角材が男の脳天を砕いた。鮮血が飛沫をあげた。怒号が辺りに響いた。渾身の一撃だ。勝負は一発で決まった。
罵声を浴びせながら少年は地面に転がった男を角材で滅多打ちにした。
「この朝鮮人がぁッッ!」
男を角材でめちゃくちゃに殴りつけているのは十二、十三の少年であった。薄汚れた顔に擦り切れた衣類をまとうその姿は浮浪者そのものだ。
腕を振り上げ、男は打ち下ろされる角材から身を守ろうともがいた。少年の握った角材が男のドテッ腹にめり込む。肋骨が叩き折れた。
「てめえらいい気になりやがってよぉッ、俺達のアガリまで巻き上げようってか!」
男は胃袋から逆流する血反吐混じりの茶色い泡を吹いた。血の生臭い臭気が少年の鼻腔を刺激した。
「お、お願いだ……謝るから勘弁してくれ……」
男が声を震わせ少年に向かって両手を合わせた。無言で角材を強く握り、少年は男を見据えた。
恐怖と卑しさを含んだ男の視線──何の逡巡も見せずに少年は男のこめかみめがけて角材を叩き込んだ。
その衝撃に男の右の眼球が視神経ごと眼窩から飛び出す。陥没したこめかみにもう一度角材を喰らわせた。
倒れた男の身体が陸に打ち上げられた魚のようにビクビクと痙攣した。少年は角材を放り投げると男の顔面に唾を吐いた。
少年を歯を剥いた。凄絶な表情だ。悪鬼の表情とすら言えた。
「ふざけんじゃねえぞ。この野郎。てめえらが怖くて商売ができるかよ」
少年は屈むと男の懐に手をねじ込み、金目のものはないかと漁った。男の懐からはドスが一本出てきただけだった。
「文無しかよ。ドスじゃあ腹の足しにもなりゃしねえ。しかしテメエもバカだな。さっさとドスを抜きゃあよかったもんをよ。
それとも餓鬼だから油断でもしたのか」
独り言のように語りかけながら少年は死体を足で蹴飛ばした。
「け、面白くねえ」
昭和二十二年四月十六日、日本が敗戦を迎えて二年近くが過ぎた。街には浮浪児が溢れ、三国人による暴力と略奪が横行していた。
GHQから銃を取り上げられた警察は取り締まる事が出来ず、徒党を組んだ三国人の横暴に見て見ぬ振りを決め込んだ。
市民は三国人に怯えた。何も持たざる奴は持つ奴から力ずくで奪い取った。力だけが、暴力だけが全ての時代だった。
ヤクザ、愚連隊、三国人が入り乱れる群雄割拠の世界で、家と家族を失った少年達はそれでも生き抜こうと必死にあがいた。
聞こえるか。獣の叫びを。聞こえるか。鬼の泣き声を。聞こえるか。想像を絶する魂の慟哭を。
「外道どもの墓場」
浅草の山谷にあるドヤ街の一角──かっぱらってきた木材で野原の隅っこに建てたこの掘っ立て小屋が、少年の寝床だった。
傍らには少年と同様のみすぼらしい身なりをした少女がゴザをかけて眠っていた。
シケモクを拾い集めて作った闇タバコをくわえ、マッチで火をつける。タバコの煙が亡霊のように目の前でゆらめいた。
「んん……」
眼をこすりながら少女が身を起こした。寝ぼけ眼で少年を見やる。少年が少女に笑いかけた。
「起きたか。洋子、飯食うか?」
「うん」
少年は握り飯の包みを洋子に押しやった。洋子が笑みを浮かべて旨そうに握り飯をほお張る。久しぶりの米の飯だった。
「たっちゃんはご飯食べないの?」
「ああ、俺はさっき食ったから心配すんな。それよりも銀シャリうめえか?」
「うん、おいしいよ。お米なんてあんまり食べた事ないし」
「そうか」
洋子は少年──辰治をたっちゃんと呼ぶ。
ふたりが出会ったのは丁度一年前、新宿で闇市で闇タバコのバイをしていた辰治が帰り道で倒れている洋子を助けたのがそもそもの始まりである。
明日の飯すらまともに食えない状況にあって、何故辰治が洋子を助けたのかは定かではない。
あるいは自分と同様に浮浪児である洋子に憐憫を覚えたからだろうか。ニコチンが脳に行き渡り、辰治の空腹を紛らわせる。
飯を食ったと洋子にいったのは嘘だ。二日前から何も口にしていない。それでも辰治はかまわなかった。
洋子が自分に笑いかけてくれるなら、空腹くらいどうということはない。辰治は洋子の腹に触れた。
「こん中に餓鬼がいるんだな。不思議なもんだぜ。おめえみてえな細っこいアマでも餓鬼が産めるんだからな」
野良猫やら野良犬やらのモツを煮込んだ鍋の饐えた匂いが鼻をついた。渋谷駅前の闇市からバイ人と客との意気の良い声が飛び交う。
テント張りの店やゴザをしいて品物を並べただけの粗末な露店が所狭しと並び、闇市は活気に溢れていた。
盗品にアメリカ兵の横流し物資、メチルで作ったバクダン、カストリといった粗悪なアルコール類まで、闇市にはなんでも揃っている。
行き交う人々の熱気と喧騒の波の中、辰治は箱の上に置いた闇タバコを客に売りつけていた。辰治はつねに転々と場所を変えて商売をする。
バイをしながらも辰治は周りに眼を光らせていた。渋谷の闇市は未だに数多くの在日朝鮮人が根城にしている場所である。
去年までは彼ら三国人がこの闇市を仕切っていた。去年──敗戦の翌年であるが、三国人が集まり渋谷署の襲撃計画が持ち上がった。
その三国人襲撃部隊に立ちはだかったのがジュク(新宿)の顔役である万年東一を筆頭とする愚連隊である。
警察が頼りにならなかった当時、市民を三国人から守っていたのはヤクザと愚連隊だった。
この時代、堅気以外にも警察署長がヤクザに助力を願い出る事がしばしばあったのだ。
神戸では三代目山口組組長田岡一雄率いる「山口組抜刀隊」が、ここ新宿では「カッパの松」こと関東松田組組長松田義一が警察と
市井に暮らす堅気を守るために凶暴な不良三国人を相手取って激しい戦いを繰り広げていた。
その松田義一が中国人の放った凶弾に倒れたのは昭和二十一年三月の頃のことである。
これに乗じて勢いをつけた三国人は一手に渋谷闇市をその手に牛耳ったのだ。しかしそれもわずか半年足らずの天下だった。
三国人達は自分達の半分にも満たない数の愚連隊の前に敗れ去ったのだ。
この戦後の時代、ヤクザ、愚連隊、三国人の三つ巴の中にあって戦闘力は愚連隊が他より頭ひとつ分は高かった。
万年東一は元はヤクザの用心棒である。出入りの際には一家の親分がわざわざ出向いて愚連隊に手助けをこうこともあった。
現在ではヤクザと愚連隊が闇市の見回りをしてはいるが、それでも完全に消えぬ三国人との小競り合いは未だ往々にしてあった。
たまらないのは何の力も持たない堅気の衆であろう。喧嘩に巻き込まれて流れ弾に当たったり、店を壊される事もあるからだ。
辰治は思い巡らした。昨日殺した朝鮮人の仲間が血眼になって犯人を捜しているはずだ。
犯人はまだわかっていないだろうが、もしもばれれば無事ではすまない。それならば何故、こんな場所でバイをするのか。
答えは決まっていた。洋子と腹の赤ん坊の為だ。多少の危険を冒してでも銭が欲しかった。渋谷の闇市は新宿と池袋の闇市よりも規模が大きい。
つまりは客の足の運びがいいのだ。その分だけ物は売れる。洋子と腹の赤ん坊だけは飢えさせたくは無かった。
例え己の命に代えてでも──二人の為に食い扶持を稼がなければならなかった。思えばおかしなものだ。
生まれた時には親も身よりもなく、誰にも頼らずに他人の芋やデンゴロ(握り飯)をかっぱらって生きてきた自分が餓鬼を持つとは。
それでも──悪い気はしない。この世に生を受けて十二年、辰治は洋子に出会うまで人の温かみなど受けた試しが無かった。
生きる為にはなんでもやった。泥棒、恐喝、タタキ(強盗)に殺し。あらゆる悪事に手を染めた。人を殺すのは何も昨日の朝鮮人だけではない。
辰治は他にもこれまでに四人の命を奪っている。生きる為には仕方の無い事だ。
誰かを殺してでも己と家族を生かさねばならぬというのが辰治の考えだった。
(──もしもあいつらにばれたら……そのときゃそのときだ。もし俺にかかってくるってんなら……
返り討ちにしてやるぜ。どいつもこいつも片っ端からこのドスでぶっ殺してやらあな)
辰治は懐に忍ばせたドスを掴み、唇を真一文字に引き締めた。端麗で彫りの深い、辰治の精悍なその顔立ちに険悪な色が広がっていく。
そこには少年特有の甘さなどは一切存在せず、ただ凄みだけがあった。殺人者だけが持つ凄みだ。
行き交う人々に眼を走らせた。何かを感じた次の瞬間、辰治は視線を止めた。
その少年をひと目見たとき、水原は頭のなかでピーンとくるものを感じた。周りの人間とは明らかに異質だったからだ。
継ぎはぎだらけで、垢が溜まり黒光りするボロのシャツとズボンをまとい、ささくれた荒縄をベルト代わりに巻いていた。明らかに孤児だ。
親がいるならもう少しまともな風体をしているだろう。その程度ならば街を歩けばそこらにごろごろ転がっている。
水原が足を止めた理由は少年が漂わせるその禍々しい雰囲気だった。
薄汚れてはいるが、よくよく見れば少年は役者にでもしたくなるような男ぶりだった。
奥まった二重瞼の切れ長の眼に高く通った鼻筋をしており、薄く引き締まった唇は少年の意志の強さを表していた。
そして何よりもその眼だ。獰猛な野獣の如きその双眸は決して堅気の眼ではなかった。こちらに気づいた少年が睨み返してくる。
「おい、あんちゃん。そんなとこにぼおっと突っ立ってると通行人の邪魔になるぜ。それよりもどうだ、タバコ買っていかんか」
右頬を歪ませ、少年はふてぶてしく嗤いかけてきた。水原は少年がバイをしているタバコを手に取った。
紙を丸めて糊で貼り付けたその代物はどう見ても闇タバコだ。タバコは真っ直ぐではなく、やや捻じ曲がっていて不恰好な形をしている。
「一本三円だ。二十本買っていくなら五十円に負けておくぜ」
「じゃあ、こいつで買えるだけくれや」
水原は財布から百円札を五枚抜き取り、箱の上に置いた。大学を出て大手の企業に勤めるサラリーマンの初任給が一万円前後の時代だ。
孤児の辰治にしてみれば五百円はちょっとした大金である。当分は食いつないでいけるだろう。辰治は手元にある闇タバコを数えた。
二百本には八本ほど足りない。
「あんちゃん、わりいけど小銭はねえか。生憎と釣り銭を持ち合わせてねえや」
「ああ、釣り銭なんていらねえよ。とっとときな」
「ありがとよ」
辰治は銭を懐にしまうと箱を脇に抱えて立ち上がった。先ほどの小憎らしい笑みとは打って変わって爽やかに微笑む。
「さてと、今日はもう店じまいだ。あんちゃん、礼を言わせてもらうぜ」
人ごみに紛れて消えていく辰治の後姿を見送りながら、水原は買ったばかりの闇タバコに火をつけた。
辰治は山谷に戻る途中で浅草をぶらつきながら当時は高価だったミルクチョコレート二枚に蒸しパンを五つと石鹸を一つ買った。
油紙に包まれた石鹸は表面が少しばかりくすんでいる。
おそらくは欠けた石鹸を集めて固めた物だ。それでも石鹸である事には変わりはしない。
次に色分けされた生地を露天商から半ば脅して底値で買い叩き、糸をオマケとしてつけさせた。生地と糸は洋子が前からほしがっていた物だ。
(こいつを見れば洋子の奴、きっと喜ぶぞ)
辰治の足取りはかろやかだった。口笛を吹きながら練り歩く。小屋についた。申し訳程度に建てつけた戸板を開けて中に入る。
「たっちゃん、おかえりなさい!」
洋子がいつものようにほがらかな笑みを浮かべて小屋に帰ってきた達治を迎えた。
おうっ、とぶっきら棒な返事を返し、辰治が買ってきた品物をゴザの上に並べて見せる。洋子の瞳が嬉しそうに輝いた。
「すごいね。たっちゃん、これどうしたの」
「タバコが全部売れてな。懐が暖かかったもんだからよ。ほれチョコレートだ。食えよ」
「ありがとう。あ、そうだ。たっちゃん、お風呂はいらない?」
顎を撫でながら、辰治は一週間ほど湯浴みをしていない事を思い出した。思い出した途端、急に身体のあちこちが痒くなる。
「そういや、俺もお前も最近、銭湯にいってねえんだよな。丁度いいや。今日は石鹸もあるし銭湯いこうぜ」
「ううん、銭湯に行かなくても大丈夫だよ」
小屋の裏から洋子が大きな金盥をかかえてきた。表面は傷だらけで所々でこぼこになっている。どこで手に入れてきたのだろうか。
「この盥どうしたんだ?」
「木賃宿のお婆ちゃんからこれ使えって貰ったの」
四軒ほど先にある木賃宿の大家の顔を思い出し、辰治は口元をほころばせた。
「ああ、あの気の良い婆さんか。じゃあ今度、礼を言いにいかねえとな。折角だからその盥、ありがたく使わせてもらおうぜ」
外に出るとふたりは鍋で湯を沸かし、水を張った盥に移していく。洋子は盥の水と熱湯を手でかきまぜながら、お湯の温度を測った。
「たっちゃん、お風呂良い湯加減だよ」
「よし、じゃあ入るか」
辰治と洋子は服を脱いだ。周りはススキが生い茂っているので外から見えない。洋子の細身の裸体があらわになった。本当に華奢な身体だ。
それでも粉雪のような白い肌は陶磁器の如き透明感を漂わせていた。小ぶりだが形のよい紡錘型の乳房が辰治の眼に映る。
掌に吸い付くような柔らかな乳房だ。辰治は洋子の顔を見つめた。
長い睫に飾られた穏和な光を称えた茶色い大きな瞳に流麗に切れ上がった二重瞼。
頭を洗い流せば、濡れ羽色の黒髪が現れるだろう。鼻梁は少しばかり低いが整っており、健康そうな薄紅色の唇と頬が愛くるしかった。
「たっちゃん、背中洗ってあげるね」
石鹸を手拭いで泡立たせると洋子が辰治の背中を洗い始めた。歳のわりには広くたくましい肩幅と背だ。骨格も恐ろしくがっしりとしている。
洋子は辰治の背中に視線を向けた。背には斜めに走った三十センチあまりの引き攣ったような古傷があった。
明らかに刃物で切りつけられた傷である。傷跡はこれだけではない。
辰治の身体には至る所に傷跡があった。大小を合わせれば、傷跡は二十六箇所にも及んだ。
喧嘩やら盗みやらでつけた向こう傷である。だが、それは身体を張って生きてきた少年の──男としてのあかしだ。
辰治にとって身体に刻まれた無数の傷跡は、いわば勲章のようなものだ。辰治はこの傷の一つ一つに対して誇りを持っていた。
薄赤い薄暮の淡い光がふたりを照らした。辰治が船頭小唄を口ずさむ。
俺は川原の枯れススキ お前も同じ枯れススキ どうせふたりはこの世では 花の咲かない枯れススキ
死ぬも生きるも ねえお前 水の流れに何変わろ 俺もお前も 利根川の船の 船頭で暮らそうよ
辰治の精神の根底には無常観がつねに見え隠れする。必死に生き抜こうとする反面、どこかで人生を放り投げている節があるのだ。
だからこそ平気で無鉄砲な事をしでかす。己の命を顧みずにどんな相手にも野良犬のように噛み付く。
胸裏深くに眠る修羅の如き凶暴無残たるその性質──生まれついての殺人鬼とは辰治のような人間を指すのだろう。
荒い息遣いが辰治の鼓膜を打った。洋子の身体をきつく抱きしめながら、辰治は腹の子供を気遣うように小刻みに動く。
毛穴から汗が吹きこぼれた。額から一粒の汗がしたたり落ちる。悶え狂うふたりの裸身が互いを求め合った。絆を深め合うように求め合った。
洗い立ての肌の匂いが辰治の鼻腔を柔らかく包んだ。洋子の体臭に混ざった石鹸の匂いだ。辰治は首筋に顔を押し付けて熱い息を吹きかけた。
「ああ、たっちゃん……ッ」
洋子が辰治の背肉に爪を立てながら喘いだ。背中の皮膚に血が滲む。切なげに声を震わせる洋子がたまらなく愛しかった。
辰治は唇を重ね合わせ、洋子の舌を吸った。口腔内で分泌される唾液を飲みあう。
「んんん……ッ」
痺れるような快感に洋子の子宮が火照った。女の亀裂から溢れ出る愛液が、辰治の男根を濡らした。二つの激情が絡み合い、一つになった。
腰から徐々にせり上がる射精感に辰治は獣の如き唸りを発した。鈴口から勢い良く放射された熱い精汁が洋子の体内を満たした。
「ああ……あああぁぁぁッッ」
洋子は身体を痙攣させ、絶頂を迎えた。肌に浮かぶ珠の汗、ふたりの体液の香り、切実なる男女の悲しき性がそこにあった。