絡みつく稲風――銀狐を振り払った大きなほうの土蛇に、
僕は、はじめて会ったときに僕の背に乗った妖しを払ってくれた星華ねえを感じた。
これは――星華ねえの力。
大きな土蛇は、銀狐をたたきつけると、一たん地にもぐった。
(ひっ――)
<挑戦者>が悲鳴を上げる。
その声が弱々しくなっているのは、今まで使っていた御山の力を遮断されたからだ。
不意打ちによる一瞬の逆転は、今度はこちらのほうだった。
いや――この逆転は、不意打ちだからではない。
御山は、もう中立を守る事をやめていた。
あきらかに、一方に加担している。――すなわち、僕らの側に。
それは、僕のためでもなく、星華ねえのためでもなく――。
(ひ、卑怯じゃぞっ! 妻子の助太刀を呼ぶなど――!!)
<挑戦者>が、わめいた。
そう。
もう一匹の土蛇、今、金色の狐をシロから引き離した小さなほうは――僕と星華ねえとの間の子供。
身体は小さいけど、御山の力をいっぱいに受けて、それを自在に操っているのは、
星華ねえの子宮の中で、まだ着床さえしていない受精卵。
僕は、星華ねえの土蛇より不器用な動きで地にもぐったそれを、唖然として見送った。

(――は、はなせっ! 馬鹿ものっ!!)
<挑戦者>の耳障りな声に、僕ははっと我に帰った。
再び土中から現れた大きなほうの土蛇が、マサキマキの肢体を捉え、持ち上げているところだった。
じたばたと手足を振ってもがく<挑戦者>は、いっそ哀れみをさそうくらいに無様だ。
御山の力を絶たれた妖狐本体は、悪知恵はともかく、力そのものはそれほど強くなかったのかもしれない。

(一騎打ちじゃぞっ、恥を知れっ、馬鹿ものっ!!)
嘆かわしいというも愚かな言い分に、こんなときなのに、思わず僕は苦笑してしまった。
「……三対三だろ?」
(……一人多いではないか、卑怯者っ!)
「え……?」
泡を飛ばしながら言い立てる<挑戦者>のことばに、僕は首をかしげた。
けーん!
けーん!
銀狐と金狐が鳴いた。
地に伏せた二匹の妖しは、それぞれが再び地上に現れた土蛇に組み敷かれ、泣き声を上げている。
――双頭の蛇に。
「……双子なんだ……」
ほとんど呆然とした僕が、しばらくして我に返ったとき、
<挑戦者>も、その子供たちも、すっかり戦意を喪失しており、僕らに降伏を申し出ていた。

それから、数時間はあっという間の出来事だった。
戦いが終わると同時に駆けつけたお祖父さんや、婆さまや、美月ねえや「郎党」の人たちの力を借りて、
<挑戦者>たちの降伏の<儀式>が行なわれた。
力を失い、観念した三匹の妖狐を<契約>で縛る作業を、僕は最後まで見届けなかった。
シロを駆って、お屋敷に戻る。
飛び込むようにして離れに行く。
――星華ねえは、眠っていた。
留守番の陽子に聞くと、僕が戦っている間に<KURARA>の効果が切れて目覚めた星華ねえは、
事情を知り、また今から山頂に向かっても決戦に間に合わないと悟ると、
機織小屋にこもって御山に「呼びかけ」をはじめたらしい。
それは、どういうものか陽子にもわからなかったのだけれど、僕はそれがもたらした結果を僕は知っている。
星華ねえと、子供たちの力を借りて<挑戦者>を退けることが出来たから。
僕は、戦いが終わって眠っている美しい妻の唇に、自分の唇を重ねた。
深い眠りの中にいる星華ねえは、そのキスで目覚めることはなかったけど、僕は満足していた。
――星華ねえは、眠り姫よりずっとずっと美しいから、眠り姫の物語を踏襲する必要はない。
僕は、怪我の治療のために階下に下りてくるように声を掛けられるまで、
星華ねえの寝顔をずっと眺めて飽きなかった。

「――いてっ、もうちょっと優しくしろよな、このぶきっちょっ!」
「文句言うな!」
頬と肩の傷は浅かった。
冷蔵庫で冷やした黄色い液体が染みる。
子供の頃から、陽子ともどもお世話になっている強力な消毒液だ。
爪にかかると染まっちゃって色が抜けないのが珠にキズなんだけど、効果はバツグン。
陽子のようなガサツな奴が使っても、十分な治療効果をあげられる。
「だ〜れが、ガサツ女だって?」
どげし!
陽子の拳骨が僕の頭をはたく。
前言撤回、陽子じゃ、治療する以上に怪我をおわされてしまうや。
「――やれやれ、ひと段落じゃの……」
山頂から戻った婆さまたちが、腰をたたきながら部屋に顔を出した。
<挑戦者>のことはひとまず片付いたらしい。
一歩間違えれば危なかった<敵>も、いったん御山が主を選んでしまえば、どうということはない。
しばらくは、志津留は安泰じゃな――婆さまのそのことばに、皆の顔が明るくなる。
僕は、生まれてくる子供のことで頭が一杯だった。
星華ねえといっしょに、僕を救ってくれた愛しい子供たちに会えるのが、
まだ十ヶ月も先のことだというのが、本当に残念でしょうがない。
僕は、わくわくする気持ちを懸命に抑えた。
そうでもしないと、喜びと興奮のあまりにどこかへ走りだしかねない。
その様子を、美月ねえや、陽子たちがにこにこして見つめている。

――戦いが終わった後の、家族のなごやかな団欒。
――非常事態の中、一致団結した絆を平和な空気の中で再確認できる幸せ
――それが平穏な日常にゆっくりととけていく、穏やかな時間。

……だけど、そうなるまでの間に、もう一つ、事件が起こってしまったんだ。

――ぱあぁんっ!
突然、ふすまがものすごい勢いで開けられた。
それが、「それ」の始まりだった。

「……せ、星華ねえ……?」
ふすまを開け放った状態で立っているのは、――星華ねえ。
でも、様子がおかしい。
「ふぅっ……ふぅっ……ふぅっ……」
突然のことに、皆が唖然として声もない広間に、星華ねえの荒い息遣いだけが聞こえる。
「ど……どうしたの……星華ねえ……」
僕は、黙ったまま僕を睨んでいる星華ねえに、おろおろとした。
「――ま、まさか、<挑戦者>が憑いた……の?!」
別人のようにおかしい様子に、僕は先ほどまで戦っていた相手の能力を思い出した。
慌てて立ち上がる。
――めきゃ。
星華ねえが、伸ばした腕――開け放したふすまの端をまだ掴んでいる――に力をこめた。
めきゃ、めきゃ、めきゃ。
星華ねえが掴んでいるふすまの端っこが、広告の紙かティッシュかのようにくしゃくしゃになっていく。
お屋敷のつくりは、地味なようでいて、お金をかけるところはちゃんとかけているから、
このふすまも、枠がしっかりした、下手な板戸なんかよりはるかに丈夫な奴だ。
その縁がぐしゃぐしゃになっていく――ものすごい力だ。
「せ、星華ねえっ、しっかりしてっ!」
僕は、星華ねえに駆け寄った。
どうすればいいのか、何をすればいいのか分からなくて、頭の中はぐるぐると回っていた。
「せ、せいかね……」
ばしーんっ!
星華ねえの前に立った瞬間、世界が反転し、ぐらついた。
「!!??」
何が起こったか、一瞬分からなくなる。
びたーんっ!
反対側から、もう一度同じような衝撃。
……僕が、星華ねえに往復びんたをもらった、ということに気がついたのは、
それからたっぷり十秒たってからだった。

「ふぅっ……ふぅっ……ふぅっ……」
「あ、あの……」
「ふぅっ……ふぅっ……」
「せ、星華ねえ……?」
「ふぅ……」
「……」
「ばか……」
「……え?」
「馬鹿……馬鹿……」
「……せ、星華ねえ?」
「……彰の馬鹿っ! 大馬鹿っ!! 死んじゃったらどうするつもりだったのっ!!」
それは、その場の誰もが見たことがない、星華ねえの爆発だった。
いつも冷静沈着な<志津留のヒメ>がはじめて見せる感情の奔流。
星華ねえ自身でさえ、自分でわからないほどの狂おしい想い――それを、僕は理解できた。
もし立場が逆だったら、僕は、星華ねえのことが心配でならなかっただろう。
結果的に、最後は圧倒的な勝利に終わったけど、戦いはどちらに転ぶか分からないものだった。
あるいは――こちら側の死によって終わっていたかもしれない。
僕が死ぬ分にはまだ諦めがつく――でも、もし星華ねえが死んでしまったら――。
そう考えて、僕は気がついた。
それは、星華ねえにとっても同じことだった。
<KURARA>の睡眠効果から目覚め、僕が戦いに赴いたことを知ったとき、
星華ねえはどれだけ困惑し、また不安に思ったことだろう。
「……ごめん」
僕は、僕の胸元に顔をうずめ、嗚咽している星華ねえに謝った。
「……ゆるさない……」
小さな、くぐもった声が聞こえた。
「……え……?」
「……ゆるさないから……」
想像の範疇にない声とことばに、僕は狼狽した。
それは、星華ねえが顔をあげ、涙の溜まった、だけど、強く光る瞳で僕を見つめたときに最高潮に達した。
「――彰が私のものだと思い知るまで、私が彰のものだと思い知るまで、ゆるさない。
――だから、彰がわかってくれるまで、おしおきする」
星華ねえは、そう言って僕の手を掴んで勢いよく走り出した。

「うわわっ――」
ぐいぐいと引っ張る星華ねえに引きずられるようにして、僕は部屋の外へ連れ出された。
ちらりと見た部屋のみんなは――。
お祖父さんと婆さまは目をそらし、美月ねえは真っ赤な顔を伏せ、陽子だけはにやにやと笑っている。
吉岡さんや小夜さんたち「郎党」の人たちは表情の選択に困っていた。
……ただ、部屋の誰もが、星華ねえを止める気はないのだけはわかった。
と言うより、今このお屋敷に、星華ねえを止められる存在は、いない。
僕は引きずられるまま、星華ねえについていった。
――お風呂の中へ。

「……」
「……脱いで」
「は、はいっ」
「……全部」
「は、はいっ……」
僕がおどおどと服を脱ぎおえたとき、星華ねえはもう真っ裸になって「準備」をはじめたところだった。
どこからか持ってきた銀色の大きなマットを、これもどこからか持ってきた空気入れで膨らます。
「これって……」
「柳町の小母さんから貰った。男の子を悦ばせる道具だって」
「……やっぱり」
てらてらと光る新品のマットは、「そういうこと」のための道具だ。
星華ねえは、一番大きな洗面器にお湯を張り、マットといっしょに持ってきたフラスコの中身を混ぜた。
お湯が、とろとろとした透明な粘液にかわった。
「……」
星華ねえは、何度かそれをすくい上げては落とし、すくい上げては落として粘度をはかった。
繊細な薬物を扱う技術者のような真剣な目で確かめ、こくりとうなずく。
――満足がいくものを作れたようだ。
「……そこに、寝て」
ローションがついた指先で、マットの上を示す。
僕は言われるままに従った。
寝転ぶと、星華ねえの裸が目に入る。
「うわ……」
分身が、むくむくと頭を持ち上げ、自己主張してきた。

「彰……すごい……」
「ええと、これはその……」
昨日の交わりから、半日以上が経っている。
徹夜明けで、いわゆる「疲れマラ」の状態になっていたこともある。
さらに言えば、生死を賭けた戦いという異常事態の中で、本能が刺激されたこともある。
……何より、裸の星華ねえが隣にいる。
僕のおち×ちんは、ぱんぱんに張ってしまった。
「……」
星華ねえが、洗面器のローションを僕の身体の上にたらす。
とろとろ、とろぉ。
人肌に温まった粘液は、それだけで皮膚に快感と興奮を与える。
つ、つ、つ。
星華ねえが、それを手のひらで伸ばした。
僕の全身にぬるぬるとしたローションが塗られていく。
「……気持ちいい?」
「うん」
人間は全身が性感帯になりうる、という。
僕は、胸やお腹を撫でられるだけで、ものすごい興奮を感じていた。
星華ねえの、なめらかな手のひらは、肌に触れる、ただそれだけで気持ちいい。
でも、星華ねえは、もっと気持ちいいことをはじめてくれた。
「……」
僕の隣に添い寝するような形で横たわった星華ねえは、
ためらいもなく右手を僕のおち×ちんに伸ばした。
にゅる、にゅむ。
粘液をたっぷりと塗りたてて、柔らかくしごく。
ゆっくり、ゆっくりと。
「あうう……」
僕は太ももをもじもじさせて、星華ねえがもっと強く、もっと早く手を動かしてくれるのを待った。
でも、星華ねえは、僕に「おしおき」しているのだった。
星華ねえは、手の動きをさらにゆっくりとした。
僕はマットの上で身もだえした。
それを見た星華ねえは、別な「おしおき」をはじめた。

ちゅっ。
一瞬、何をされたのか、分からなかった。
星華ねえが、僕のほっぺにキスをしたんだ。
「あ……ひゃっ!?」
僕が声を上げる。
星華ねえはかまわず、その唇を動かした。
いや、正確には、その唇から突き出された舌を。
それが、キスした場所から、僕の唇にむかって頬の上を進む。
ぬるぅり、のろぅり。
世にも美しいかたつむりが、這い、僕の唇に到達した。
「んむ……うぐぅっ?!」
一瞬の躊躇もなく、星華ねえの舌は僕の唇を割った。
「むぐ……うむ……」
星華ねえの舌は、僕の口腔を大胆に犯した。
僕の歯に、歯茎に、舌に――柔らかい肉片が蹂躙していく。
(これは、私のもの)
星華ねえの情熱的な舌の動きは、無言だけど、百万のことばよりも雄弁に宣言していた。
「……」
僕は、それに答えるために、やっぱり無言で舌を絡めた。
「んん……」
僕の至近距離で、星華ねえが目を細めた。
二人の舌の動きが、ゆっくりとなる――お互いを確かめ合うように。
「――ふあっ……」
互いの呼吸(いき)の限界まで舌を絡ませあった僕たちが唇を離すと、
二人の混ざり合った唾液が、ローションよりも長い糸を引いた。
「……」
大きく一呼吸した星華ねえは、そのまま次の「おしおき」に入った。
「きゃっ」
乳首に舌を這わされ、僕は女の子のような声を上げた。
星華ねえはかまわず、僕の乳首を含んで舌先で転がす。
大好きな女性に犯される――。
男女が逆になったような責めに、僕は、頭がくらくらとする陶酔に包まれた。

「ひゃいっ……」
「……」
星華ねえは、僕の両方の乳首をかわるがわるなぶった。
柔らかい舌先が先端を突つき、唇が吸いたてるたびに、僕は甘い悲鳴を上げた。
星華ねえのゆっくりだった右手の動きが、少しずつ力と早さを増す。
僕はマットの上でびくんびくんと、釣り上げられた魚のように跳ねた。
「……彰、気持ちいい?」
「い、いいよう……気持ちいいっ……」
「そう。……じゃ、もっと良くしてあげる」
星華ねえは、枕元に置いた洗面器の中に手を差し入れた。
手のひら一杯にローションをすくう。
すらっとした足が、僕の側面で、器用に折りたたまれた。
「え……?」
星華ねえは、自分の足指と足の裏にローションをたっぷりと塗りつけた。
それって、まさか――。
以前に見たことがある、かなりフェティッシュなビデオでしか知らない行為。
両足にローションを塗り終えた星華ねえは、僕の顔を覗き込んだ。
「……これ、するのは初めてだから、失敗したらごめんね。
でも、男の子はこれがすごく好きだって、柳町のお姉さんたちは言ってた」
そういうと星華ねえは、僕の下半身に足を伸ばした。
下腹の上を、つるつるしたものがすべって行く。
「あ、あ、あ……」
僕が何かをことばにする前に、星華ねえの足は、目的地に達した。
「……」
神経を集中するようにちょっと眉根を寄せた星華ねえの足指は、
親指と人差し指の間に、僕のおち×ちんの茎の部分をはさみこんでいた。
ぬるぬるのローションの感触と、手とは違う、ちょっと力強い圧迫。
星華ねえは、ゆっくりとそれを上下させはじめた。
足指でおち×ちんを愛撫する性技――俗に言う「足コキ」だ。

「うわあっ」
僕は情けない悲鳴を上げた。
星華ねえの足は、白くてすべすべで、綺麗だ。
ジーパンやパンツ系のスーツなどを好んではく星華ねえが
足を露出することはあまりないのだけど、僕は、その魅力を知っている。
川遊びに行った時にだけ見ることが出来る、美しいもの。
小さな頃、石膏雪花(アラバスター)の細工物をはじめてみたとき、
その透き通るような白さとつるつるとした清潔感と美しさに、
僕は星華ねえの足を連想したことを思い出した。
その足が、今、エッチなローションにまみれて、僕の男性器に奉仕している。
「……んくうっ!」
僕は、マットから飛び上がらんばかりの快感を覚えた。
おち×ちんに、血液と、興奮と、精液が限界まで注ぎ込まれる。
「……」
でも、星華ねえは、そのまま最後まで僕をイかせてくれなかった。
爆発の寸前で、足指に力をこめて、ぎゅっとおち×ちんの茎をつかむ。
どくん、どくん。
びくん、びくん。
僕のおち×ちんは、文字通りにはちきれそうなくらいに膨れ上がったまま時を止められた。
「……せ、いか…ねえ……」
「くらくら」を通り越して「ぐらぐら」レベルのめまいの中、
僕は泣きそうになって星華ねえに声を掛けた。
眩んだ視界には捉えきれない至近距離で、星華ねえのささやき声が耳元で聞こえた。
「……彰は、私のもの――わかった?」
「え……?」
「私が、彰をいっぱい悦ばせてあげる。ずっと、ずっと、……一生。
だから、彰は私のところから、どこにも行っちゃ駄目。ずっと、ずっと一緒……」
「……星華ねえ」
「楽しいことも、恐いことも、気持ちいいことも、危険なことも、みんな一緒。
私を、全部丸ごと、彰にあげる。だから、彰の全部を私にちょうだい」
それが、星華ねえの考える「結婚」であり、「夫婦」なのだろう。

星華ねえは、いつも冷静で、ものごとにこだわらない。
――だけど、それは、執着がないわけじゃないんだ。
星華ねえは、たった一つ、一番大事なものだけに執着する。
自分の一生を、本当に全部捧げるくらいに、強く。
さっきの感情の爆発は、星華ねえは、ほんとは誰よりも情熱的な女性であることの現われ。
そのことを、そしてその対象が僕以外の何者でもないことを悟って、僕は絶句した。
――驚きと、喜びに。
「わかった、彰?」
星華ねえが、もう一度足指にぎゅっと力をこめて聞いた。
僕は、身もだえするような快楽に、うわずった声で返事をした。
「――うん、わかった……」
「……もう私に黙って、危ないところに行かない?」
「行かないよ。僕は、星華ねえとずっといっしょだよ……」
身を起こして僕の顔の上に自分の顔を近づけた星華ねえは、
とても嬉しそうな微笑を浮かべながらささやいた。
「そう。……じゃ、許してあげる」
「せ、星華ねえ、……ぼ、僕…もう……」
「……イきたい?」
「うん……このまま、星華ねえの足で……」
倒錯した快感は、絶頂を味わなければ収まりそうになかった。
「……」
こくりとうなずいた星華ねえは、足指の締め付けを緩めた。
同時に、上下にこする動きを再開する。
僕はたちまち上り詰めた。
「ひあああっ!!」
情けないくらいに甘い悲鳴を上げて、僕は射精した。
びゅくっ、ぴゅくっ!
おち×ちんの先っぽから激しく噴き上げられた白い粘液は、
信じられないくらい高くまで飛び、僕のお腹や、胸や、顔にまでかかった。
「うああ……」
何度も何度も跳ね上がるように律動を繰り返すおち×ちんを、
星華ねえは丁寧にしごき揚げ、最後の一滴まで残さずに吐き出させた。

「……彰、精子まみれ……」
放心状態の僕を見下ろして、星華ねえがくすりと笑った。
「ふああ……」
あまりの気持ちよさに、僕はことばもなく、呆けたような声を出すだけだった。
「ん……」
星華ねえは、僕に顔を寄せた。
ぺろりと、僕のほっぺたについた精液を舐めあげる。
僕は、慌てた。
「あ……星華ねえ……汚いよ……」
「なんで? 彰の精液。汚くなんか、ない」
星華ねえは、舌ですくい取るようにして白い粘液を舐め上げる。
何度かそれを繰り返した星華ねえが唇をつぐみ、目を閉じる。
僕は、ぞくぞくっとした。
星華ねえが、僕の精液を口に含んでる。
いや、それだけじゃなくて――。
くちゅ、くちゃという音は、舌の上に乗ったものを丁寧に転がしている音。
すぅすぅ、という呼吸音は、口腔内の匂いをかいでいる音。
こくん、という音は、僕の精液を飲み下した音。
「うん。――彰の匂いと、彰の味。美味しい」
ゆっくりと目を開けた星華ねえは、ささやいた。
いつものように、感情のふり幅が少ない声に、僕にしか分からない淫らさと艶やかさがこめられている。
それは、僕に、こう告げていた。
(――これは、全部、私のもの)
僕は、僕のすべてが星華ねえに飲み込まれて一体化して行く感覚を覚えた。
星華ねえの肌や、お腹の中や、子宮の奥に、僕が吸い込まれ、溶け込み、ひとつになっていく。
「――星華ねえっ!」
僕は、猛烈な情欲を覚えて星華ねえに抱きついた。
「ん……っ」
「星華ねえ、セイカネエ、せいかねえ、せいかねえせいかねえせいかねえ……」
昨日、星華ねえが見せたような、声を出すのももどかしいくらいに狂おしい衝動が僕を襲う。
「あ……」
そして、星華ねえは、昨日僕がそうしたように、つがいの欲情をすべて受け入れた。

僕は何度も、星華ねえの中に入った。
ローションと、星華ねえの蜜液と、僕の精液でぬるぬるとなった
二人の性器は、どこまでが自分の肉体で、どこまでが相手の肉体なのか、境界があいまいだった。
――わからなくて当然だった。
星華ねえは全部僕のものだったし、僕は全部星華ねえのものだった。
二人は、二人そろってはじめて完全な存在だった。
だから、いつでも何度でも一つになろうとした。
僕たちは、限界まで交わり続けた。
互いが所有するつがいのすべてを求めて。

「……はぁふ……」
星華ねえが、熱い吐息をついて僕の上に崩れ落ちた。
もう何度交わったのか、覚えていない。
あたり一面が暗くなり、虫の音が遠くに聞こえるのを考えると、
半日以上も交わっていたのかもしれない。
昨日も、同じくらいの時間を過ごしたけど、今日は、もっともっと濃厚で熱烈だった。
僕は、息も絶え絶えになりながら、それでも星華ねえとつないだ手を離さなかった。
「……ふぅ……んむ……」
星華ねえが、僕に優しく頬ずりする。
「彰、……いっぱい、イった?」
「うんっ! ……星華ねえは?」
「私も、たくさん、イった」
「――僕は、星華ねえのものになった?」
「うん。――私は、彰のものになった?」
「うん!!」
星華ねえの唇に、小さな、でも世界で一番幸せそうな微笑が浮かんだ。
僕は、僕のものになった女神さまの美しさに、陶然となった。
――これから一生の間に、何万回もそうするのと同じくらい強く、
妻となる女(ひと)に魅せられて。

「あがろうか?」
「うん」
満ち足りた思いの余韻を楽しみながら、僕らはお風呂を片付けた。
体力はもう限界なので、申し訳ないけど、本式のお掃除はお手伝いさんに任せる。
マットを片付けて、お湯で流して、そこまでが精一杯だ。
いつの間にか脱衣場に用意されていたパジャマを着て、お風呂場を出る。
――途中で美月ねえや陽子に会ったらどうしようか、とどきどきしたけど、
幸い渡り廊下に出て「ばっちゃの機織小屋」に行くまで誰にも合わなかった。
まあ、会ったとしても、二人三脚をするときよりも密着しながらふらふら歩いている僕たちを見たら、
そのまんま黙って見送ってしまいそうだけど。
星華ねえの部屋の二階に上がると、四方から虫の音が聞こえてきた。
「……そう言えば……」
並んでベッドに腰掛けた僕は、星華ねえを見つめた。
「何?」
「……双子……なの?」
戦いの最中、僕に助太刀してくれた我が子のことを思い出して、僕は尋ねた。
「うん。――女の子の、双子」
「そんなことまで、わかるんだ……」
まだ細胞分裂もしているかもわからない時期のはずだけど、
僕は、星華ねえのことばが真実だということを知っていた。
あれだけの力を持つ子供たちだ。
お腹の中にとどめている母親がそれを明確に感じ取っていても不思議ではない。
「ありがとな。――パパを助けてくれて」
僕は、まだ膨らんでいない、星華ねえのきゅっとくびれたウエストの辺りに語り掛けた。
「――ママも」
星華ねえが、自分のお腹をそっとなでながら、言った。
僕が戦いに敗れて死んでいたら、――星華ねえも生きてはいない。
双子は、自分の両親を生まれる前から救ってくれたのだ。
「……親孝行の子供だね」
「うん。――でも、ちょっと、お転婆すぎるかも」
「……え?」
突然、星華ねえが抱きついてきて、僕はベッドの上に押し倒された。

「な、何を……」
身体を擦り付けてきた星華ねえの、積極的な愛撫に、僕は目を白黒させた。
さっき、互いの限界まで、あんなに交わったのに、
今の星華ねえの、この抱きつき具合は――やっぱり、あれのお誘いだ。
「せ、星華ねえ、満足できてなかったの……?」
男として、なんとなくショックを受けて、僕はつぶやいた。
「ううん。私は、すごく満足した。――でもこの子達が……」
星華ねえは、僕の首筋に唇を這わせながらささやいた。
右手は、もう僕のパジャマのズボンの中に差し込まれている。
「……この子達が……?」
「さっきの戦い、納得できていないんだって。
自分たちがもっと強かったら、もっと彰と私を楽にさせられたのに、って、
この子達、自分たちの未熟さに怒ってる」
たしかに、双子の力で作られた双頭の土蛇は、星華ねえのそれよりは動きが不器用だった。
だけど――。
「み、未熟って、まだ生まれてもないのに、当たり前じゃんっ!?」
「本人たちはそう考えてないみたい。――だから、ね」
星華ねえは、目をとじてこくり、とうなずいた。
ものすごく機嫌がいい時の、星華ねえのくせ。
「――パパを、――志津留の血と力を、もっと濃く引き継いで生まれてきたいんだって……」
「そ、それって……」
「――彰。私の子宮の中に、届けてあげて」
星華ねえは、そういって、僕の唇をキスでふさいだ。
それから一分もしないうちに、せっかく着たばかりのパジャマは、星華ねえに脱がされ、
僕らは夜通し、子供たちの「最初のわがまま」に振り回された。

――振り回されてへろへろになったのは、主に僕のほうだけど。

「――彰。その試験管取って」
「あ、これね」
「――データ取りは、これで最後」
「OK。……できた!」
「お疲れ様。あとは、データをまとめるだけ」
「……それが大変なんだけどなあ……」
んーっ、と背伸びをしながら、僕はぼやいた。
星華ねえは、印刷されて出てきた用紙をざざっと見ている。
「紅茶、入れてこようか」
「ありがと……でも、すぐ出れるから大丈夫。
お茶は、一菜(かずは)と一葉(いちは)のところに行ってからにしよう」
「あ、それ、いいねっ」
僕は、事件室のある棟から百メートルくらい離れたところにあるマンションの一室にいるわが子に思いを馳せた。
二人で検査したり、機械を調整したりする重要な時間帯意外は、
星華ねえと交代しながらの作業だから、もうかれこれ十二時間会っていない。
気付いてしまうと、気もそぞろになってしまう。
「ごはんは、食べたかな。お昼寝は、ちゃんとしたかな?」
「今日のお手伝いさんは、志摩さんと、あの二人だから心配いらないと思うけど……」
そういいながら、星華ねえもそわそわとしている。
「……データチェックは後にしない?」
「……そうね」
星華ねえは、机の上に、ぽんと紙束をおくと、さっと立ち上がった。
タイトなGパン姿に羽織った白衣がまぶしいくらいに綺麗だ。
それにうっとりする暇もなく、僕も立ち上がる。
ぼろい研究室のこれまたおんぼろドアを開け閉めするのももどかしく、二人は外に出た。
コンクリ道を、早歩きで急ぐ。
マンションの入り口にかかるころは、もう駆けっこ状態だった。
エレベーターは下に来ていない。
躊躇なく階段を選ぶ。
三階まで、三段抜かしで駆け上がる。
ドアを開ける。
「ただいまー!! ふたりとも、元気でいい子にしてたかいっ!?」

「……とても元気だった。……でも、全然いい子じゃなかった……」
玄関先の床の上から、息も絶え絶えの声がした。
僕はそれを無視して、飛び越した。
「……おいっ……」
廊下に伸びていた男の子――よく日に焼けて、いかにもすばしっこそうな十五、六歳くらいの子が、
起き上がり、歯をむき出して怒った。
「……ちょっ、あたしの尻尾は、おもちゃじゃないってばあっ!」
居間で双子にお尻から伸びている銀色の房を引っ張られて、十七、八歳くらいの女の子がわめく。
「あははっ、いい子にしてたみたいだねっ! 一菜っ、一葉っ!」
「ど、どこをどうみたらそんなセリフが出てくるのさっ!!」
女の子のきいきい声の抗議は、僕も星華ねえも聞いてない。
もちろん、双子の姉妹も。
「ぱぱぁ〜!」
「ままぁ〜!」
ヨチヨチ歩きの娘たちを抱きかかえて、頬ずりする。――至福の時。
星華ねえのクールな横顔も、このときばかりは緩みっぱなしだ。

<挑戦者>との戦いから四年。
僕は二十歳になり、星華ねえは二十三歳になった。
今は、同じ大学の二年生同士だ。
あの後、僕は生まれてくる子供たちに備えて、高校をやめて<本家>に婿入りした。
出産のため、大学を三年間休学した星華ねえといっしょに子育てに追われながら、
大学検定を受けて、星華ねえと同じ大学に入学した。
今は同じゼミで薬学の研究をしながら、双子といっしょに大学のある街でくらしている。
いずれは志津留の家を継ぐ(もっとも僕らは当主の親という立場から後見人なんだけど)ことになるけど、
それまでの間、家業にも役に立つ知識や技術を学ぶいい期間だからだ。
以前から独自であんなに強力な薬を作ることが出来た星華ねえが
大学で目指しているものはとても高くて、学部生なのにもう院生レベルに達している。
僕も頑張っているので、なんとかついて行くことができた。
「星華ねえといつもいっしょ」
それは、僕らの間の一番大切な約束で、それを果たすのに必要ならば、僕は多分空だって飛べるから。
志津留の本家から交代でお手伝いさんに来てもらってるおかげで、
学生結婚、しかも子持ながら、大学生活のほうもまずまずにこなせている。

――ありがたいことだ。
「……おい」
背後で、恨めしそうな声がする。
「なんだい、稲空(いくう)?」
一菜を「高い高い」しながら僕は振り向いた。
人形を取っているときは、その容姿も手伝って、
なんとなくこの姉弟のことを、妹分、弟分に思える。
そうだなあ。自分や陽子と、吉岡さん家のケン坊との間くらいの妹分、弟分。
その「妹」分と「弟」分が、不平を申し立てた。
「……手伝っているのは、使用人だけじゃないだろ……?」
「そうよ、しかも乱暴する相手は、あたしら限定じゃないの?!」
「いや、この子たちも、やっていい相手と悪い相手はわきまえてるから……」
「なによ、それぇっ!?」
「……静かにして」
上機嫌な一葉をあやしながら、星華ねえが睨むと、姉狐の稲風(いふう)が縮こまった。
弟狐の稲空も、しゅんとなる。
――稲空と稲風。<挑戦者>の子供たちだ。
彼らは、母親の<挑戦者>ともども、<契約>に縛られて志津留家に奉仕している。
二匹とも、それ相応な力を持つ妖し狐のはずなんだけど――。
くいくい。
「いたた、いたいわよぅ、お嬢ちゃん……」
ぐいぐい。
「いてっ、耳を引っ張るなって! マジ許してっ!!」
一菜と一葉に髪や耳を引っ張られて泣き声をあげる姿は、とてもそうは見えない。
志津留の新しい当主たちは、生まれる前から稲空たちを抑えるほどの力を持っていたのだから、
当然といえば、当然なんだけど。
「――まあまあ、二人ともおイタはめーですよぉ。おイタしたら、おやつあげませんからねえ」
台所からお手伝いの志摩さんが顔を出す。
おっとりとした人だが、お手伝いさんとしての腕は、千穂さんや小夜さんもかなわない女性だ。
「……いたずら、してない」
「……してないから、おやつちょうだい」
一菜と一葉があわてて「いい子」モードに入る。
この辺の呼吸は、見習わないと。さすが四男六女のお母さん、凄腕だ。

「――志津留先輩っ!!」
ノックと同時に――つまり、返事を聞くつもりもなく――ドアが開けられた。
稲空と稲風があわてて耳や尻尾を隠す。
元気な声で入ってきたのは――マサキマキだ。
「ちょっと、お姉ちゃん! 失礼でしょっ!」
後ろで袖を引っ張るセーラー服の女子中学生は、マサキマキの妹さんで、
ケン坊のガールフレンドの正木紗紀(まさき・さき)ちゃんだ。
中学を地元ではなく、県庁所在地のこの街の私立に選んだので、
星華ねえを追って同じ大学に入ったマサキマキと姉妹で下宿している。
……このマンションの一階下だ。
そんな縁で、毎日押しかけてくる。
「……もう先輩じゃない。同級生」
そう。
学部は違うけれど、休学していた星華ねえと同期生だ。
「そ、そんなことないですよぉ、先輩は先輩です、ずっと! 一生!」
「どこの体育会系だ、そりゃ……」
「うっさいわね! 後輩のくせに、君、ナマイキよっ! ちなみに私は弓道部っ!」
「さいですか……。でも後輩じゃないよ、そっちは浪人しているから、僕とも同級生だろ?」
「だからあっ! 高校の時の先輩後輩は一生ものなのよっ!」
マサキマキは僕を睨みつける。
相変わらず「志津留先輩、激ラブ!」な彼女にとって、
星華ねえの旦那の僕は、不倶戴天の敵だ。
心配していた<挑戦者>の憑依の後遺症も全然ない。
あの後、色々あって、本人も、まわりも、流鏑馬(やぶさめ)出場のプレッシャーで
一晩家出して、外でぼんやりしていた程度の認識でいる。
「君、一菜ちゃんと一葉ちゃん残して、ぱぱーんと交通事故でも起こしてくれないかしら。
そしたら、私が志津留先輩を慰めて、あれやこれやできるんだけど……」
そんなことを公言する性格は、ちっとも変わっていない。
まあ、この子が下の部屋に住んでいるおかげで、
一菜と一葉がどんなに暴れても、文句を言われないから、ありがたいけど。
「すいません、しょーがない姉で……」
ぺこりと頭を下げる紗紀ちゃんのほうが、よっぽど大人だ。

「……ママ、おっぱい……」
「あー、私もっ! 私もっ!」
おやつを食べ終えた双子が、不意に爆弾発言をする。
「なっ……お、おっぱいっ!? 先輩のッ!?」
マサキマキが身を乗り出し、紗紀ちゃんに後頭部をがつんと殴られる。
「おおっ!?」
稲空が立ち上がりかけて、稲風にぎゅううっっと、思いっきりつねりあげられる。
「だめだぞ、二人とも。もう、おっぱいは卒業しただろ?」
三歳児の双子は、とっくに乳離れしている。
だけど、甘えん坊の二人は、今でも時々星華ねえのおっぱいを恋しがる。
無理もない。星華ねえのおっぱいは、そりゃもう魅力的……。
「だって、パパもママのおっぱい、のんでるもん!」
「うん、のんでる、のんでる!」
あわわ。
「な、な、なっ! 志津留先輩は人妻なのよっ!
そのおっぱいを吸うなんて、なんて破廉恥漢っ!! 警察を呼びますわよっ!! 」
「僕が、その星華ねえの旦那だわいっ!!」
収拾がつかなくなりかける部屋の中で、無邪気な双子はさらなる爆弾発言をする。
「パパ、ママ、おっぱいだめなら、おふろであそぼうっ!」
「うんっ、こないだパパとママがつかってた、ヌルヌルのであそびたい!」
「……!」
「……!!」
「……!!!」
もはや収拾つかなくなったマンションの一室。
――ふと見ると、星華ねえは、唇の端でわずかに微笑んでいた。
目を閉じて、小さくうなずく。
僕の奥さんの、とても機嫌のいい時の癖。

季節は、秋。
毎日が何かと大変だけど、僕ら親子はとても幸せだ。
夏に比べて風は涼しいけど、そこには、暖かな恵みが含まれている。
――僕が大好きな女性の微笑のように。
                              FIN


白い月光の下で