高校生になってすぐにはじめたバイトももうすぐで1年になる。
今日は休日だから午後から集金だが、いつもなら早朝から新聞の配達・・・
そう、彼、柴田太一は新聞配達のバイトをしていた。
高校のクラスメイトからは今時新聞配達のバイトなんて、だとかもっと楽しいバイトいっぱいあるじゃん、だとか
言われるが、元々人付き合いが得意ではないほうの太一は一番自分に合っていると思っていたし、
朝のはりつめた空気や交わされる朝の挨拶も心地いいし、集金なんかに行くと「がんばってね」だとか声をかけてくれる人だっているし、おやつをくれるおばあさんもいた。
人付き合いは得意なほうではなかったが、人と喋るのは嫌いではない。ただ少し臆病な彼はそういった種類の優しさが
とても気に入っていたのだ。

「おめえ来月からひばり団地いってもらうからな」
と、集配所にいつものように顔を出すと先輩からそう告げられた。
なぜ、と思ってしばらく考えているとじきに答えは見つかった。
「変わりっすか」
「そう。あればっかりは辞めないでくれとも言えないしな。しょうがねえ」
団地はめんどくせえから抜けられるとつれえな、と先輩配達員はぼやいた。
今月までは年配の配達員が担当しているが、なんでも娘夫婦に一緒に住まないかと誘われたとかで
ずっと遠いところに引っ越してしまうのだ。
それによって今の団地の担当がいなくなってしまう。
その穴の埋め立てが太一に回ってきたというわけだ。
すまねえけど頼むな、といって地図を渡すと、先輩配達員は自分の持ち分をこなしに先に部屋を出て行った。
実のところ、団地は面倒くさいがそれだけやりがいのある仕事だろうな、と太一は前々から思っていた。
だから目の前の地図は確かにそれだけで放り出したくなるようなものではあったが、それと同じくらいの
魅力をはらんでいるように見える。
「やってやる」
そう思った。
「おまえにまかせてよかったよ、って言ってもらうんだ」
彼の瞳は静かに目の前の地図を映していた。

・・・今日は団地での始めての集金の日。
配達は順調にいっていた。授業中も地図とにらめっこしていた成果の賜物である。
「若いからやっぱり覚えが違うな」
と、集配所の先輩に言ってもらえた時にはシャイな彼は心の中でガッツポーズをとったものだ。
しかし集金となるとエレベーターがないのでせまい階段を上り下りしなければならない。
こればっかりはちょっとなあ・・・とも思うが仕方ない、体を動かせるんだから都合いいくらいに思わなきゃな、
と自分に気合を入れて走り出した。
いざ集金を始めてみると近所の商店街でいつも見かける主婦や自宅のすぐそばにある幼稚園の子供などが顔を見
せることもあり、へえ、この人この団地だったのか、なんてなんだかあまり知らない相手の私生活を垣間見たよ
うで新鮮な驚きがあった。中には先月までと人が変わっているので不審がる人もいたが、胸に着けられた販売員
のバッチを見せれば安心してくれたし、特に大きな問題はなかった。
「流石にちょっと疲れたかな・・・」
と、5棟ほどの集金を済ますと一休みをし、残りひとつの棟に向う。
ここの階をすませばあとはおしまい、というところまで来て、階段の上り下りで激しくなった動悸もいくぶんか
は静まったような気がする。
インターホンを押す、用件を伝える、金を受け取る、領収書を渡す。この繰り返しだ。
新しいドアの前に立ち、インターホンを押す。大体の間合いは分かる、テレビを見ていた主婦が音に気づいて玄関
のドアを開けるまで5.4.3.2.1.
「はあい・・・・」
太一のカウントダウン通りに、チェーンは外さないまま控えめにドアは開けられた。

「すいません、新聞の集金に来たんすけどォ」
「あ、新聞屋さんなのね」
と声がして、チェーンが外されドアが大きく開かれた。
一番最初に太一の目に入ってきたのは、明るい、金髪に近いような栗色の髪の毛だった。
こういった生活の匂いしかしないような団地には場違いな、うつくしい女だった。
・・・そう、ドアの向こうから現れたのは、若い女だったのだ。
細くやわらかそうな髪の毛は短く、彼女の細い首すじにまとわりついていた。
少しくせっ毛なのかもしれないし、そのように微妙にパーマをあてているのかもしれない。
こんなに髪の毛が明るければ下品な印象を受けるものなのだろうが、彼女の肌は白く、また
美しかったので浮くこともなく非常に似合っている。
形のいい目と、それをふちどる睫毛の長さや筋のとおった鼻、ちいさい顔もそれを助けている
のかもしれない。
それだけなら少女のような印象を受けたかもしれないが、
彼女の顔だちのなかでひときわ目を引くのはくちびるだった。
全体的に大きめなそこは、すこしふくらんだうわくちびるは愛らしく、ひきしまった口元は
すっきりとし、またそこだけ妙に艶っぽく色の濃い、落ち着いた色をしていた。
濡れたようにつやつやとしているのは、多分口紅かグロスなのだろう。
そこだけ、とびきり上等な大人の女を感じさせる。
白く細い首、淡い髪色、濡れた唇。
そのアンバランスにもなりかねないひとつひとつのパーツが絡み合って
彼女の美しさを作り出しているようだ。
服装も白い生成のセーターに黒いスカートをぴっしりとだらしなさのかけらもなく
着こなしていて、今までまわってきた団地の他の主婦のように生活の疲れをそこはかとなく
滲み出させてしまっているなんてことはなかった。よく似合っている。
ただ、スカートの丈がひざよりも少し上なのが気にかかったが。
足が、やけに白く感じる。彼女は素足だった。

「えーと・・・XX新聞さんよね?」
ぽってりとした唇が動いて、太一に喋りかけた。
「あ、ああ、そうです、これ・・・」
と、幾度かしているように胸のバッチを見せると彼女は笑って、
「ありがとう。ちょっと待っててね」
と、いったんドアを閉めた。財布を取りにいったのだろう。
・・・結婚してるんだ、あのひと
と、当たり前のことをぼんやりと思った。
表札を見ると
「河野和正、るみ」
ときれいな文字で書いてある。
・・・まわりに響くような声も笑うと覗く歯もかわいらしかった。
しかしスカートから覗く太腿はむっちりとしていて、思わず目をそらしてしまった。
どこからくるのかわからないようなざわざわとした胸騒ぎのようなもの太一は感じていた。
嫌だな、なんだろう、と思っていると
「お待たせ・・・」
という声とともにドアが開かれ、彼女が財布を持って立っていた。
集金に来たのだから、と一歩玄関の中にふみこみ、財布の中を探っているのでそのまま
待っていると100円、200円と財布から抜き出されてゆく。それから札入れのほうに
手をやり、しばらくごそごそとやっていたが
「あっ・・ごめんね、ちょっとだけ足らないみたい」
と言うと今度はドアを閉めず形のいい足できびすを返すと部屋の奥に消えていった。

一人取り残されああ疲れたな、と思ってぼんやりしていると部屋のたんすの脇に
貼ってあるカレンダーが目に付いた。
銀行で貰えるような地味なつくりのありふれたカレンダーだったが、
赤いマジックでこと細かに予定が記してある。
例えば「入金今日まで」だとか「母上京」だとか「出張」だとか・・・
女の子ってこういうふうに予定で手帳とかをびっしりさせるの好きだよなあ、
なんて思っているとじきに茶色い封筒を持って帰ってきた。
「はいこれ。細かくなっちゃうけど・・・ここに2300円あるの」
といってさきほど出しかけた千円札と硬貨を太一の手のひらの上に乗せる。
さっきから手の中に握られていたぶん、彼女の手のひらのぬくもりがそのまま
伝わってやけに生々しい温度の硬貨がちゃりん、ちゃりんと乾いた音をたてて
太一の手の中に収まった。冷たい手がそこだけぼっ、と火がついたように熱い。
その感覚にはっ、と我にかえった太一は
「あ、はい、あと1400円頂ければいいんですけど」
と早口で残りの金額を告げた。
それを聞いて彼女が封筒にむかってうつむいた一瞬のこと。

・・・ふっと、鼻をかすめる普段触れることのないなんともいえない香りに気づいた。
派手に遊んでいるクラスメイトの女子から教室に入るだけでけばけばしい匂いがする
こともあるが、それとは違ってこれだけ近づいてなおかすかに彼女から香るだけの香り
なのに空気とはわずかに、しかし空気とも子供っぽいけばけばしい香りとも大きな違い
があるように思えた。
最初は花の蜜のような甘さにはっとさせられたが、時間がたちその中に落ち着いたビターな
テイストが混ざっているのがわかる。
クラスメイトの香りが大分陳腐に思えるような香りだった。これが大人の女の香りというもの
なのだろうか。なんだろう。香水でもつけているんだろうか。
結婚してもこうやってきれいにしてる人っていいな、ちゃんと化粧して、
からだだってくずれないできれいなままだ・・・足だって同じクラスの女子よりもずっと魅力的
なラインで・・それでいて足の爪はちいさくて・・・
「はい。これでいいかな?」

「・・・あ!はいすいません、丁度いただきます」
彼女が残りの金を差し出していたことに気が付かなかった。
急いで領収書を渡し、バッグに金と領収書の束をつめているとふいに
「担当さん、変わったのね」
と声をかけられた。
「あ、はい、そうなんです。前の人は辞めちゃったんで今月からはおれが」
「そうなんだ。バイトさん?」
「はい」
「ふうん・・・偉いのね。高校生?」
「あ、はい。そこのニシ校です」
「そっか。きみと違って前の人はこわい感じだったから話しなんかしたこと
なかったし・・・ちょっとびっくりしたの」
「そうなんすか」
喋っているうちに彼女の肉厚のくちびるがグロスでてらてらと日差しに照らされて、
穏やかな団地の午後には似つかわしくない光を放っているのに気づき、なんとなくうつむく。
がんばってね、ここの団地広いから大変でしょうけど、と最後に彼女はにっこりと微笑んで
ドアを閉めた。これからよろしくね、とまで言ってくれたことにはびっくりしたが、
なにげなく集金バッグの中に手をやるとまだ先ほど彼女から手渡しされた硬貨は生暖かく、
太一はごく自然にその100円玉だけを取り出し自分のポケットに入れた。

「これで一緒だよな・・」と、あわてて自分のサイフから100円玉を抜き出し集金バッグの中に
入れたが、その後の太一といえば彼女に言われたとおり集金に精を出すでもなく、今まで繰り返して
きたことの延長で機械的に集金を繰り返し、ぼんやりと昨日こっそりとコンビニで見たアダルト
雑誌のはじらいなどひとかけらもない女の白い太腿やまるい胸、さらさらと流れる髪の毛が
フラッシュを焚いたように頭の中ではじけては飛んで、階段を太一より早く駆け抜けていくのを
ただ見送るだけだった。


初めて団地の集金に行ってから一ヶ月がたち、今日も太一は階段という階段を上り、下り、金を集めていた。
配達も順調にいっているし効率よく団地をまわるコツみたいなものも掴んできたような気がする。
「あとは、6棟だけだな・・・」
なぜか背筋がぞくりとした。
初めてここにきた時に自分がやってしまったこと・・・
彼女から渡された100円玉を自分のポケットの中にしまったこと。
その時、「何やってんだ!おれ・・・」と誰もいない団地の踊り場で周囲を
みまわしたが、それは集金してきた金を自分のポケットにいれてしまったという
横領めいた行為によるためのものだけではなく、もっと後ろめたい、太一にはまだ
なじみのうすい腹のそこからぶくりと湧き出るような感情から来ているような気がした。
自分のなかの得体の知れない感情については考えないようにしたかった。
なんとなく、彼女から手渡された100円玉はバイトの時に着る厚手のジャンパーに
入れたままにしてある。
本当は他の100円玉と一緒くたにしたくなかったのかもしれないが、あまりそういう
ふうにはは考えたくなかった。
バイトという、家とも学校生活とも離れた環境での出来事という事にして日常とは
切り離していたかったのだ。
今まで異常にバイトに精を出すようになり、集配所の先輩はどうしたんだよおめえ、
といって彼の仕事ぶりを心配したが、なんでもないっすよ、と適当にかわして今日も
詰め所を出てゆく。
家で一人で部屋にいればおのずと答えは出てしまうような気がする・・・・
それは避けたかった。もう分かっていることなのかもしれないが、はっきりと自分で
このもやもやと、女のくちびるの色のような霧に輪郭を持たせるのが恐かった。
バイトで疲れたからだは、太一にすこしの猶予をくれる。
家に帰れば泥のように眠るだけだ。

「あ、新聞屋さんね。ご苦労さま」
「どうも」
この前と同じに少し開けた隙間からこちらを覗くと、いったんドアが閉められしばらくした後向こう側からふたたび
開かれると、女が立っていた。
無論先月と同じ女、ここに愛し合い連れ合いになった男と住んでいる女だ。
合いもかわらずひかえめに化粧して綺麗にしているのがそれを少し忘れさせる。
今日は白い薄手のボートネックの上に明るいグリーンのカーディガンを羽織り、それにタイトなラインの
スカートを合わせていた。財布を抱え、素足にサンダル履きで一歩外に出てくるとはっとしたように
「んっ、なに・・・?今日は寒いのね」
と言ってちいさな肩をきゅっと寄せてカーディガンの前を合わせるような仕草をする。
その初々しいような子供っぽいような彼女の寒がりかたに太一はそうっすね、と相槌を打ちながら
新聞の配達で最近のまだ日が照っていない朝の寒さを知っているからそうは思わないが、今まで部屋の
中にいたらそれはやっぱり寒く感じるんだろうな、と思った。
3700円でいいのよね?という問いかけにはい、と返事をすると財布を開けながらうつむいて、
「最近遅くに高校生がぞろぞろ歩いててびっくりするのよ・・・」
と、新聞代を取り出しながらおかしそうに言う。
財布から金を取り出す中途半端な間の場つなぎということはわかっているが、この前の事といい誰に対しても
こうやって気さくに話しかけることのできる人なのかもしれないな、と思った。
「あ、文化祭が近いんで・・・」
実際その通りだった。演劇の練習のしすぎでみんな声が枯れているクラスやお化け屋敷に使う笹を調達しにゆく
クラス、巨大な看板に四苦八苦している文化系の部活など様々だったが毎日夜遅くまで教室の明かりが学校の
グラウンドを照らしている。
「そうね・・・みんな疲れた!とか言ってるけど、どの子もとっても楽しそう。いいなあ」
きっと普段話すチャンスがない子とも自然に話せたり一緒に帰れたりするのが楽しいのね、と言って笑うと
1000円札を3枚取り出し、太一の手の上に乗せその上に残り分の硬貨を乗せた。

だから前のように彼女の手のぬくもりがじかに太一の手のひらに伝わることもなかったのだが、今日は彼女の指
がくちびるの色と同じような桃色をしている事にその時気がついた。
見ればつやつやしたマニキュアのピンク色を乗せたことによって他の部分より印象が際立ち、自分のごつごつ
した手や指と違い白く女らしいふっくらとした指の先端にぴったりの形のよさを持って収まっていることを
意識させられる。
 金額を確かめバッグにしまい、領収書を切って渡しうつむいていた目線をあげざまにじゃ、どうもあ
りがとうございました、という言葉が太一の口から出かかった瞬間
「きみは?」
と、太一の耳に唐突に入ってきた声に反射的に顔を声がしたほうに向けると、彼女がじっとこちらを見ていて、
まともにふたりの視線がぶつかり合った。
・・・一瞬で息がつまる。
初めて彼女をこの目で見たとききれいなひとだな、と思ってからなんとなく彼女の顔全体をこうやって真正面から
堂々と見つめることなんてなかったのだ。
しかも今までと違って彼女が太一に対する質問をなげかけ、あまつさえ少し真剣な表情までたたえたその目で自分の事を
見つめている。
ただでさえ女の子と面と向って話しをするなんてめったにないのだ。体がかたまっているのが自分でわかりすぎるくらい分かる。
彼女は質問の答えを待ってじっと太一の目を見ている。時間が今までとは違うスピードで太一の周りを流れてゆく・・・・
・・・なにか喋らなければ。
・・・なにか喋らなければおかしいだろう
・・・集金バックにかけられたままの手に汗がにじむ
・・・なにか一言でも、
・・・彼女が自分を見ている
・・・瞳の色が薄い

「俺の・・なんですか?」
ひざまで笑い出す寸前のところでやっと息と一緒に言葉を吐き出すといくぶんか落ち着き、そのぶん胸が高鳴っているのが
分かりすぎるくらいわかった。それでもさっき金縛りにあっていたような状態からればいくぶんかマシだろう。
「きみはそういうこと、ないの?」
「あ、ああ・・・おれんとこは焼きソバとかなんで当日とかにならないとあんまりやることないし・・ないんです」
友達と話しているんじゃないんだ、と思って語尾を言い換える。太一は冷静であることに徹していた。
相手は年上の・・・女なんだ。
彼女はその答えを聞くときょとん、とした顔をしていたが、ふいに前より少し伸びた髪の毛につつまれた首をかしげて
少しだけ視線を逸らしたあと、なにかに気づいたようにくちびるだけで笑って白い歯をこぼすと視線を太一の目にまっすぐと向けて
「ふうん・・そうなの」
とおかしそうに言った。彼女がこんなふうに笑っているところを見るのはいいものだがなぜそうした笑顔を自分に向けているのか
わからなかったので今度は太一が首をかしげる番だったが、とにかくこれで納得してくれたようなので自分はこの場を去れるのだ
と思うとほっとする。
 今度こそ、と早口でありがとうございましたと言うと彼女も会釈して後ろに振り向き、部屋の中に入ろうとしたがふいに半分開け
られたドアの向こうから人差し指でここから離れ階段に向おうと体の向きを変えた太一の肩のすこし下あたりを軽くひっかいて
「わたしが聞いたのはね、」

「好きな子いるの?ってことよ」

とだけ、言った。
太一がふりむくと彼女はさっきよりも少し意地悪そうに笑ってドアの向こうに吸い込まれていった。

閉められたドアはもう何も言わない。
しばらくそこに立ち尽くしていたがやがてくるりと背を向け、階段の方に向って歩き出す。しだいにその歩幅が広くなる。
階段に辿り着くとなだれ込むように3段飛ばしでスッテプを蹴り飛ばし息を切らして躓きそうになりながら長い長い階段を一気に
駆け下りた。
 彼女が言っていた通りもう寒いくらいなのにしばらくすると汗が噴きだし、額の大粒の汗をぬぐうと耳に目の前の公園ではしゃぐ
子供たちの高い笑い声を聞こえ、やっと最上階の集金が済んでいなかったことに気がついた。

・・・同じ頃、ドアを閉めたるみは財布を元通りの場所に置きながらおかしくてたまらない気分だった。
あの年頃の男の子ってあんなにニブくてウブなのかしら!
最後の彼のびっくりした顔を思い出すと自然に顔がほころぶのが自分でわかる。中、高、短大と規律の厳しい私立の女子校に通い、
そのまま結婚してしまったるみにとってそれは初めて触れる男というよりはおとこのこ、の表情だった。
かわいいのね、と思うと自分が学生時代に好きだった曲のサビが自然と口をついて出、軽やかな気持ちのままでさっきまでやっていた
今の時間会社で働いている夫のワイシャツのアイロンをまた、かけ始めた。

ぼうっとした頭で団地の集金を終わらせ、他の持ち分も済ませると集配所に帰り、集金してきたバッグを返す。
おう、お疲れ、と誰かが声をかけてきたので振り返ると先に仕事を済ませて帰ってきていたのだろう、太一に団地の担当を任せてきた
先輩が缶コーヒーを太一のほうに差し出して笑っていた。
「どうだ、もう慣れたか?」
「あ・・・」
缶コーヒーを有難く受け取ろうとしたが、一緒に向けられた言葉に一瞬言葉を詰まらせたあと、
「いや、まだ・・・なんかよくわかんねーって感じです・・・」
「まあ最初はな」
先輩が太一の手の中にほれ、とコーヒーを押し付けると買ってから少し時間が経っているのだろう、熱いというよりはじんわりと
した人肌ほどの暖かさでそれは太一の手のひらになじんだ。
 爪をたててプルタブを起こし口をつける。
いくらか冷めていても、甘いコーヒーは少し冷えた体の緊張をほぐしてくれるように感じた。口から舌をすべって喉を通り、胃に暖かさ
が染みていくのが分かる。一気に半分くらいまで飲み干すとふう、と息をついた。
その様子を見て、先輩が先に飲み干していた自分の分のコーヒーの空き缶をごみ捨てに投げながら言った。
「配達は順調に行ってるみたいだけどな?届いてねえって電話もねえし」 

「まあ・・・そうなんすけど・・・ペースが掴めないっていうか・・・」
その時自分が言っていることにはっとする。
 「なんかよくわかんねーって感じ」、「ペースが掴めない」、だなんてそれじゃ・・・それじゃまるでたかだか集金に行ったさきの女
にあたまからつま先までなにもかもを支配されていたようでいた自分そのものじゃないか!
 確かにそうかもしれなかった。彼女がいなければ、あんな瞳で見つめられなければ、あんな唇をしていなければ、あんな言葉を自分に
向けられなければ、あんな体をしていなければ・・・・
「まあでも嫌いじゃねえだろ?」
「えっ・・!・・・っあ、はい、配達は・・・」
自分の心を見透かされているのかと思って手の中の缶コーヒーをあやうく落としそうになるところだった。
「まあ任せといて言うのもおかしいけどよ、頑張ってくれよな」
寒いな、お前もジャンパー借りて帰ったら?風邪ひくぜ、と言い残して先輩は集配所を出て行った。
「最近おれ、おかしいよ・・・」
 少しだけ中身の残ったコーヒーの缶はすでに冷たく、中身をのこしたまま太一の手を離れごみ捨てに向かって放物線を描いた。 

・・・結局先輩が最後に言っていた通り新聞社のマークが入ったジャンパーを着て帰ることにした。
 気が付くともうあたりは暗くなっていて、あたりの景色がむらさき色に染まっていくのを目の端で捕らえながらこれからどんどん
日が短くなっているんだろうな、と思った。風は冷たく、太一のにきびもあまり見当たらない頬を切るように撫でて景色と一緒に後ろ
に流れてゆく。バスを使おうかとも考えたが、こんなにでかでかとマークの入ったジャンパーで今の時間調度帰宅する客で混みあっている
バスに乗りたくないな、同じ理由で電車も却下。と、いうことで結局いつも通り集配所の横につけてある自転車にまたがったところだ
った。彼も年頃の高校生らしく、そういう所を気にするようになっていた。
 両親と弟と4人暮らしで住んでいる家に着いた頃にはあたりはまっくらで、隣りの家やそこかしこからその家の夕食のメニューを思わせる
いい香りがしていた。 腹へったなあ、と思いながら車輪の細い自転車を門の中に入れていると太一の家にしては珍しくどこの部屋の電気も
ついていないことに気づいた。
首をかしげながら鍵をあけ、木でできた古いドアを開けると人の気配はなく、太一はどの部屋に入るときもスイッチの場所を探りながら
最初に電気をつけなければならなかった。
ちいさな台所にも電気を付けるといつも騒がしいそこは水を打ったように静かで、少し面食らったがほどなく水色のテーブルクロスの
上に母親の字のメモを見つけた。
「ん、と・・・今日は言ってあったとおりおばさんの家の年忌・・・です!?・・・あー・・・」

すっかり忘れていたがそういえばそんな事を言っていたような気もする。新聞配達のバイトのせいでこの家を日が昇るか上らないかの暗いうちに出るので、
最近では家族と朝顔を合わせることもない。だからその日その日で留守にする用事なども改めて伝えられることもなく、太一の頭の中で大体家族の予定は
一週間単位で大雑把にまとめられていた。
 メモによると色々手伝わなければならない帰りは明日の夜くらいになるらしい。
 弟は2日前くらいに張り切って長野へ修学旅行へ出かけて行ったし、どうやら今日は一人のようだ。はあ、とひとつ息を吐くと減っていた
はずの腹も自分で食事を用意しなければならない面倒くささには勝てなかったらしく、太一は2階の自分の部屋に向かって階段を上った。
自分の部屋に入るとまた電気をつけ、暖房のスイッチも入れる。
高校生らしいマンガの多い本棚を除けば質素な部屋である。ベッドとタンスの他の家具はあまり使われずよく着るTシャツ置き場になってしまった勉強机や
あまり中身の入っていないごみ箱のようなものしかなかった。
部屋の中に入ったというのにまだ寒いくらいだ。今の気分を一言でいうならという質問をされればそれに答えるのも面倒くさい、というくらい一気に疲れが襲って
きた。体も重ければまぶたも重い。

ジャンパーさえもハンガーにかけずえんじ色のカーペットの上にベッドを背もたれにして倒れこむように座り込みぼんやりと天井の明かりを見つめると、
またひとつ体のなかから搾り出すように息を吐いた。と、音を立て始めた暖房から流れる暖かな空気が太一のつめたくなった鼻やくちびるのあたりを優しく
包みはじめ、その暖かさに安心して目を閉じると目の周りがじくじくと熱いような感覚に襲われる。
 今日も一応地図と照らし合わせながら集金したもんな・・・・
思いのほか目が疲れているようだった。まぶたのうらで赤や黄色やブルーの色彩がさっきまで見つめていた天井のライトの形をとり、歪んでは分散してゆく。
またもとの形に戻る。ほんとに疲れているらしかった。
なかでもひときわ鮮やかに散ってまたひとかたまりになるのはむらさき色で、なぜかその色が太一には見覚えがある気がした。
 首をふかふかとしたベッドの上の布団に預け、しばらくそのままでいると顔や首は暖房で温まってきたものの、だらんと床に投げ出した足のつま先
や指は冷たいままだった。ほかの部分がぬくもってきただけにやけにそこだけ冷たく感じる。
 そのままの体勢で目もつむったまま、足をすり合わせ、手は乱暴にポケットに突っ込んだ。
ポケットの中は手を入れるとほんのりと暖かく、太一は指を閉じたり開いたりしてみたりする。
すると突然太一のゆびさきになじみのない硬質な感触が触れてきた。

冷たく、なんだかぎざぎざしている。大きさは小さく、形は・・・
 ・・・これ、あの時の・・・!
ぎくりとしてつぶっていたまぶたをさらにぎゅっ、と閉じる。乾いた鼻に皺がよるのが目を開かなくてもわかった。そのせいで瞼のうらの暗闇で踊っていた
いくつもの色が一瞬、目の前から消える。
それははじめて彼女から新聞代を受け取ったとき、何を思ってか思わずかすめ取ってしまった100円玉の硬質で冷たい感触だったのである。
 足の先に力がこもって丸くなる。それだけでなくからだ全体が強張り、意識はポケットに突っ込んだ手に集中し始め、冷たい温度に触れている指が一瞬でそれを
撥ね付けたが普段ポケットに小銭を入れているような乾いた高い音のようなものはなにも聞こえてこなかった。
 これが1枚だけじゃないならそんな音も立てていたのだろうがそんなこともなく今のいままでここに収まっていたのである。
今ここでそんな事を思っても何もできることはないし、大体自分の財布の中からポケットにいれてしまったのと同じぶんだけ集金バッグの中にいれたのだから
こんな気持ちになることはないのにそれでも太一はたかだか100円玉一枚の感触にどうしようどうしようと気持ちを焦らせていた。
本当はこれぽっちもそんなことは思えないのに「なんだよこんな100円くらいで・・・」とひとりごちる。そうでもしないと頭がそれだけでいっぱいになりそう
で不安でたまらなかったからだ。しかしそれだけで大分自分の心のうちを騙せたような気がした。そうだよ、あの日は団地に初めて集金に行って階段とかいっぱい
上ったから冷たいジュースでも飲もうかなとか思ってたんだ、きっと・・・ 。
 それらしい言い訳が例え無理やりであっても、ひとつ見つかっただけで随分落ち着いてきたのが分かる。

少しだけ余裕の出てきたその手で小さな表面をそうっと少し伸びた爪でなぞったあと、少しづつひとさしゆびの指先を下ろしてゆく。
それは別にこのポケットに入っているものが特別なものではなく、ごくありふれた自分の身近にあるものだということを確認したかったからなのかもしれない。
まだつめたいままの感触にぎくりとして、そのまま指先で持て余してしまったが親指を裏側からそっとあてがい感触を確かめてみるとそれは確かに普通の100円玉で、
ふちのぎざぎざしたところを爪で引っ掻いたり指の間をくぐらせたりしているうちにいつのまにか自分の手のひらの温かさがつたわり、手になじんだ。
冷たかった硬貨の感触はなにか責められているような錯覚を太一に覚えさせたが、そんな事もない。ほんとにただの100円玉に戻ったような気がした。
 同じ温度の感触になんだか安心して強く瞑っていたちからをすこし緩めるとうすいまぶたごしに天井の白い光が暗闇に眩しく、それに吸い付くようにまたさっきまで
踊っていた色が戻ってきたようだった。

そのときのことである。

急に、さっき一番鮮やかに目の前を流れていったむらさき色がどこで見た色だったのかを思い出し、それは太一の脳裏にふかぶかと突き刺さった。
すると急にそれまで規則性もなく飛び散っていた色彩がうねうねと一点に集まって集合になったかと思うとしだいに徐々に丸みを帯び始めた。その細かい色一つひとつ
に意思があるようにお互いが絡まり、徐々にそれは形をなし、ついには太一に向かってあまい声で喋りかけた。
「なんでこんな事したの?」
なにもかも、自分の記憶通りだった。淡い髪の毛の色も吸い込まれるような目もつややかな唇もしろい太腿もちいさい足の爪もまるい胸も。
最後に見せた男を惑わすような性悪っぽい笑顔で彼女が言う。
「いけないことってわかってたでしょ・・・?」
 彼女彼女といっても相手は分かり切っている。
「・・・るみ・・・」
初めてその名前を口に出して呼んでみる。人の名前が舌にこんなに心地いいものとは、太一はそれまで知らなかった。
「素直なのはいいことよ・・・でも」
「こういう事が好きな悪い子だったのね・・・」
まぶたの裏のるみはそう言うと目を閉じて、体を太一に擦り付けてくる。
夢を見ているようだった。もやもやした罪悪感やもっと得体の知れないものが瞼の裏で、彼女の姿を借りて自分の胸のなかに身を寄せているらしかった。


夢を見ているようだった。もやもやした罪悪感やもっと得体の知れないものが瞼の裏で、彼女の姿を借りて自分の胸の
なかに身を寄せているらしかった。
 もっとも、まぶたの裏のるみが体を預けているのもまぶたの裏の太一だったが。
 今日ドアの向こうから出てきた時と同じ格好をしたるみが、すこしだけ足を開いてベッドにもたれている自分と同じ
格好をしたもう一人の自分と真正面になり、片方の手は首にそっと絡ませ、もう片方は長めのスカート
がじゃまだというようにたくし上げて足を露にしたかと思うとその足も太一のジーンズの太腿の上に乗せて調度馬乗り
になるような姿勢になった。
眼球のすぐ近くで画質の悪い、コピーの重ねられたブルーフィルムでも見ているような気分だったが、しかしそれは
やけに生々しく、そして十分過ぎるほど刺激的だった。
 これはるみさんじゃないんだ、こんな事をするような人には全然見えなかったじゃないか、と思うたびに淫猥に微笑
んで女らしい体を太一の胸や足にからませ擦り付ける。
くちびるを、太一のそれに掠めるかというところまで近づけて触れさせないままで、
「きみが、わたしの体のなかでいっぱい見てたところ、教えてあげようか」
と、秘密を打ち明けるようにささやいた。
その一言でぎくりとしたのが自分で分かりすぎるほどわかってしまった。
たかだか自分の頭のなかでのイメージに向かってさえ違います、そんな目であなたのことを見てません、とはっきりと
否定できなかったからだ。

 そんな太一の心のうちを知ってか知らずか、視線を外していてもこっちのことを見ているのが分かるくらいに太一のほう
を見やりながらその手を取って自分の体に導く。
 自分の手がるみの体に引き寄せられていくのを蜜の場所を知ったちいさな蜜蜂の辿る軌跡のような確かさとその羽音の
おぼつかなさのような不安定さで彼女の体に吸い付くのを目の端で見ることしかできない。
 今手を取られているのは自分自身のはずなのにどうすることもできず、ただるみのされるがままになっている。
 ここにいるるみは甘い花びらを開いて蜜の香りで誘い、太一がそのあまい蜜壷を取り囲む花弁にその足をそっと下ろす
のを待っているようだった。
 自分の勝手な想像なんかじゃなく、実際に喋ったあの優しげな目をした気立てのいい、清潔なるみとはあまりにかけ離れた
イメージであればあるほどまぶたの裏のるみの影は肉感的になり、その華やかで微かな香りまで香ってくるようだ。
「まずはここ・・・」
と鼻にかかった息で太一の首をくすぐりながら、腋をあけて背中に太一の手を廻させるとそこからゆっくりと下のほうに
辿らせ、きゅっと締まった腰のくびれのあたりでいったん動きを止める。それから最初に集金に行った時、財布をとりに
部屋に戻ってゆくるみの後ろ姿の薄い布地のスカートの上からでもそれがよくわかった肉付きのいい、しかし緊張感を保
ったヒップの上を少し滑らせたあと太一の手の上に重ねたしなやかな手と指に少し力を入れ、手のひら全体を自分の女ら
しいそれに押し付けさせ撫でさせた。歩くたびに左右に揺れた尻は想像通り、今まで辿った事のないような手触りと完璧
な曲線だと思った。
・・・そんな感触をるみの体はしているだろうな、いうイメージを頭の中に描いたというだけの話だが。
「そんな事考えてたの?」
とこの距離でしか聞こえない声音でささやくくちびるが憎らしくて愛らしい。
そう・・・想像してたんだ、あなたの体はおれのこの手で触ったら、どんなふうなのかって・・・あなたがどんなふうな
顔をして、どんな声をあげるのかって・・
ついに自分で認めてしまった。すでに誰かのものになっている女の体に欲情し、あまつさえ妖しい想像で体を満たそうと
していること・・・

瞼の裏でそうしているように、太一は100円玉を触っていた親指の腹に少し力をこめてみた。すると
「だめよ、いけない子ね」
と、ほんとうにまだ幼い子供をしかるような口調でるみが太一の若い衝動をなじった。
「今日も、見てたわね?ちゃんと知ってるのよ」
と太一の耳に息を吹きかけると、今日履いていた体にぴっちりとフィットしたスカートのせいでそれを脱がせなくても
わかってしまうパンティのラインのあたりをゆっくりと手のひらで辿らせる。曲線の終わりまでくるとまた上までなぞらせ、
それを何度も繰り返す。
 じれったいような、もどかしいような、それでいてこのまま煮え切らないまま遊ばれているのが心地良いような相反する
ものがないまぜになった気持ちがじっとりとした汗になって閉じたまぶたの横を流れ頬をつたい、首のほうに流れていく感覚
と手の中の今は熱くなった100円玉の感触だけがリアルでその感覚でのみ自分がまぶたの裏とつながっているような気がした。
「ここもいっぱい見てた・・・・」
今度は尻を触らせている方とは反対側の手を取り、上半身のほうに導いた。あ、と思った次の瞬間にはもう、るみのツンと
上を向いていたふくらみに触れている。
 あまりそんな場所を食い入るように見ていたことは自分で認めたくはなかったが、初めて集金に行ったときも今日また
部屋を訪ねたときもるみの胸は生成のセーターやカーディガンの上からでもその形のよさがまるわかりなくらい魅力的に
その存在を主張し、太一の視界に強引に入ってきていた。

今日の集金の時も部屋の中にいたドアの外に出てきたるみが寒い、と言って肩をよせるとボートネックの広い襟ぐりから覗く
女らしいカーブを描いた鎖骨の下でふたつの白い乳房が細い腕の間でぐっと盛り上がり、るみよりも大分背の高い太一からは
指も差し込めそうなくらいふかい谷間やそのまるく女らしい部分が彼女の明るい態度やあどけない仕草とはうらはらな、クラス
で体育の授業の後などにちらりと見えることもある子供っぽい、かわいらしいチェックなどではなく紫色のブラに包まれている
ことさえ薄い肩にかかったブラ紐の色ではっきりとわかった。
 その光景の吸引力にとまどって愛想のない相槌を適当に打ってうつむいてしまったわけだが、手の届きそうな位置で見せ付け
られた平和な団地の午後には似つかわしくない光景は太一の目に焼き付いて離れようとせず、女の下着は上下ワンセットになって
いるらしいからブラだけではなくてぴっちりとしたスカートの下、さっきなぞったラインからするとわりときつめの食い込みと
カットのパンティも紫色なんだろうか、だとか考えていると目の前のるみが一瞬あまりその意味をなさないようなちいさな面積
のレースでできた紫色のランジェリー姿になった所までも想像してしまい今度はうつむいた顔を赤くさせて、どうかしてるとかぶり
をふってしまっていたのだ。
それはそのまま彼女の肉体に見入っていた自分というものが確かにいたということに繋がってしまうからそれを否定したかった
がその意識を押し上げてどくどくと自分の下半身のあたりからどろりとした感情が漏れ出したものが紫色に代わっていたのかも
しれない。
 太一のまぶたの裏で一番派手に踊っていた紫色は体を包む洋服の下、白いすべすべした皮膚のすぐ上をつつんでいたるみの
下着の色によく似ていた。

ある時学校の下駄箱で派手に遊んでいるブリーチで色のなくなった長髪のクラスメイトが吹き込んでくる風に学ランの詰襟
をたてながら他のクラスでも目立つグループの仲間に大声で「あいつBカップまでしか付き合ったことねえんだってよオ!」
とおかしそうにげらげら笑いかけ、やっぱ胸はでかいほうがいいよなあ、ブラのまま揉むとおっぱいがプルっとこぼれるぐら
いじゃねーと、と続けて回りにいた女子生徒から顰蹙めいた目線にもめげずにそこにたむろしていたうちの今度は髪の短いほう
が「あーあれは赤ん坊のためについてるもんじゃねーよなー、あの柔らかさは俺らの指が食い込みやすいようにああなってるに
決まってるもんな!」と言って大げさに指を閉じたり開いたりした。その下品な動きにひとしきり笑うとあれはプリンだなー、
上に乗ってるさくらんぼもうまいぜー、俺ずーっとぺろぺろやってるもん、などと言いながら駅に向かって歩いていった。
 こういったもう女と肌を合わせている同級生の会話や雑誌、ときには体育の時の女子の胸の揺れ具合などを見ていると女の胸
は確かに柔らかいものらしいな、と漠然と部屋のベッドの上で思ったりしたがそれはセックス、ましてや女の子と付き合ったこと
などない太一にとって言葉の語感でとらえるイメージだけでしかなかった。
 だから尻のまろやかなラインの上を辿ることを想像した時と違い触れるとどんな感触が手に返ってくるかは見当もつかなかった
が、ただ彼女の着ていた白いボートネックがフランネルで織られていたことが太一の指の上にその優しげな手触りと、るみの体温
で温もっているだろうそれの生々しさを想像させた。

「洋服の上からだけでいいの・・・?」
 るみの影は太一の手首にそっとしなやかな指をかけなおすと太一の手首を洋服の下へと誘った。
寒い日に自分がそれを求めて襟ぐりからそっと手を入れるように、るみの洋服のなかもほんのりと暖かいのだろうか。白い生地が
自分の手でめくれて、女性のブラなど触った事がないからレースのひらひらとした感触に触れたようなイメージが広がる。
 女遊びの激しそうな同級生が言っていたとおりるみの乳房もブラを付けさせたまま弄るとカップからあふれるくらいありそうだ、
と思うと自然にるみの体に触れる自分を想像する、家族がいなくて一人部屋で目を閉じてポケットの中のコインを握っている太一
の指に力が入った。するとまぶたのすぐ近くの太一のるみの影のボートネックの下の指にも力が込められ、想像通りにレースの
ひらひらとした感触から温かみのある手触りに変わった。
  女は感じてあそこがくちゅくちゅしてくるとボッキするチンポがないかわりに乳首をコリコリに立たせるらしいぜ、と秘密を
打ち明けるように小さな声で言っていたのは誰だったろうか、高校の同級生だっただろうか、それとも中学の部活の友達だっただろうか。
 男だけになると決まりごとのように交わされていた猥談もどこか遠いもののように感じていた太一だったが一人になると自分の
手を眺めながらその会話をぼんやりと思い出したりしたものだ。

じゃあ俺らもチンポいじると気持ちいいじゃん、女もそうかな、そうだろ、この前のビデオだってすごかっただろ、ぎゅってされる
だけであんあん言ってたじゃん・・・くだらない会話ほど覚えているものだとその時太一は思った。
 ポケットの中の小さな100円玉を手のひらの上で縦に立たせ、人差し指の先で淵のぎざぎざした部分をカリカリと引っ掻く。
そうするとるみの影の背中がしなって乳首が指に当たるようになり、さらに一点を親指で左右に揺すると太一の腕にピンクのマニキュア
を塗った爪が食い込んだので、また100円玉を横に寝かせ人差し指で表面をかすかな刺激が触れる程度に何回もまるくなぞると
子供がむずがるようにやわらかそうな髪を振り乱した。
  100円玉にいっそうの力が込められていったのと同じようにいつしか左手はるみが押さえつけるよりももっと強いちからで
円を描くようにヒップを撫で回し、右手は彼女の豊かなバストやその頂点の布地を押し上げる乳首を劣情のままに揉みしだいたり
指できゅっと挟み込んだりしていたがるみのくちびるからはもうさっきのように太一を優しく叱る言葉は囁かれず、代わりに呼吸
が少し上ずったような、かすれ気味の声が切なそうに漏れていた。
その声は中学のとき友達の家で見た、家の持ち主の年の離れた兄弟のものだという何人もの男に体を開くビデオの中の女の最早
誰のものかも分からなくなったザーメンでぬめって別の生き物になったようなくちびるから漏れていたすすり鳴くような、それで
いてとろりと恍惚とした声がそのままるみの声に摩り替わったものに思えた。

 昼間、誰もいないからといってカーテンを閉めきって電気を消した部屋のうす暗がりの中で始めてみたあられもないセックスの
映像はなにかに殴られたような衝撃と興奮を中学生の体に一方的に叩き付け、まだそういった知識のなかった太一にはどういうこと
なのかよくわからなかったが、ひざ立ちの体勢で女はくちに一人のペニスをくわえて舌でしごきあげながら指にもう一人の先走りを
にじませ、後ろからまだ淡い色の乳首を乳輪ごと摘まれていた。もう一人は女が男の顔にモザイクでくもったそこを擦り付けるよう
に跨いで密着させ吸い付けさせており、時々男の舌が見え隠れしていた。その舌をねだるように腰をゆらすと女の口にペニスをしゃぶ
らせていた男が淫乱だ、おまんこにもう欲しくてたまらねえんだろ、となじっていたかと思うと女の口の中で果てた。
 それから入れ替わりたちかわりに女はその口に、胸に、女自身に、今考えたらもしかしたらアナルにまで男のペニスを咥え込んで
いたが最後は白い体の女の足が後ろから逞しい男の手で強引に抱えあげられ、また別の男が前から乱暴に乳房を捏ね上げたかと思う
とまる見えになった蠢く肌色や肉の色をしたちらつくモザイクの奥に怒張を突き刺し、もう何回目かもわからないピストン運動で女
が揺さぶられはじめようかという所で唐突に終わった。

もうその女の顔も覚えていないが、いままで聞くことのなかった女が男に犯されてあげる善がり声と、3,4人で見ていたはず
だったが相談もなくまた一回見ようと頭まで巻き戻されるまでの間に外から差し込む光でカーテンの模様が顔に映った友達があげた
「柴田あ、おんなってすげえな」
といううめきの様なつぶやきだけやけに耳に残っていた。
 2回目に再び同じ女が同じ男たちに同じ手順で陵辱されていくのを見やりながら自分の勃起しきったペニスをこすり上げて、下卑
た言い方で言うならイッた、のが太一のした初めてのオナニーだったが部屋に立ち込める数人ぶんの精液のわかい牡の匂いや、ぬる
つく熱いペニスをしごきあげていた時の自分の頭の中にあったのは唐突に終わったビデオの続き、張ったペニスで女を突き上げゆさ
ぶり、男がそうしていたように淫靡に踊る体をなじる言葉と腰を女にぶつけくちびるを歓喜の声で割らせるのはビデオの男などでは
なく自分であった・・・・という事実に太一の心に自慰行為がもたらす満足感は同じくらいの嫌悪感を伴うものとなった。
 恋愛にも、その存在の有無にさえも気づかないくらいだった太一にはその姿があまりにも即物的で動物的、浅ましく汚らわしい
ものに思えたからである。
 それから自分の意志とは関係なく、時々ベッドの枕もとなどに現れては男に犯されているときの、それだけで男の加虐心や欲望を
膨らませるような声を太一に向かって喘ぐのに女の体はビデオテープの向こう側で実体を掴むことなんてなかった。太一の中でビデオ
テープの女は性そのものであり、その女が遠いように男と女が足を絡ませ合うような世界も、確かに存在はしているのだろうが太一
からはずっと遠いところにあるものだと頭のどこかで思っていた。


「ねえ・・・一番見てたところ・・・どこだと思う・・・?」
 息を乱し、肌を汗でしっとりと濡れさせながらるみの影が喘ぎまじりに唐突に言う。
「ここよ・・・」
るみの影がヒップに廻していた手を太一のうつむき加減の顔の前に突き出すと、その時細い薬指の付け根のあたりが
にぶく光った。
「ちゃんと見て」
「わたしのこと」
頭の上から声がしてまぶたを開くといつも通りの自分の部屋に時計の秒針が静か過ぎる部屋に響いていた。
 るみもまた違った意味で太一から遠い女なのだろう。確かに存在しているのに、太一に向かっているのに彼女の
居場所は目の前で閉められるつめたいドアの向こうだったし、ドアの向こうの世界なんて世界中のどこよりも遠い
ところのように思えた。
 2回訪れた集金の際に、彼女の体の部分で一番太一が見つめていたのは確かに左手の薬指だった。
 いや、正確にはその指に食い込んでいる銀色の結婚指輪を見つめていたのである。
それはずっとまぶたを閉じていた瞳には強すぎる蛍光灯の光にも似た光を放って太一の視界のすみでいつもいつも
きらきらと輝いていた。
そのリング状の光が太一を妖しい想像から引き上げさせているのに、またそれと同時に同じ光によって縛られていた。
どんなに自分が彼女をまぶたの裏に招きいれ蟲惑的に微笑ませようがいやらしく躍らせようがもう彼女は結婚して
いる・・・・・ それが太一の胸を締め付け、また安心もさせる。どうあっても自分の手の中には抱かれる事のない
女だからだ。

しかし実体があろうがなかろうがまぶたの裏にるみによく似た女が存在していたのは事実で、その証拠に太一の
股間はジーンズのパンツのせいで痛いくらいに勃起しきっていて、ジッパーを降ろしてジーパンとトランクスを
一緒に一気に膝まで降ろすと100円玉を握っていたほうの手でペニスを包み、勢いよく上下させしごき上げた。
あっという間に絶頂が訪れて、カーペットに白い精液の水溜りを作る。
 今までオナニーをしていなかったぶんその匂いは濃く立ち上って太一の鼻をつき、まどろんでいく意識の中で
るみさんからしたいいにおいとは大違いだな、とぼんやりと思った。
 るみでもビデオの女でもないものに向かってほとばしらせたものを目の端でだけ見やると、太一は自分に体を
弄らせ熱い息を吐いていたのは二人の遠い女の影が交錯してあわさったもののように思えてならなかった。
 何か気だるいようなものや諦めにも似たものが太一の顔の上あたりに積もって目を閉じたら訪れる闇は優しいと
囁き誘って、言葉のままに暗闇にもどると先程まで肌をあわせていた淫らで愛しい女はすでにどこにも見当たらず、
やがて太一も眠りの気配に引き寄せられて自分のまぶたの裏から姿を消した。