「やあ、陣中見舞いだよ! ……なんだい、シケた顔してるね」
大きな手籠を抱えてゲルに入ってきたシルンドは、
僕を見るなり、片手を腰に当てて口をとんがらせた。
「シケた……って、おい……」
絨毯の上で毛布をかぶってがたがた震えていた僕は、思わず顔を上げた。
そこに、――どすん。
音を立てて手籠が落ちてくる。
「わっ」
情けない声を上げて、僕はかろうじてそれを抱きとめた。
「お、うまいうまい! 君にしちゃあ上出来」
今、手籠を放り投げた小娘は、ぱちぱちと手を叩きながら
豪奢な衣服をひらめかせて歩み寄った。
普通、低い背と凹凸に乏しい姿に、古今東西から集めた華麗な装束は似合わない。
でも、他の貴婦人と違って、乗馬袴を基調とした
<昔のタタタール女>のような格好に仕立て上げられた装束だと、
この娘の軽やかな足取りにとても似つかわしい。
一瞬、僕は、その姿に見とれた。
それから、いま投げつけられた物のことを思い出す。
「このっ……」
いやに重たい手籠を抱えたまま、僕は、何か言おうと思ったけど、
それは声になる前にしおしおと崩れて、喉の奥に退散した。
「あらら、重症だね」
シルンドは、形のいい眉根を寄せる。
「重症にもなるさ。……ジャムチ(駅伝)が来た」
僕はテーブルの上に投げ出した紙を眺めた。
「ふうん、なんて?」
「……カイゾンが挙兵したって」
僕の声は、消え入りそうに小さかった。

「ふうん、野心家だねえ、さすが生粋のタタタール」
「父上の、終生の好敵手だった男だ」
全大陸を席巻した<大タタタール帝国>の五分の一を領するハーン(王)の一人にして、
三日前に死んだばかりの大ハーン(皇帝)が二十年かけて、
ついに滅ぼせなかった不敗の魔王の名を、僕は震えながら口にした。
「へえ。じゃあ戦争だね。次代大ハーンの、君と」
シルンドはこともなげに言い、僕の横に座った。
「戦争って……あのバケモノと?!」

カイゾンは、文字通り草原一のバァトル(勇者)だ。
「ハーンの中のハーン」が僕の父上だとしたら、
「バァトルの中のバァトル」がカイゾンだった。
帝国の東側、人口も収穫も一番多い地方に基盤を持っていた僕の父上は、
タタタールを治める五人のハーンのうち、一番大きな勢力だった。
<大ハーンの領土は、帝国の五の内の一。ただし、国力は大ハーンが七の内の三>
……そう言われる肥沃の大地を占有したからこそ、
父上はクリルタイ(皇位継承会議)で大ハーンの座に着き、
後にカイゾンが他の二人のハーンを誘って反乱を起こしても、
残った一人のハーンを味方につけるだけで、カイゾンを圧倒することができたのだ。
だけど、それは、――カイゾンがそれだけ不利な状態でも
父上に負けなかった、ということでもある。
「……カイゾンと戦って勝てるわけないよ」
父上の残した重臣たちは、もちろん健在だ。
でも、カイゾンと戦って勝てるほどの将軍は一人もいない。
いや、あの魔王と戦争して負けない人間は、
父上以外、この大陸のどこにもいないだろう。
ましてや、僕のような──無能な弱虫では。
そして、僕は、その魔王と戦わなければならない。
<大ハーン>が倒れれば、新しい<大ハーン>を決めなければならない。
そして、他の三人のハーンは、すでに<大ハーン>位を諦めると伝達してきていた。

それはつまり、
最強の勇者であるカイゾンと、最大の国力を持つ僕とのどちらか。
直接対決を制したものを後追いで承認するということ。
草原で一番強いハーンと、二番目に強いハーンは、
逃げることも、相手に大ハーン位を譲ることもできない。
大ハーンに匹敵する男が生きていれば、いつかまた争いになるから。
どちらかが首をとられるまで、戦い続けなければならない。
それが、草原の掟だった。
「……カイゾンに勝てるわけがないよ」
僕は、もう一度つぶやいていた。
さっきよりも、もっと声に力がないのが自分にも分かる。
「……ふうん」
シルンドは、気のない返事をした。
この娘――僕の第一夫人は、いつもこうだ。
シルンドの考えることといえば、世の中に二つだけ。
ひとつは……。
「まあ、いいや。難しい事を考える前に、まずは腹ごしらえだよ!
ほら、羊の焼き串! それとチーズ! ヨーグルトもあるよ!」
僕の手から手籠を分捕って蓋を開けると、
シルンドは、まだ湯気を上げている焼肉と壺を二つ取り出した。
そう。
こいつは、年がら年中何か料理を作るか、食べるかしている。
背もちっちゃく、胸もお尻もぺったんこな痩せっぽちのくせに、
どこに入っていくのだろうか不思議なくらいに大食いだ。
「馬の様によく喰う」と言われる僕と同じくらい食べる。
そして僕は、「馬に乗るのも苦労する」と笑われるくらいに太っているのに、
シルンドはいくら食べても肉がつかず、身が軽い。
世の中、不公平だ。
僕なんか、太っているせいで乗馬がへたくそなのを、
ことさらみんなに陰口を叩かれてるというのに。

「何か言った? はい。君の分」
一本が「肘から、伸ばした指の先まで」もあるような大串を手渡される。
かぶりつくと、ほど良く焼けた羊の肉汁が口の中に広がる。
「……旨いな」
「でしょ? でしょ?」
「塩がいいな、こいつは」
僕は、かみ締めた肉から溢れる汁を吟味してそう判断した。
「あ、わかる? いい塩が手に入ったんだよ。
西の岩塩より東の海で取れた塩のほうが旨みがあるんだ」
「へえ、意外だな。羊は陸のものだろう。
山から取れた塩のほうが合うんじゃないのか?」
僕は、草原の民の常識を口にした。
実際、僕らが慣れ親しんでいる塩は、
赤かったり、黄色かったり、色のついている大きな塊だ。
でも最近は、東の海から取れた白い砂のような塩が手に入るようになった。
どっちがうまいかは、――シルンドに言われるまで考えたことがなかった。
「うーん、そういわれているけど、本当はそうでもないのかもよ。
商人に聞いたら、西の人も東の人も、塩は海のほうが陸のよりも上等だって。
それに、……実際旨いじゃん、これ!」
シルンドは、串焼きにかぶりついて反論した。
ほっぺたが二重の意味で膨らむ。
……どう考えても、<次期タタタール皇后>候補筆頭には思えない。
ついでに、こんなものを自分の手で焼いて持ってくるのも、
大帝国の頂点にいる貴婦人のすることではない。
僕の曾お祖父様──偉大なる始祖・初代大ハーンの頃の、
遊牧民族の色が濃い時代ならともかく、
自分で窯の灰をさらって料理をはじめる皇后なんか世界中どこを探してもいないだろう。
ましてや、それが──。
「美味しいものを食べたければ、時には常識を疑ってかかることも必要なんだよ!」
……自分が旨いものを食べたいがために、という奴は、特に。

この娘――シルンドは、一応「お姫様」だ。
それもそんじょそこらのお姫様ではない。
初代大ハーンが妻を娶って以来、三代続けて大ハーンの正妻を出した名門氏族の娘だ。
大ハーンの息子の僕の第一夫人に選ばれたのも、「四代目」の皇后になるためだ。
僕らの結婚式に、こいつのお爺さんは馬三千頭と羊一万頭を引き出物にした。
大きな城塞都市(まち)がいくつも買える財産を持つ女は、
帝国広しと言えど、そう多くはない。
ちなみに──その自分の馬と羊からチーズとヨーグルトを作って持ってくる貴婦人は、
断言する、世界中にこいつしかいない。
大串を半分くらい食べて、チーズとヨーグルトに手を伸ばした。
チーズらしく、ヨーグルトらしい味。
凝ってはいないが、普通に、ごく普通に、そして丁寧に作った
──婆様たちが作りそうな奴だ。
碗にいっぱい取った分が、瞬く間になくなる。
もう一度壺に手を伸ばそうとすると、
「あ、ボクの分も残せってば!」
と奪い返された。
「お前も碗いっぱい食べただろう?」
「むう、しかたないな。半分こだよ? これ、上手くできたんだから」
シルンドが口をとんがらせる。
「やっぱり、お前が作ったのか。前に作ったより旨いな」
「そう? やっぱ、ボクは天才だね!」
とんがっていた口元が、左右に広がる。
小ぶりな唇は桜色で、小粒な歯は真っ白だ。
一瞬、見とれる。
シルンドを妻に迎えてから何年になるだろう。
皇族の常として、生まれてすぐに決められた許婚がこんな変な娘だと知ったのと、
この笑顔が魅力的だと知ったのは、どちらが先だったのか、覚えていない。
「あ、塩漬け玉葱、食べる?」
手籠の底から二つ取り出した片方にすでにかぶりつきながらの提案。

受け取ってかじりつく。
冷めはじめた羊肉が、香味野菜の味で旨みを取り戻す。
塩漬け玉葱を半分齧り終える頃には、僕は大串のほうも全部腹の中に納めていた。
「――ほんと、君はよく食べるね。ボクと同じくらいに。
それに、僕と同じくらいに味が分かる。だから作り甲斐があるよ」
シルンドは、自分の分の大串を平らげながら笑った。
「そうか」
苦笑いをして、手に残った玉葱の半分に視線を落とす。
羊肉の付け合せには最高だけど、これだけを齧るのはなんとなく口さみしい。
籠の中に、何か残っていないかと覗き込む。
「お?」
生の馬肉の塊。
「いい物があるじゃないか」
草原の民にとって、馬は足であり、食料でもある。
ハーンは、羊の肉と馬の肉とで身体を作るのだ。
僕は馬肉を切り分けようと手を伸ばした。
だけど、それは、寸前でシルンドに取られた。
「こら、半分よこせ」
手を伸ばして取り戻そうとする。
その手を片方の手でぴしゃりと叩いてシルンドが馬肉を持ち上げる。
「だめ、だめ。ただ食べるよりもっと美味しくしてやるから、手を引っ込めろ」
「旨くなるのか?」
「うん。その玉葱、こっちに頂戴」
食べかけの玉葱を指差してシルンドが言う。
「これか?」
「うん」
齧りかけの玉葱を渡すと、シルンドは、それを自分の玉葱と一緒にする。
「どっちも食べかけだけど、気にしないよね?」
「お前の食いかけなら、別に」
「僕も、君のなら」

小さな頃から、お互いの食べ物を奪い合って、分け合って、育った食いしん坊二人だ。
僕がシルンドの食べかけを食べた回数は、シルンドが僕の食べかけを
食べた回数より、多分一回くらい少ないだけだと思う。
「いや、絶対、君のほうが一回多い」
シルンドはまた口をとんがらせた。
「だって、去年の正月のお祝いのとき、君、ボクの白チーズを食べちゃったじゃないか」
「待て、そういうお前は、一昨年の母上の誕生日のときに、僕の茶菓子を二つも失敬しただろ」
「ああ、あれは美味しかったね!」
「返せ、あれは僕の大好物だったんだぞ」
「うーん、まあ、そのうち同じのを作ってあげるよ。
今日は別の美味しいものを作ってあげるから、忘れろ」
シルンドはぺろっと舌を出して話を打ち切った。
まったく。
シルンドはいつもそうだ。
だけど、まあ、こういう時、こいつは、
いつも「別の美味しいもの」を作ってくれるのは確かだった。

床に木の板を敷いたシルンドは、馬肉の塊を刻みはじめた。
鉈のように重たいナイフが、小さな手の中で自在に踊る。
音楽のように軽やかな音を立てて、生肉が小さく小さくなっていく。
「ここで玉葱を入れるんだ」
二人の食べかけ玉葱をざくざくと切って生肉の上に置く。
そのまま、肉といっしょに刻み込む。
「お?」
いつもの馬肉とは一風変わったものに仕上がったそれを、
僕は興味津々でのぞきこんだ。
「食べてみて、食べてみて」
「うん」
木の箆(へら)ですくって口に入れる。

「おお?」
「どう?」
「……うまい!」
「やったね!」
軍馬に使う草原の馬は、肉が硬い。
だから細かく刻んだり、それを袋に入れて鞍の下に置いて乗り手の体重で潰して食べる。
だけど、それに塩漬けの玉葱を混ぜるとは。
「お前、天才かもな」
「やっぱり? そうじゃないかなーって自分でも思ってるんだ」
シルンドのほっぺたが赤く染まる。
自分も箆を使って一口食べ、それを飲み込んでから、
「えへへ、――実は、これ、僕が考えたんじゃないんだ」
「え?」
「西の、西の、ずっと西のエウロペの人たちの料理だって」
エウロペは、帝国の西に広がる白い肌の連中の国だ。
軍隊も弱く、文明も遅れているけど、帝国から遠く離れているので、なかなか征服に行けない。
でも商人たちは、たくさん来ていて、色んなものを売り買いしている。
「エウロペの連中も馬を食うのか。聞いたことないなあ」
西の果ては、草原より馬が少ない。
馬自体も小さいし、足も遅い。
連中は僕の国に多いチーヌ(東の住民)と同じように農耕で食っているのだ。
「代わりに牛を使うことが多いんだって。
エウロペナ(西の住民)は、ボクらより生肉を食べなれてないから、
玉葱とか、香草をいっぱい入れるんだってさ」
「へえ」
はじめて聞く話だ。
「それでね、それでね! ……エウロペナがこの料理のこと、なんて呼んでるか知ってる?」
シルンドは、箆を持った手をくるくると回しながら聞いてきた。
「知らない。――何?」
「<タタタールのステーキ>だってさ! おっかしいよねっ!」

「そう……だな」
遠い世界の果ての人間が考え出した料理に、
僕らの草原の帝国の名前が付けられている不思議。
僕は、一瞬、言葉につまり、それから頷いて、
もう一すくい、<タタタールのステーキ>を口に入れた。
「ん。これ、他の香草を入れてもいいな。
いや、待てよ。生卵なんか混ぜてみたらどうだ?」
「ふふっ」
シルンドが優しく笑う。
「なんだよ」
「ん。君って、ほんと君だなあって思った」
「何が?」
「喰いしん坊で、甘えん坊で、臆病で、おおよそタタタールのハーンらしくないってこと」
「悪かったな」
もう一すくい、肉を口の中に放り込む。
「あ、僕にもよこせ」
シルンドが箆を奪い返して自分も頬張る。
「まったく。僕にとりえはないってことかよ」
「そんなことないよ。君は、ボクのご飯をうまいうまいってみんな食べてくれる」
「なんだそれ」
「あ、あと、ボクの工夫をわかってくれるのも君だけだね。
この<タタタールのステーキ>の妙味を一口で分かったじゃん」
「食べることだけか、僕は」
僕はため息をついた。
たしかに、馬だの、弓だの、戦術だの、
タタタールの男らしいことで誉められたことは一度もない。
「まあ、この状況でもりもりご飯を食べられるというのも君のとりえだよね」
いつの間にか、空になった板の上を眺めて、シルンドはくすっと笑った。
その言葉に──僕は、僕を取り巻く状況を思い出した。

「うわあああっ……!!」
毛布をかぶって震える。
ダメだ、絶対勝てない。
あんなバケモノ相手に戦争したら──殺される。
「あらら、こりゃ重症だね」
さっきと同じセリフも、遠く感じる。
一瞬だけ忘れていた恐怖は、先ほどよりも強く感じられたからだ。
だけど……。
「仕方ないなあ。――ほら」
前に回りこんだシルンドの声。
これは聞こえる。
だって、これは──。
僕は無意識に顔を上げた。
目に彩なものと、その中心の白いもの。
「えへへ、これ見て元気出せ」
照れたように笑うシルンドの両手は、
上着の裾を思いっきり捲り上げ、乗馬袴を思いっきり押し下げていた。
鮮やかな衣装がそこだけ取り払われて、シルンドの白い白い肌が露出している。
薄い胸乳と桜色の先端。
ほっそりとしたお腹と腰。
それに、この歳になってまだ毛も生えていない丘と、
──その下の、深い谷間。
どきりとするほど生々しい、でも何かの彫刻のように美しいもの。
「あはっ、もう元気になってるよ? 
僕のま×こ見ただけで、君のおち×ちん、もうこんなになってる。
君って、ほんっと、……スケベだよね!」
シルンドが笑う。
嬉しそうに。
その笑顔は僕が飛びついても消えず、
絨毯の上に組み伏されるとますます深くなった。

「はっ……ん……。やっぱり、君、うま……いね……」
絨毯の上で、白いシルンドの下肢がうねる。
その股間に僕の顔がうずまる。
両手で開いたシルンドの中心は、僕しか知らない花園だ。
桃色のそこに僕の舌が這うと、シルンドは声を上げて仰け反った。
「ほ……んと、こういうのだけ……は、上手いんだから……」
シルンドのかすれた声。
少女のような性器から女の蜜がたっぷりと吐き出される。
胸もお尻も小さな女の子──というより男の子みたいな身体の癖に、
中身は、こんなにも女。
僕は、自分の妻の持つ二面性に昂ぶる。
「はうっ……、そこ、だめ……、だめ、だって、ばあ……」
上着を脱ぐ暇もなく舐めはじめたので、シルンドは下半身だけが裸だ。
袖をばたばたさせる仕草──それが、ますます少女じみた挙措に思える。
ぴっちりと閉じた割れ目に舌を思いっきりねじ込む。
「ひっ……!!」
強く引いた良弓のように、シルンドの身体が反った。
「ああっ……」
矢を射たときのように強く跳ね、次いで弛緩する。
良い弓。
最高級の良い弓。
それは、持ち主と一体になる。
だから──。
「えいっ」
乗馬袴の上から、男根をつかまれて僕は身を捩った。
「……まったく、やってくれるね。ボクだけ一人でイかせるなんてひどいじゃないか。
これはこれで、まあ良いんだけど……ボクは君のおち×ちんでイきたかったんだよ?」
布越しに強くこすりながら、シルンドは柳眉を逆立てた。
「まあ、いいや。お返しに全部搾り取ってあげるから、覚悟しろ」
──良弓は、持ち主と一体になりたがる。

「――うわっ、シルンドっ、ちょっと待って!」
「待たない。一回、これでイっちゃえ」
「ダメだ、ダメだってば! それ!!」
シルンドの舌が、僕の乳首に這う。
男も、そこを舐められると気持ちがいいということを探り当てたのはシルンドだ。
こんなこと、他の貴婦人は絶対にしないだろうし、見つけられもしない。
でもシルンドは、僕が彼女の薄い胸を舐めたり触ったりして
彼女を気持ちよくさせたら、お返しに同じ事を試してみようと考える娘だ。
伸ばした左手の指先が、もう片方の乳首をコリコリとつまむ。
太った僕の、うずくまった野牛のような身体の上に、
白い小鹿がぴったりと重なる。
重なって、離れない。
「ふふ、やっぱり君、これ弱いね」
「ば、ばか、もうやめ……」
「やーだ。こっちもいいんでしょ?」
シルンドが意地悪な笑みを浮かべて右手に力をこめる。
男根をしごかれて、僕は女の子のような悲鳴を上げた。
「ほらっ、ボクの手でされて気持ちいいでしょ?
イっちゃいなよ、ボクの手でイっちゃいなよ!」
頭の中が真っ白になるくらいの気持ちよさ。
「あっ、あっ……」
「うふふ。イくの? イくの? じゃあ、……ご褒美!」
シルンドが、僕の体の上を滑るように動く。
僕の唇に、彼女の唇が重なった瞬間、僕は爆発していた。
柔らかな、唇と舌の感触。
優しい手の動き。
身体の中で一番敏感な先っぽの中の細い管を、
塊のような粘液が押し出されるように吹き出る感覚。
「ひあっ!!」
射精する僕を、シルンドは心底嬉しそうに眺めた。

「いっぱい出したねえ」
シルンドが、くすくす笑う。
自分のお腹の上に大量にぶちまけた白濁の液を指先ですくって弄びながら。
時々、僕のお腹や胸にそれを擦り付ける。
まるで子供がお気に入りのおもちゃで戯れるようにご機嫌だ。
「うん。――やっぱり、ボク、君のことが好きだな。
君、食べることのほかに、いいところ、いっぱいあるから」
「なんだよ、それ……」
「君、ボクの身体でこんなに気持ちよくなってくれるし」
「そんなことで好きになるのか」
「なるよ、すっごく。世界で一番」
シルンドは上気した顔できっぱりと言い切った。
「君がいないと、きっとボクは世界が全然楽しくなくなる。
だから、君はカイゾンなんかに負けちゃダメだ。
負けて首をとられちゃダメなんだ」
「シルンド……」
「だから──君は、カイゾンに勝つんだ。ボクといっしょに」
横たわった僕の上で、シルンドはひどく真剣な目をした。


父上の葬儀は<上の都>で行われた。
曾お祖父様の時代は「大ハーンの葬列が出会った者は皆殺しにする」という、
過酷な草原の掟が守られていたけど、お祖父様の時代はだいぶ穏やかになり、
今、父上の葬儀では完全にそれが撤廃された。
それは、父上の遺志でもあったし、僕の望みでもある。
「草原の民」であることを強く意識している古くからの将軍は何人か眉をひそめたけど、
重臣たちを含む大多数は、それを喜んだ。
とりわけ、草原ではなく低地に住むチーヌ(東の民)たちは。

だから僕は、逆に葬儀を<上の都>で行うことにした。
<上の都>は、文字通り高原にあり、<大草原>の東の中心に位置して、
僕の領土のもう一つの都である<下の都>と双璧を為す。
チーヌたちを統治するために低地に作られた<下の都>は、
広大な東の富を集める街で、僕の領土のもっとも重要な拠点だ。
チーヌの農地が開発されていくほどに、その重要性は増し、
いつかは<上の都>は<下の都>に飲み込まれるのではないか、とささやかれている。
だから、僕はことさらに葬儀を<上の都>で行った。

東の民の支配者である前に、草原の民の支配者。
僕は、それを内外に示し、そして大ハーン位を継ぐことを宣言した。
<大草原>の東の中心<上の都>で。
それは、<大草原>の西の中心にある<イル河のほとりの都>で
同じく大ハーン位を宣言したカイゾンに宣戦布告したことに等しい。
「真の大ハーンとして、もう一人の偽りの大ハーンを倒し、草原の民を一つに導く」
お互いに、そう宣言することが、僕とカイゾンが、
「大ハーン」として最初に行ったことだった。

「さて、とうとう始まっちゃったね、君が大ハーンの時代が」
儀式が終わって、祝宴までわずかな時間ができた。
少しでも休んでおこうとオルド(後宮)に戻ると、シルンドがにやにや笑って僕を出迎えた。
この娘は僕の夫人だから、当然、オルドを差配している。
「嬉しそうに言うなよ」
儀式のときは緊張して思い出さなかった恐怖と重圧が
すばらしい速さで戻ってきて、僕はため息をついた。
「だって嬉しいだもん。――君が大ハーンになったのが」
間髪入れない返事。
裏も表もない、そのままの言葉。
「北の砂漠の細かな砂ほどの」迷いもない声。
僕は絶句した。
儀式の中で祝福と賛辞の言葉は、数え切れないくらいに浴びた。
でも、シルンドのそれは、他の誰ともちがう重みを持っていた。
真実の重さ。
あらためて、目の前の娘が自分にとってどんな存在なのかを思い出す。
「ん、どうしたの?」
シルンドは、呆然としている僕に声をかけた。
「いや……、なんでもない」
「変なの。――まあ、いいや。作戦会議を始めよう!」
シルンドは、絨毯に座った。
隣をぽんぽんと叩く。ここに座れということらしい。
「作戦会議って……?」
「君がカイゾンを倒す作戦さ」
これまた間髪入れない答え。
「ちょっと、倒すって、お前……」
言うまでもなく、シルンドはただの娘だ。
タタタールきっての貴婦人で、変な娘であることは確かだけど、将軍でもなければ大臣でもない。
こんなときに何かが出来る人間ではないし、そういうことを考えられる人間でもない。
でも、シルンドは絨毯をぽんぽんと叩き続けて、結局僕をそこに座らせた。

「さて、質問。――カイゾンは、君の何倍強い?」
いきなりの問いに、僕は目を白黒とさせた。
「何倍って……そんなのわからないよ」
一日に千里を走る馬に乗り、
手の中に三本握った矢を同時に放って全てを鷲の目に当てる化け物と、
十日に一回は落馬して、
三回に一回しか動かぬ的に当てられない愚図とは、
何倍の強さの違いがあるのだろうか。
「ああ、違う違う。君がカイゾンと一騎打ちしてどうするの?
そうじゃなくて、君の軍隊と、カイゾンの軍隊」
「ああ、そっちか」
僕は腕組をした。
「今、三倍で全然勝てない」
カイゾンの軍は、二十万。
草原を自在に駆ける、タタタール鉄騎の精鋭だ。
僕の軍は、六十万。
タタタールの兵は、カイゾンより少し多いくらい。
残りはチーヌや、もっと南で征服した国々から集めた混合軍。
父上は、この三倍の戦力で戦い続け、そして勝てなかった。
戦場は、広い広い<大草原>。
神出鬼没のカイゾンは、草原のあらゆる場所に現れては、
父上の軍の手薄な場所を攻め、こちらが兵力を集めるとさっさと退却する。
互いに全軍を率いての激突はほとんどなかった。
そして、僕らの軍は、僕が知る限り、カイゾンにいいようにやられ続けている。
「一番良かった戦い」が、三ヶ月にらみ合って双方兵を退いた引き分け、
というのが、笑うべき、だが笑えない戦績だった。
「ふうん。じゃ、五倍だと、どう?」
シルンドも腕組をした。
難しいことを相談するとき、この娘はこういう姿勢になる。
……たぶん、僕の癖がうつったんだ。

「五倍……駄目だな。たしか、二度か、三度そういう戦いがあったはずだ」
二十年も戦い続ければ、カイゾンだって二度や三度は間違いを犯す。
思うように軍団を合流できないところに、父上の軍隊が攻撃をかけることができたこともあった。
カイゾンは、自分の親衛隊だけで、自分の五倍の相手からの攻撃に耐えなければならず、
──そして耐え切った。
一万のカイゾン親衛隊を五万で破れなかった戦いが一度。
二万のカイゾン本隊を十万で破れなかった戦いが二度。
それは、「バァトルの中のバァトル」の強さを<大草原>中に広めた。
「──じゃあ、八倍は?」
「それも一回あるな。やっぱり勝てなかった」
「化け物だね。じゃ、十倍は?」
「……それくらいなら、なんとかなるかもな」
机上の空論だ。
カイゾンの二十万の軍隊の十倍となると、二百万。
そんな兵隊を編成するのは、「帝国の七の内の三」の国力を持つ僕らの国でも無理だ。
人数だけなら集められないことはないが、それに見合う武器と兵糧はどこにもないし、
またそれだけの人間をチーヌの農村から狩り出せば、
次の年の税収は見込めない──どころか、確実に反乱が起きる。
だが、シルンドは、空論を続けた。
「こころもとないな、じゃあ十五倍。これなら確実でしょ?」
「ああ。それだけ集められれば、な」
僕はため息をついた。
シルンドが僕のために一生懸命考えてくれていることは分かる。
だけど、やっぱりそれは虚しい計算でしかない。
僕の第一夫人は、僕の味方。僕の、僕だけの味方。
それだけは、よく分かる。
唯一の慰め。
ちょっと悲しい気分になったとき、シルンドは腕組を解いてにっこり笑った。
「決まりだね! 十五倍だ! ――あ、ツァイにしようよ」
シルンドは、作戦は決定、とばかりに明るい表情で言った。

「シルンド……」
「何?」
「……なんでもない」
僕は、何かを言いかけたが、口を閉じた。
戦の経験もなければ、本来そんな事を考える必要もない娘が、
懸命に考えてくれたこと。
たとえ、それが無駄な空想でしかないとしても、
それは、僕にとって何より価値のある、唯一の救いだった。
「……ありがとう」
ただ、それだけを言う。
「ん。――ああ、ツァイね。君が飲んだり食べたりする前にお礼を言うのはめずらしいね!」
僕の妻は、碗を手にしてにやりと笑った。
「ちょっ、ちがっ……」
「いつもそれくらいお行儀よければ、君の母上さまにお小言をもらわずに済むのになあ。
あれ、ボクもいっしょに怒られるんだよ?」
「お前だって全部平らげてから言うじゃないか」
「あったり前じゃん! 美味しいものの最初の一口目は、早いもの勝ちだい!」
せっかくの気分が、台無しだ。
──切ない悲しみといっしょに、台無し。
僕とシルンドは、それでいいのかもしれない。
僕はもう一つため息を──さっきと違う種類のため息をつき、
そして自分の喉がからからに乾いていたことを知った。
シルンドが暖めた羊の乳を碗に注ぐ。
刻んだ茶葉と岩塩のかけらを投げ入れる。
ぐるぐるとかき混ぜて、出来上がり。
「……ん。うまい」
濃厚な羊乳が身体を温め、茶葉が栄養をつける。
獣肉がタタタール人の身体を作るのならば、
この薄い塩味の飲み物は、タタタール人の血を作る。

「こんなのも作ったんだけど?」
いつの間に用意したのか、シルンドは、大皿にいっぱい盛った白い小さな塊を差し出した。
「これは、小麦か? 中に何か入っているな」
「うん。食べてみてよ」
言いながら、シルンドは先に一つつまみあげてかぶりついた。
僕もそれに倣ってかぶりつく。
「ん。これは羊肉か?」
中から広がる細かく刻んだ肉と肉汁に、僕の頬は緩んだ。
「うん。羊肉を刻んで炒めたんだ。中にそれを入れて、蒸しあげる」
「チーヌの食べ物だな、これは」
「あはは、当たり! ボーズ(包子)って言うんだ。
チーヌは豚や牛を使うみたいだけど、ボクらには羊肉のほうがいいよね」
「そうだな」
手軽で、うまい。
一個食べると、自分がどれくらい腹が空いているのか思い出した。
儀式の間は酒も飲めなかったし、もちろん食べ物もでない。
結局、朝食を食べたきり、半日は何も口にしておらず、祝宴は夕方からだった。
ツァイと、手軽につまめて腹にたまる食べ物は、
今まさに僕が何より必要としているものだ。
そう思うと、たまらなく腹が空いた。
三つ四つ、立て続けに平らげ、ツァイをすする。
「うまいな、これ」
「でしょ? すぐ作れるし」
「中は馬肉でもいいな。一つ二つなら、豚のも食ってみたい」
「あ、いいねえ。今度作ってみるよ」
「待てよ……、たとえば、こうやって盛り付けてあるやつの中身が、
全部違う肉っていうのはどうだ? 食うまで中身がわからない」
「おおっ?! そりゃ考えつかなかった!
宴会の料理によさそうだね。中身の当てっこしたり」
取ったボーズの中身が、かぶりつくまでわからなければ、中々面白い。

大皿に盛られた素朴な食べ物は、どんどん二人の胃袋に消えていった。
最後は、うまい具合にふたつボーズが残ったので、
僕とシルンドは取り合いの喧嘩をすることなく仲良く軽食を終えた。
もっとも、他の人間だったら、きっと丸々一食分な分量だろうけど。
「ふう」
「落ち着いた?」
「ああ。これなら祝宴まで保(も)ちそうだ」
温かいもので膨れたお腹をさすって、僕は答えた。
「よかった。祝宴のごちそう、楽しみだねっ!」
「そうだな」
大ハーンの就任祝いだ。
タタタールで一番の宴会は、世界中から集められた一番のごちそうが出る。
儀式のことと、カイゾンのことで頭が一杯で、考えもしなかったけど、
シルンドに言われると、確かに楽しみだ。
「ちょっと、祝宴のゲルを見てくる」
準備がどうなっているか気になって、僕は立ち上がりかけた。
その手首をつかまれて、また座らされる。
「ダメだよ。まだお料理だって準備は出来てないさ」
「でも……」
たしかにそうだけど、開催者として色々と……。
「そんなことは、従者たちにまかせておきなよ。
君にはもっと大事なことがあるんだから」
「大事なこと?」
「そ。ここはボクのオルドだよ?
君の第一夫人……あ、ボクってもう皇后になったんだっけ?
まあ、どっちでもいいや。とにかく、ボクのオルド。
つまり、君が休んで、眠って、君の女を抱いて行くところ。
そこに立ち寄ったんだからさ、……自分の奥さんと仲良くしていきなよ」
シルンドは、子供のように明るい声と、
そして到底子供とは言えない淫靡な光をたたえた瞳で僕を誘った。

シルンドの唇は、甘い。
薄塩味のツァイと、もっと塩味の濃いボーズを食べたばかりなのに、
ほんのりと甘くて、いい匂いがする。
桃色の小さな舌は柔らかくて、僕の唇の上でよく動く。
これが、本当にボクと同じ人間なのだろうか。
羊のそばに牝鹿がいるように、
シルンドがまるで僕とは違う生き物のように思える。
その別の生き物は、色とりどりの布でできた貴婦人の装束を
大胆にずらして、裸体を僕の目にさらしていた。
薄い胸乳の先端には、桜色の乳首が息づき、
平らで引き締まったお腹は白い石のように滑らかだ。
成人してもまだ毛が生えていない乙女の丘と、
その下の、命の谷間。
僕の舌が、上から下にその全てを蹂躙していく。
「んんっ……はぁっ……!」
シルンドの、息遣い。
快感を、押し殺した声。
甘やかな髪の匂い。
五感のすべてが、腕の中の女を愛おしく感じ取る。
「……っ!」
乗馬袴を下ろすと、僕の雄の部分は、痛いほどにそそり立っていた。
「あはっ、元気だねっ! いつもよりすごいんじゃない?」
「そう…かもな……」
「大ハーンになって、一回り逞しくなったのかな、どれどれ?」
シルンドの小さな手が、僕の物を包み込む。
「うわっ、シルンド……!」
柔らかな指先と手のひらは、僕のそれとはまったく違った感触で、
僕は危うくシルンドの手の中で射精しそうになった。
実際、今までに何度もそうして彼女の手の中に精を放ってしまったことがある。

「うふふ、耐えたね? さすが大ハーン。えらいえらい」
シルンドがくすくすと笑った。
本気ではない、戯れ。
でも、それで僕が射精してしまっても、それはそれで楽しくて嬉しいこと。
彼女のいたずらっぽい瞳は、そう言っていた。
「このぉ……!」
頭に血が上るのは、怒りではなく、欲情のせい。
僕は強引にシルンドの身体を引き寄せた。
力なしの腕でも、小さく軽い娘の肢体は易々と扱える。
シルンドが、僕の妻になったのは、天の配剤かもしれない。
谷間の入り口に、僕の先端をあてがうと、
タタタール一の貴婦人は、艶やかに微笑んだ。
「いいよ、来て──」
シルンドのそこは、すでに、<北の湿地>よりも潤んでいた。
細く未成熟な身体のどこに、こんな熟した蜜が蓄えられているのだろうか。
幼いとさえ言える肉を押し割って入って行く僕の男性器を、
シルンドはたちまちのうちに蜜まみれにした。
「ふわっ……すごい…や。君のおち×ちん、いつもよりすごいよ。
まるで別人……。さすが……大ハーンだねっ……」
シルンドが、甘くかすれた声を上げる。
「そんなにちがう……か?」
就任の儀式を受けて何か変わったのだろうか、僕の中で。
自分で感じ取れない変化は、喜びよりも、むしろ不安。
僕は、思わずシルンドに問い返した。
僕を一番よく知っている女性に。
シルンドは僕を見詰め、――舌をぺろっと出して笑った。
「うふふ。――う・そっ! いつもと同じ、君のおちんちん、だよっ!」
「……なっ」
予想外のことばに、僕は一瞬絶句した。

固まって動きを止めた僕に、シルンドは、くすくすと笑ってことばをかける。
「あはは、人間、そうそう変わるわけないじゃん。
大ハーンになってもならなくても、君は、君。――ボクが大好きな君だよ。このおちんちんもっ……」
「なっ、騙したなっ!」
「あ、でも、いつもよりすごいのは本当。
うふふ、はじめて味わうシルンド皇后サマのおまんこに興奮したかな?」
「……ばっ……お前こそ、いつもと変わらないよっ!」
「あはっ、じゃ、君のお気に入りってことだね!」
シルンドが、抱きついてきた。
同時に、彼女の「中」が僕の「先端」をきゅうっと包み込む。
「お、おい、ちょっと待って、もうっ……」
「んっ。待たないっ! イっちゃいなよ、ボクの中で!」
シルンドの唇が僕の唇をふさぐ。
ああ、こうなったら、もう、僕は……。
(あっ、出るっ!!)
悲鳴に似た声さえも、シルンドの唇に吸い取られる。
どくどくと、はじける感覚。
身体の奥底に溜まっている、欲望の汁が、
タガを外してはじけ飛んで、受け止められる。
どこに──?
愛しい女の、中に。
「〜〜っ!!」
不意に、身体の奥底から湧き上がる衝動。
僕は、射精の途中だというのに、シルンドの上で激しく身体を動かした。
精を放ちながら、さらに腰を振る。
次の精液、次の次の精液が身体の中でつかえている。
この女の中に、全てを放ちたい。
全身が、それを欲していた。
僕はシルンドの中に、射精し続けた。
シルンドは、僕の動きが止まるまで僕に唇と身体を重ね続けた。

「はぁっ……。ほんと、君って助平だよねぇ……。
わっ、ボクのお腹の中、君の精液でぐちゃぐちゃ」
起き上がったシルンドが、下腹を撫でながらくすくすと笑う。
「……」
なんとなく、言い返すことばもなくて、僕は黙っていた。
シルンドは、何がおかしいのか、笑い続けながら、
僕の性器を薄布でぬぐってきれいにし始める。
そうしたところは、いかにも妻らしい仕草で、
僕は思わずどきりとした。
今さっき、身体中の精液をこの娘の中に放ったばかりだというのに、
気を抜くと、また男の部分が鎌首を持ち上げかねない。
……たしかに、僕は底なしの助平なのかも知れなかった。
くすぐったさと心地よさが半々に混ざった感覚にひたっていると、
シルンドが、下から僕を見上げながらつぶやいた。
「あのさ、さっきの続きだけどね」
「何だ?」
「君、カイゾンに勝てると思うよ」
「そうか。……ありがとう」
「あーっ! その顔、信じてないな!」
表情に出ていたのだろうか、シルンドはほっぺたを膨らませた。
「い、いや、そんなことは……」
あわてて弁解する。
だが、怒ったシルンドは止まらずに、
ぽんぽんとことばを僕に投げつけはじめた。
「要するに、相手の十五倍の味方を用意すればいいんだよ。
君は、カイゾンよりいろんなところで勝っているから、それくらい楽勝だよ!」
「勝ってる? 僕が、カイゾンに?」
思わず聞き返す。
「うん!」
シルンドは嬉しそうに頷いた。
「どんなところが勝ってるんだろう?」
「昨日も言ったじゃん。喰いしん坊で、助平なところ」
「おい」
「後は、怠け者で臆病なところも、だね」
「……おい?」
真剣に聞いて損をした。
僕が、少し怒ったような声を上げると、シルンドはにやりと笑った。
「まあまあ。とりあえず、カイゾンに勝つにはそれだけで十分だと思うよ。
さしあたっては──」
「さしあたっては……?」
「祝宴に行こうよ! そろそろごちそうも並んでる頃だし!」
「〜〜っ!!」
無責任この上ない提案に、さすがの僕も声が出ない。
でも、シルンドは、そんな僕に、にっこりと笑いかけた。
「祝宴で、君のいいところ、頑張ってね!
今日は、「怠け者」で、「喰いしんぼう」なところだよ!」

──そんなものが、本当に「勇者の中の勇者」と戦うための有効な武器になるなんて、
このとき、僕は想像もしていなかった。


僕の大ハーン就任の祝宴。
それは、「予定」では三ヶ月続き、「宴中に何か良いことがあれば」さらに続く。
祝いの席でさらに良いことが起きるのは、瑞兆として喜ばれることだから、
形式好きな老臣たちは、何かしら「新たな大ハーンの門出を天が祝った証」を見つけてきて、
祝宴を半年くらいは引き伸ばすだろう。
それは、決して長い宴では、ない。
タタタールの宴は、年単位に及ぶことさえあるのだ。
実際、初代大ハーンが死に、二代目の大ハーンが就任したとき、「祝宴」は二年間も続いた。
その頃には、まだタタタールが草原の小部族だった頃の風習が色濃く残り、
生前に次期大ハーンを指名しておく後継制度がまだなかったため、
まず大ハーンを決めるクリルタイ(継承会議)が行われた。
タタタールの実力者が統べて集い、様々な駆け引きが繰り返されて、
大ハーンが正式に定まるまで、一年。
その体制と帝国の戦略を決め、各々に染み渡らせるまでにまた一年。
僕の場合は、父上が生前に皇太子に任命し、様々な準備を整えていたため、
タタタールとしては、異例の速さで大ハーン位を継ぐことができた。
だけど、「これから」のことについて皆に伝えるためには、
やっぱり半年くらい時間をかけなければならない。

……タタタールは、他の民族から、「政治のない民族」と思われている。
たしかに外から見る騎馬部族の生活は、
戦争と狩りと放牧と、そして祝宴だけで成り立っているように見える。
だけど、草原の一族、それも支配層の人間は、
十分に「話し合い」と「駆け引き」というものの価値を知っている。
実際の戦いになれば、どうあっても相手を殺し、略奪し、縄張りから追い立てる蛮族。
――だからこそ、決定的な戦いになるまでは、なるべく話し合いと駆け引きで物事を決める。
それが、タタタールだ。

クリルタイや帝国の重大事を決定する会議は、常に「満場一致の賛成」で終わる。
それはつまり、議題に入る前に、すべての有力者に根回しをして、交渉をして、賛同を得て、
正式な会議が始まったときには、全員がハーンの出す決定を支持することで折り合いがついている、
あるいは、つくまで会議を始めないということ。

飲み、食らい、踊り、歌を歌う。
草原の中でめったに会うことのない親戚や縁者と再会の挨拶を交わす。
何事もない、ただの宴と集まり。
その中で、草原の支配者たちは、こっそりと大事(だいじ)を決める。
広大な草原の中、しかも数年も会わないような人間が集まるのだ。
お互いが、莫大な情報を持ち合わせ、持ち寄っている。

誰が嫁取りをした。
どこの湖が枯れた。
どこの部族長がどのハーンに近づいている。
どこに行けば茶葉が安く買える。
どこの品がどこの都市(まち)で高く売れた。
どこのバァトルが誰と仲たがいした。
誰に頼めば、どの部族にうまく取り成してくれる。
誰に赤ん坊が生まれた。
どこの塩が安く手に入る。
どの将軍が、今一番ハーンの信頼が厚い。
誰がどれだけ武器を欲しがっている。
だれが羊の病気に詳しい。
どこの道を通れば今年は砂漠越えが楽だ。
どのハーンが、今、一番強い。

取るに足らないことから、世界を変えうる重大なものまで同じように取り交わし、
自分たちの「立場」を決め、自分たちの未来についてまわりと「折り合い」を付ける。
そして、タタタールの会議前の長い長い「祝宴」は、その「折り合い」をつける場に他ならない。

「――わが軍団は、どこまでも新しい大ハーンに従いますぞ。
ご尊父の代と変わらぬご信頼を」
「ありがとう。よろしく頼む」
背の高い勇者(バァトル)が、僕の杯を受ける。
東北の草原に住む従兄弟で、父上が重用していた将軍の一人。
「もう傷は治った?」
ナイマンタルはちょっと顔をしかめた。
「まさかジャベイが反撃できるとは思いませんでした。私の見立てが甘かった」
そういうつもりで言ったんじゃないけど、
ナイマンタルは、率直に先の戦の失敗を認めることばを口にした。
東北の従兄弟は、この間、カイゾンの武将の一人と戦って敗れたばかりだった。
西の草原の不作で食料が乏しい部族を狙って遊撃していたナイマンタルは、
ジャベイという将軍の一隊を追い詰めた。
相手に倍する軍隊をぶつけて戦ったのだけど、
ジャベイは若いのに恐ろしく強く、食料もないのに、三日三晩戦い続けて
ついにはナイマンタルを打ち破り、手傷まで負わせた。
まるでカイゾンのような、人間離れした芸当だ。
東北の従兄弟は、勇敢で、戦も上手い。
僕の国では十の指のうちに入るバァトルだ。
それが、これだけ有利な状況で勝てないということに、僕はとても驚いていた。
カイゾンの軍隊は、カイゾン本人だけでなく、武将もみんな強い。
食べなくても、眠らなくても、倍の相手に勝てる。
西の草原にいる連中は、みんなバケモノなのだろうか。
「しかし、つくづく先代様の偉大さを実感しますな。
あんな連中を相手に、一歩も引かないなど、並みの人間にできることではありません」
実直な将軍は、ため息をついた。
それから、自分が何を言ったのか気がついて慌てて言葉を継ぐ。
「あ……、い、いや別に大ハーンのことがどうというわけではなく……」
「いいよ、ナイマンタイ。そのことは僕が一番良く知っている」

実際、僕の父上はものすごい男だった、という思いは、
死後、日を追うごとにひしひしと強くなる。
父上は、カイゾンと二十年間争い続けた。
それは、東の農耕地を支配化に収めた経済大国と、
西の草原で鉄騎を駆る軍事強国との、信念と信念との戦いだった。
あらゆるものを飲み込んで世界を統べる大国に変わろうとする父上と、
最強の草原の民であり続けようとするカイゾン。
二人は、タタタールの民の在りようについてどちらも譲らなかった。
大ハーンか、カイゾンか。
偉大なる二人は、タタタールの民に、その選択を厳しく突きつけた。
的か、味方か、どちらか片方。
あいまいは、許されない。
戦は、カイゾンが小さく小さく勝ち続けた。
でも、父上は、それに倍する重圧をかけ、大きく奪い返した。
ナイマンタイの戦のような負け方を続けても、決して挫けず、
ひたすらに戦い続け、物量で圧倒して最後には、カイゾンを戦場から去らせた。
その巌(いわお)のような精神力。
それこそが、バァトルの中のバァトル、<タタタール一の超人>を相手にして
互角に戦っていると誰もが認めた、もう一人の<タタタール一の超人>だった。

「……ま、戦に負けはつき物だからね。
ジャベイだって次に三日三晩戦えるとは限らない。
──みんながみんな、カイゾンみたいな超人じゃないんだし」
僕は隣に座っているシルンドのほうを振り返った。
変な激励をした新皇后のことばに、東北の従兄弟は、毒気を抜かれたようだったが、
やがて、くくくっと喉の奥で笑った。
「ははは、そうですな。確かにそうですな。敵が皆、カイゾンというわけでもありません。
次はジャベイくらいには勝って見せましょう」
ナイマンタルは、にやりと笑ってから退っていった。

「……シルンド」
「何? このお茶菓子なら、あげないからね」
七日前の儀式でタタタール一の貴婦人になったばかりのチビ助は、
すました顔でお茶を飲んでいる。
ツァイとはちがって、茶葉と岩塩だけで入れたやつだ。
タタタールの宴席では、男には酒を、女には茶を出す。
そして大いに食べ、話し、座に興じるのだ。
「いや、なんでもない……」
シルンドは軽く言ったけど、カイゾンのような武将が何人も現れたら大変だ。
「ほらほら、シケた顔してないで。次のお客だよ」
シルンドが指で突っつくので、僕は慌てて椅子の上で行儀を正した。

「おめでとうございます」
「ありがとう」
「おめでとうございます」
「…ありがとう」
「おめでとうございます」
「……ありがとう」
祝いの献上品の目録を受け取り、下賜の品の目録を渡す。
客の一人がゲルから出るとき、緞子が風で舞い上がって、
外に並んだ有力者たちの列が長く長く続いているのを見て、
僕は小さくため息をついた。
まあ、これから半年、これが僕の仕事だ。八日目くらいで飽きて入られない。
──宴席で、美味いものを食べられることは、悪くないことだったが。
「……今の、誰だっけ?」
丸々太った羊を百頭献上してきた部族長がゲルから出て行くと、
僕はシルンドにそっと聞いた。
「は? 君のお祖父様の弟の養子だよ」
シルンドは、ちょっとあきれ顔で、でも即座に答えた。

草原の民は、遊牧の中の暮らしで、世界中の草原を渡り歩く。
そして、結婚は、他の部族から妻を迎える。
だから、タタタールの家系図は複雑怪奇だ。
おまけに、早婚で、有力者は何人も妻を迎えて子供を産ませるから、
親類関係は、ちょっとすごいことになる。
「……お祖父様の何番目の弟だ?」
「……教えてもいいけど、教えたところで、君、思い出す?」
「むむむ」
「……二十三番目の弟。
君の曾お祖父様がジバールから略奪してきた第五夫人が三番目に生んだ人」
「……おー、思い出した、思い出したよ」
「本当に?」
「ほ、本当だよ!」
「……本当は二十六番目の弟なんだけど? 第五夫人が六番目に生んだ人」
「だ、騙したなっ!」
僕は、当然のことながら、末端の親類をよく覚えていない。
僕が見知っているのは、帝国の主だった重臣と、彼らが正妻に産ませた跡継ぎ候補たちで、
分家筋の人間までは、こんなときでなければ顔を合わせたりしない。
逆にシルンドはそういうことについては得意で、
何千人もいる僕の親類をぴたりと言い当てる。
男には男同士の付き合いがあるように、女には女同士の付き合いがある。
そこでいろんなことを聞いておいて、心の中に留めておくから、
誰が誰なのか、どんな奴なのか、よく知っているという。
まあ、親切付き合いなどは、たいてい男よりも女のほうが熱心だ。
これは西のエウロペナから東のチーヌまで世界中変わらない。
「まあ、いいや……。あ。今の人には、こないだチーヌが献上してきた絹をあげたよ」
シルンドはため息をつきながら、そう言った。
「へえ、そんなもん欲しがっているのか。そうは見えなかったけどな」
よく日に焼けた熟練の戦士の顔と綺麗な絹の山とは、頭の中でうまく結びつかない。

「あの人は、四番目の娘さんが婚礼前なんだ。
花嫁衣装に使ういい絹布を探してるって聞いたよ」
「へえ。誰がそんなこと言ってたんだ?」
「パゴ叔母さん。君の父上の三十二番目の──」
「ああ、あの人なら僕でも覚えているよ。あの声のでかい噂話好きの人だろ?」
「そ。三年前、君の母上のお誕生日のお祝いに来て……」
「西のほうの大きな鶏をくれたっけ。あれは旨かった!」
「……食べ物に関することはよく覚えてるんだね」
「そりゃそうさ」
自慢じゃないが、僕は食べ物については熱心だ。
ついでに言うと、宝石だの絹布だのの財宝にはあまり熱心ではない。
多分、シルンドが分け与えたチーヌの絹というのは、
さっきの部族長が献上した百頭の馬の何倍もの価値があるにちがいないが、
僕はあまり気にしていなかった。
大ハーンはその富裕を皆に示すべきだし、
それは現状では、部下を慰撫し、味方を増やす術にもなる、立派な政治手段だ。
──まあ、正直に言うと、絹の布は食べられないから、
丸々太った羊のほうが僕にとって価値がある、ということもある。
「いい物々交換だね」
僕の顔から何を読み取ったか、シルンドはくすりと笑った。
この娘は、誰にどんな下賜品をあげると良いか、考えるのが上手い。
それだけでなく、彼らがどんな部族で、誰とどんな関係があって、
どんなものを欲しがっているのかを、本当によく知っている。
そしてそれを用意し、気前良く与えて、ハーンの評判を上げることができる。
──それは、大ハーンの妻にとって、一番重要な能力であるらしい。

だから僕は、今日、三十八番目に挨拶に来た
──つまり、それほど有力と言うわけでもない部族の長――のときに、
シルンドが献上品を拒んだことにびっくりした。

「……これって、近くの市場で買った羊だよね?」
シルンドは、ゲルの前に連れられてきた羊の群れを指差した。
丸々太った、いい羊。
脂が乗って旨そうだ。
先ほど僕のお祖父さんの二十四番目の弟の養子さんが献上して来た羊にも劣らない。
……あれ、二十七番目だったかな?
どちらにしても、いい羊だ。
「……はい。<上の都>の手前に開いたバザール(市場)で買い求めました」
部族長は頷いて答えた。
この小柄な初老の長がしたことは、別に珍しいことではない。
自分が作ったものや育てたもの、あるいは分捕ってきたもの
つまり、自分の力で得たものを贈るのは良いことだけど、
それが難しいときに、買い求めたものを代わりに贈るのも、非礼ではない。
草原の暮らしは、自然と外的との戦いだ。
いつでも必要なものを必要なときに揃えられるとは限らない。
だから、草原の民は、集まると挨拶と宴会と同時に物々交換を始める。
こうした大宴会が開かれるときに、
同時にまわりでバザールが立てられるのはそのためだ。
バザールには生活必需品から金銀宝石まで、色んなものを扱う商人で溢れかえるけど、
その中でも馬や羊は、贈答品にも滞在中の食料にもなる一番便利で重要な「財産」だ。
商人たちや近くの部族の人間は、馬や羊の群れを連れて集まり、
バザールの裏には大きな牧場を作って遠方からの客と取引する。
地平線の彼方からやってきた部族は、
長旅で痩せた自分の群れの羊二頭と太った羊をバザールで交換して、
挨拶をしに行く相手への贈り物にする。
──そうしたことは草原の民の常識的な行動だった。
だけど、シルンドは、それに異を唱えた。
「これもいい羊だ。すっごくいい羊だよ。
だけど、大ハーンは貴方の群れの羊を献上してくれるともっと喜ぶんじゃないかなあ?」
シルンドは、真っ白な毛をした、大きな羊を眺めながら言う。

「……ざ、残念ながら、今年は西の草原はあまり草が良くありませんので、
私の連れてきた群れからは、ここまで太った羊は揃えられません……」
部族長は目を白黒させながら答えた。
今までの参列者の中にも、この部族長のように
市で献上品を買い揃えてきた人が大勢いるはずだ。
それなのに、ことさらこの人だけにそう言うのは、変な話だった。
部族長の額には、暑くもない季節なのに汗が浮かんでいる。
それはそうだろう。
大ハーンや、その皇后が贈り物を受け取らないことはめったにない。
それは、大変なことだからだ。
献上品が拒まれるということは、相手の恭順を拒絶すること。
(お前は気に食わないから、お前からの贈り物は受け取らない)
そう言っているに等しい。
僕があまり顔を知らない小さな部族長は、
大ハーンの皇后のことばに、顔を真っ青にしていた。
「おい……」
これ以上はかわいそうだ。
実際、西の草原は、ここ二十年来、僕の国とカイゾンとの戦場になって落ち着かないし、
ましてや、今年は草の出来がよくない年だった。
羊を飼うのがうまい男でも、西ではなかなか羊を太らせられないのだ。
部族長が、献上品としてバザールで買った羊を選んだのは、とても当然のことだ。
さすがに、僕は、声をあげかけた。
僕がの羊を受け入れれば、話は丸く収まる。
だけど──。
シルンドが、僕の手をそっと握った。
(黙って聞いていて)
小さな手のひらは、そう言っていた。

別にそういう合図を決めているわけではない。
でも、子供の頃から触れ合って育ってきた相手とは、
ことばがなくても考えが通じ合える。
肌が触れれば、なおさらだ。
だから、僕は上げかけた声を飲み込んだ。
シルンドは、僕にだけわかるようににっこりと笑って、話を続けた。
「……貴方が羊飼いの名人だってこと、聞いているよ。
大ハーンに献上する羊が一頭もないってことはないんじゃないかな」
「こ、皇后様。そうは言いましても……」
「……それに、貴方の娘さんの旦那も羊飼いが上手いんだって?
<大ハーンは、その羊を食べるのを楽しみにしている>よ?」
──シルンドが、何気なく、本当に何気ない調子でことばを続けた。
だけど、部族長は、はっとした様子で顔を上げた。
「娘の夫……ですか?」
「うん。貴方の何番目の娘の旦那さんか覚えてないけど、
たしか誰か、羊を飼うのが上手い人がいたはずだよね?」
「……」
部族長は、黙って何かを考え始めた。
なぜか、僕のほうを見て。
シルンドは、にこにことしてそれを眺める。
やがて、小柄な、初老の部族長は、おずおずと口を開いた。
「……先ほど申し上げたとおり、西の草原の羊はみな痩せております。
私の娘たちの夫の群れも、おそらくは。それでもよろしいので──?」
「うん。ボクらの大ハーンは、とっても喰いしん坊なんだ。
貴方の娘さんの旦那の羊がどんなに痩せてても美味しく食べちゃうよ。
それに、<痩せてる羊は、いい草の生えてる草原で遊ばせればいい>し」
「よろしいのですか?」
「いいでしょ、ね? 大ハーン?」
シルンドは僕のほうを振り返った。

……話が、よく分からない。
よく分からないけど──。
「ああ、うん。もちろん頂くとも。
痩せた羊は、いい牧草地で太らせればいいし、ね」
──よく分からないまま、僕は頷いた。
シルンドの言うとおり、僕は喰いしん坊だ。
だけど、決して好き嫌いはない。
旨いものを食べるのは大好きだけど、贅沢をしたいとは思わないし、
まずいから残すとか、捨てるとか、いらない、とかは考えない。
痩せた羊が食卓に出ても、ありがたく腹に収める。
何より、そういうものも美味しく食べるのは工夫次第だと
いつも僕に言い、それを実践してみせる娘を妻に迎えた男だった。
「決まりだね! ちょっとだけ、待ってあげる。
この羊の代わりに、大ハーンに別の羊で作った大串を献上して!」
シルンドが笑いながらそう言った時、――まわりの廷臣たちが一瞬ざわめいた。

「いったい、何をしたんだ、シルンド?」
部族長が退出すると、僕は一旦休憩を取ると宣言した。
そのまま、シルンドのオルドに入る。
皇后が、取るに足らない部族長の献上品を出しなおすように言った話は、
何か特別な意味があるようだった。
大臣たちがひそひそと相談しあい、シルンドのほうをちらちらと見ているのは、
隣に座っている僕にはよく見えた。
この娘がいったい、何を考えているのか、
何が起こったのか、僕にはよくわからない。
だから、オルドに戻ってすぐに、僕はシルンドに詰め寄った。
「んー? んんー。ボクは何もしてないよ?」
シルンドは、くすくす笑いながら伸びをした。
「何もしてないってことはないだろう。」
「あー、うん。そうだね、君がした。――すごいこと」

「……え?」
「うん。さっき、君、すごいことした。
君のお父上ができなかったこと」
「なんだ、それ?」
シルンドは相変わらず、くすくすと笑っているので、
僕は、彼女が冗談を言ってからかっているとばかり思った。
だから、僕は、腕を振り上げて、シルンドに詰め寄った。
「こら。ふざけるのもいい加減にしろ」
「きゃんっ」
手を伸ばして、ひょいと、担ぎ上げる。
「悪い子は、お尻叩きの刑だぞ」
「や、それは、ちょっ……」
草原の民の子供たちが、一番恐れるおしおきは、お尻叩きだ。
馬に乗れないくらいに、こっぴどく叩かれるのは、痛いし、恐いし、恥ずかしい。
僕も、シルンドも、親からそうやって育てられた。
だから、小柄な娘は、空中で、子供のようにじたばた暴れた。
「ちょ、待って、待って。ボク、ふざけてないよっ!」
「本当に?」
「ほんと、ほんと。それより、せっかくの休憩中なんだから、
ボクのお尻を叩くより、もっといいことしようよ!」
シルンドは、僕に持ち上げられたまま、必死になって言った。
「もっといいこと?」
「うん。君はすごく気に入ると思うな」
「よし、聞いてやろう」
僕は、おそらくタタタール史上一番小さな皇后を地面に下ろした。
まあ、正直、非力な僕は、ちょっとの間シルンドを持ち上げているだけで、
ちょっと腕が疲れてきたので、シルンドの提案をダシに手を休ませたわけなのだけど。
「えへへ。ボクのお尻は、叩くよりも、可愛がるほうがが楽しいと思うよ?」
シルンドは後ろを向いて、豪奢な乗馬袴をずり下げて白いお尻をむき出しにした。
確かに、いい提案だ。

小さなお尻を抱きかかえる。
「あはっ、みんな待ってるから、早く済ませちゃわないとねっ」
大ハーンと皇后がいなければ、祝宴にならない。
「そうだな。まあ、そんなに待たせないだろう」
「君、この体勢ですると早いからね」
僕の腕の中で、腰をくねらせながらシルンドが笑った。
「……お前がもう濡れてるから、準備に時間かけなくていい、
という意味で言ったつもりなんだけどなあ」
「あはっ、それもあるねっ! ボクも、こうやってするの好きだよ!」
テーブルに手を付いて腰をつき出したシルンドに、
後ろから交わるこの体位は、たしかに気持ちいい。
何より、「大ハーンは、お茶一杯を飲む間の短い休憩を取っている」と
みんなが思っているときに、シルンドとこうしてまぐわっていると思うと、
そのいやらしさに、ぞくぞくする。
新しい大ハーンは、こんな短い休憩時間を使ってでも、
皇后に精液をぶちまけなければいられない変態だ。
そう思うと、さらに激しい衝動に駆られる。
後ろを向いたシルンドが、子供のように小さなお尻をしているのも、
僕の中の獣(けだもの)を猛り立てる。
硬くそそり立った僕の男の印を、シルンドの小ぶりな女の器にねじ込む。
「んんっ!!」
潤んだ肉を割って、狭い通路を押し通っていく。
白い小鹿を犯す、野獣。
「んっ……そこ…いいっ……!」
シルンドが喘ぎ声をあげる。
「ゲルの外まで聞こえちゃうぞ」
耳元でささやくと、シルンドはびくん、と身体を震わせた。
「だって……、君の、気持ちいいんだもんっ……!」
背筋のぞくぞくが止まらなくなる、かわいい声。
僕は、シルンドの耳元でささやき続けた。

「僕は聞かれても別にいいんだけどさあ……」
「んっ、ふうっ……?」
「……タタタールの新しい皇后は、こんなはしたない声をあげる、
って皆に知られてもいいのかなあ?」
「そん、なっ……っ」
シルンドの頬が真っ赤になったのは、見なくても分かる。
「あ、でも、ここをこうすると……」
「んくぅっ!!」
深く突き入れると、シルンドは、爪先立ちになって仰け反った。
「お前、これ弱いよなあ」
「いじわ…る……っ!」
シルンドは、必死で声を押し殺そうとしながら、
振り返って僕を睨んだ。
潤んだ瞳が、この上なく綺麗。
喘いで開けた、唇と舌も濡れ濡れとして、
まるで、今僕が蹂躙しているシルンドの女性器のように淫靡だ。
「……」
僕は思わず手を伸ばした。
指を、シルンドの口の中に入れる。
シルンドは、それを吸い始めた。
まるで、僕の男根にするように。
舐め、しゃぶり、吸いたてる。
それは、僕の妻ののもう一つの性器。
シルンドの口を指で犯しながら、僕の興奮は、最高潮に達した。
「んくうっ!!」
「んんっ!!」
シルンドに覆いかぶさって、果てる。
シルンドの中に、精液を注ぎこむ。
僕の指を吸いたてながら、シルンドも、達したようだった。

「んん……えへへ……」
テーブルの上にぐったりと上体を預けながら、
シルンドは、まだ僕の指をしゃぶり続けていた。
「うまいのか」
冗談のつもりで言ってみる。
「ん。なかなか。……これは、馬の肉の匂いだね。
あ、焼リンゴの味もするよ」
……そう言えば、さっきそんなものをつまんだような気がする。
「僕の指は食べ物じゃないぞ」
「んんー。まあ、そうかもね」
シルンドは、舌で僕の指の腹を舐めあげた。
閨で、僕の男根にするのと同じ舌使い。
「――えへへ。食べ物じゃなかったら、君のアレの代わりかな?」
「まったく……」
僕はため息をつきながら、シルンドの戯れに付き合った。
シルンドに触れている指が、温かい。
それは、シルンドの舌の温かさではなく、彼女の、もっと、奥底の暖かさ。
「あのさ……」
「なんだ?」
「君、どう思ってる? この宴会……」
「どうって……」
僕は、耳を済ませた。
ゲルの外で、にぎやかな音がしているのが聞こえる。
僕のいる大ゲルの回りは、もう何十万人と言うタタタールの民が集まっていた。
祝宴はあちらこちらで張られ、皆がそれぞれに飲み食いをしている。
ざわめきと、歓声。
聞こえてくるのは、生きること、楽しむことが生み出す、あらゆる音。
彼らは、もちろん僕の大ハーン就任を祝うために集まってきたのだけど、
あるいは、彼らにとって、新しい大ハーンの誕生など、
こうして集まる口実だけなのかも知れない。

どこかのゲルであがった大きな笑い声が聞こえる。
「……僕らがこうして大ゲルを抜け出しているのも、
みんなには関係ないことなのかもな」
思わず、そうつぶやくと、シルンドはくすくすと笑った。
「みんな、そうだよ。美味しいもの食べて、綺麗なもの来て、
丸々太った羊を飼って、好きな相手と結婚して、元気な子供作って、
美味しいもの食べて、楽しく生きることが好き。そのために人は集まるんだ」
「そうだな」
「──ね、今日は、もう謁見はお仕舞いにしちゃおうよ。
これから朝まで、ボクとこうして遊んじゃおう!」
シルンドは、くすくす笑いを止めることなく、僕の股間に手を伸ばした。
「おいおい……」
たしかに、もう夕刻だ。
八日目になれば、早めに打ち切っても別にかまいはしないけど──。
「ほら、君のここも大賛成って言ってるし!」
シルンドは、また大きくなり始めた僕の性器をさすりながら言った。
……ちょっと反則気味なところもないではないが。
「そうだな。早めに休んでおくか」
「そうそう。明日はきっといいことあるから、早く休もうっ!」
シルンドは、にっこりと笑って抱きついてきた。

そして、僕は、シルンドのその言葉が、本当のことだったことを、朝になって知った。

「大ハーンは、私の羊の肉を受け入れると聞いた。舅(しゅうと)どのから」
大ゲルの前で、献上品――羊肉を焼いた大串を掲げて言ったのは、剽悍なバァトル。
「……私は三日三晩飲まず喰わず眠らずに戦い、あなたの将軍を破った。
チーヌの農地に依存せずに生きる草原の男である私は、それだけ強かったからだ」
僕の国の国是とは、まったく違う道を選んだ、純粋な草原の民。
「……だが、もう一回そうしろと言われても、私は、もうそれを出来ない」
率直な言葉を吐く、眼光の鋭い将軍。
「……私の妻は身重だし、私の羊はこの通り痩せ細って、次の冬を越せないかもしれないからだ」
飢えて、薄汚れ、鋭い牙を持つ狼。
「だから、大ハーンが、東にある牧草地で私の群れと家族を養っても良いと言うのなら、
──私は、大ハーンのためにこの弓を使いたい」
そして、超人ではない家族たちと、家畜の群れを守らなければならない、ただの人間。
僕は、カイゾンの有力な武将──だった男、ジャベイは、
彼の妻の父親である、あの初老の小柄な部族長と並んで僕の前に立っていた。
昨日、僕らの前から去った部族長は、そのまま<西の草原>まで駆け、
娘婿のジャベイとともに夜通し駆けて戻ってきたのだ。
僕は、唖然として二人を交互に眺めた。
頭の中でいろんなことがぐるぐる巡っている。

タタタールの親戚縁戚は複雑で、意外な人が意外な人間の縁者だということ。
長い長い戦いで、西の草原の民は、強くてもお腹が空いていること。
バァトルだって、みんながみんなカイゾンのような化物でないこと。
そして、僕の父上は、カイゾンと同じく厳しいハーンであったから、
カイゾンから離れけど草原の生活から少しでも離れる事を嫌う人間を受け入れることができていなかったこと。
父上が相手ならジャベイは肉を差し出すことはなかったろうし、父上もこの肉を受け入れないだろう。
そして僕は、僕なら──。

「どうしたの? ジャベイの羊肉、食べないの?」
シルンドが、横でいたずらっぽい微笑を浮かべていた。
「……食べるさ。食べるとも」

僕は、ジャベイの掲げた大串を手に取って、かぶりついた。
痩せた、脂身のない肉。
でも、それは──美味。タタタールそのものの、味。
「大ハーンは、ジャベイの恭順を受け入れた!
勇者ジャベイは、これより大ハーンの武将だ!」
僕が羊肉を咀嚼すると、大臣の誰かが、大声で叫んだ。
それはどよめきを生んで周囲に広がっていった。
「大ハーンは、カイゾンから離れる人間を誰でも受け入れるぞっ!」
「大ハーンに味方するのなら、羊も、牧草も、金銀でも、絹布でも、いくらでも与えるぞっ!!」
「ジャベイまで大ハーンに膝を折ったのだ、続け、続け!!」
声は、途中で、様々なことばを付け加えられて広まって行く。
それは、間違いではない。
ジャベイが差し出した肉を食べるということの意味を、
僕は、胃の腑でようやく理解した。
「シルンド……」
振り返ると、僕の素敵な皇后は、くすくす笑いを止められずにお腹を抱えていた。
「さあ、大変だよ。大ハーン様。
何しろ、君はこれから、たくさんたくさん、痩せた羊を食べなきゃならない。
羊が痩せて困っているから、カイゾンから君に鞍替えしたい兵士、
君に痩せた羊の肉を差し出して、代わりに牧草と財宝を貰いたがっている兵士は、
いっぱいいるだろうからね!」
「そうだな……。たぶん二十万人のうち、十五万人くらいは、だろ?」
「あははっ、ご名答!」
シルンドは、ひときわ大きく笑った。
「――でも安心していいよ。ボクは料理が得意だからね。
脂が少ない硬い肉でも、君においしいものを食べさせられると思うよっ!!」
「……そうだな、うんと旨く料理してくれ」
「まかせてっ!!」
僕の奥さんは、ぐっと拳を握って宣言した。



──史書にある。
ジャベイの離反を機に、厳しい草原主義者であるカイゾンから、
多くの兵と部族が、中庸な大ハーンに身を寄せた。
東の農地から多くの食料を取り寄せられる大ハーンと、
昔ながらの草原遊牧しか生産手段を持たないカイゾンとでは、
経済力の大きな差があり、それは、<西の草原>の牧草不作の年にはっきりと現れた。
大ハーン側に寝返ったその数は、カイゾンの勢力の実に四分の三に及んだという。
大ハーンの兵力は七十五万となり、カイゾンの兵力は五万となった。
そして、両者は、はじめて激突した。



「ダメだね。絶対ダメ」
シルンドは、ツァイを注ぎながらあっさりと言った。
「――ダメって、そりゃどういうことだよ」
さすがに僕は詰め寄った。

シルンドは、――賢い。
それも、とんでもなく。
この小柄で料理が上手い娘(こ)が、わずかな言葉で成し遂げたこと。
それは、タタタールの趨勢を変えてしまうほどのものだった。
ジャベイの随身をきっかけに、カイゾンの勢力の大半が僕の側に寝返った。
敵から兵力を奪って、味方の兵力を増やす。
言葉にすると簡単だけど、
二十年前に袂を分かった草原の西と東の民は、決して相容れない存在だ、という「常識」は、
並み居る将軍たちも、参謀たちも、大臣たちも、つまり、帝国きっての知恵者たちが誰も疑わなかった。
シルンドだけが、それを疑った。
「西のタタタールの人たちが、ずっとお腹を空かせたままでいられるなんて信じられないよ。
だって、ボクと同じ、タタタールの人間なんだよ?」
厳しい自然の中で、辛抱と我慢と自律を身に付けた強靭な草原の民。
少ない食料と少ない水で勇猛に戦い続ける、僕らよりも純粋な遊牧の戦士。
だけど、彼らだって、永遠に空腹と窮乏に耐えられるわけではない。
牧草が生えなければ、草原から離れることも考える。
そんな当り前なことを、僕らは──そして、カイゾンたちも見落としていた。
シルンドだけが、それに気がついていた。
今、彼女がそうしているように、手際よくツァイと軽食の準備をしながら。
──頭の中は、食べることとむつみ合うことだけでいっぱい。
そんな僕の皇后が、世界中の賢者を集めたよりも賢いということに、僕は遅まきながら気がついた。
だから、シルンドの反対に、僕は戸惑っていた。
シルンドは、僕とカイゾンとの決戦に不賛成だった。

「七十五万と、五万。十五倍集まったんだよ?」
「うん。集まったね。――でもダメ」
岩塩を削り入れながらの、にべもない返事。
「だけど、カイゾンと戦わないわけには行かないだろう」
僕は、ゲルの中を歩き回りながら言った。
戦うべき刻(とき)――戦機というものがあるとすれば、それは今だった。
雪崩を打って僕の側に寝返った西の草原の部族たちは、
僕の国が国庫を開いたことで、一息つくことが出来た。
十五万の兵は、その三倍の数の家族と同行している。
急に増えた六十万人もの人間に食料と水とフェルト(羊毛の布地)を行渡らせたのは、
大臣たちの昼夜を問わない働きと、父上が蓄えた富のおかげだ。
だけども、長引くとやはり無理が生じる。
東の草原は牧草の出来はいいけど、チーヌの農業地帯に接しているので、
広大な西の草原よりも、面積はずっと狭い。
いつまでも六十万の難民を留めてはおけないのだ。
そして食べる物があっても、それだけでは草原の民は生きていられない。
食料と、広い草原。
前者は、僕が持っている。
だけど、後者はカイゾンが抑えたままだった。
だから、僕は、僕を頼ってきた飢えた戦士に食べ物を与え、士気があがった今この瞬間に
カイゾンを倒して西の草原を手に入れなければならなかった。
今、戦って勝ち、草原を手に入れれば、次の年の牧草が生えるまでの間、
東から食料を送ることで、みんなを支えることができる。
逆に言えば、今戦わず、草原を手に入れられなかったら、
西からの難民たちは、狭い牧草地に閉じ込められたことに不満を持ちはじめる。
次か、次の次の年には、またカイゾンの側に寝返ってしまうだろう。
七十五万対五万と言う戦いは、数字以上に不確定なもの。
「第一のハーンと、第二のハーンは、互いの首を見るまで戦い続けなきゃならない。
その意味がやっと分かったよ」
カイゾンも、僕も危うい橋の上で戦おうとしているのだ。

決戦。
カイゾンと、僕との。
それは、今、この瞬間にやらなければならないものだった。
だけど、シルンドは──それに反対している。
「――だからね。カイゾンと戦うことを止めてるんじゃないんだよ」
小さな皇后は、出来上がったツァイを僕にすすめながら言った。
「じゃあ、何が反対だって言うのさ」
「君が、戦場に出ること」
シルンドは、あっさりと言った。
「僕が、戦うこと?」
「うん。君は、絶対ここから出て行っちゃダメ!」
シルンドは、そう言って立ち上がった。
手を腰に当てて、薄い胸をぐっと張る。
絶対引かないときの、意思表示。
めったにないシルンドのその姿に、僕はびっくりして後ずさった。
「そ、そういうわけには行かないよ!」
気おされながら、僕は譲らなかった。叫びながら、オルドを飛び出す。
「絶対ダメ! 絶対の絶対だよ!」
シルンドの声が、僕の背中にぶつかった。

「――と言うわけで、シルンドは僕の親征に反対なんだ」
「ほう」
「……」
ナイマンタルは腕組みをし、ジャベイは黙ってこちらを見ている。
僕の国の本軍と、カイゾンからの離反軍を代表する二人の将軍を呼んだのは、それを相談するためだった。
ナイマンタルは、本軍で首席の将軍と言うわけではない。
ジャベイにしても、元カイゾン軍は、後からもっと大物が参加してきている。
だけど僕が意見を聞く相手としては、それぞれの軍で一番信頼できる将軍だ。
複雑な派閥にこだわらず、率直な意見を言ってくれる、経験豊かなバァトル。
それは、今、僕にとってシルンドの次になくてはならない相談相手だった。

「――カイゾンとは今、戦わなきゃならない」
「そうですな。是非そうするべきですな」
「戦うのは今しかない」
即答。
本軍の麒麟児も、離反軍の狼も力強く頷く。
「楽観は出来ないけど、ようやく勝負になる戦力になったと思う」
「然り。まさしく、然り」
「その認識で良いと思う」
これまた即答。
背の高い東北の従兄弟も、剽悍な戦士も迷うことなく賛成した。
今、僕の新旧軍団長でもっとも信頼できる二人が、
同じ考えであることに、僕は自信を持った。
だから、僕は、さらに言葉を続ける。
「僕は、カイゾンと決着をつける。大ハーン親征だ」
「――」
「……」
だけど、ナイマンタルも、ジャベイも、応、の返事をしなかった。
黙って、宙を見詰めている。
「どうしてさ! どうしてダメなんだ!」
僕は、爆発した。
説明を求めて叫ぶように、言い立てる。
「七十五万だよ! 七十五万全軍で戦わなきゃならないんだよ!」
「……全軍ですな。全軍をもって戦わなければ勝てない相手ですな」
「……全てを振り絞って、はじめて勝ち目が生まれてくる」
「だったら! なんで大ハーンの僕の親征じゃないんだい?!」
「それは──」
「……」
「僕の国が、全軍をもって戦う決戦で、大ハーン以外の誰が指揮官になれるのさ?!」
答えは、ない。
ナイマンタルも、ジャベイも、沈黙したままだった。

これが、七十五万でなければ、僕もこんなことは言わない。
大ハーンであっても、僕は戦争の素人だ。
だけど、これは、文字通り、僕の国とカイゾンの国とが全てを振り絞った決戦だ。
僕と、カイゾンの決戦。
僕が戦場に出なくてどうするというのだ。
「それに、僕じゃなかったら、誰が総大将になるのさ?!」
七十五万は、文字通り、全軍。
首都を守る近衛兵と、各地の駐屯軍を除いた全兵力を、
誰かに与えたとしたら、――それは、謀反の可能性を秘める。
出撃した将軍が、もしカイゾンと結んで反転してきたら──僕の国は、一瞬で終わる。
「総大将ですか、それは──」
ナイマンタルは、苦しそうな表情になった。
ジャベイは、押し黙ったままだ。
「誰なのさ?!」
僕は、二人に詰め寄った。
「そ、それは……」
「聞くところでは、ザマバ殿下ということだな」
口を濁した東北の従兄弟が救いを求めるように横目で見ると、
元カイゾン軍の剽悍な戦士がずけり、と言った。
「ザマバ……か」
僕は、続いて喉からもれそうになる声を必死で押し殺した。
(――ジャベイ、ナイマンタル、君たちまであいつを選ぶのか!)

ザマバは、僕の異母兄だ。
僕に倍する才能を持つと言われた、つまりは、「やや有能」な男。
実際、幾つかのことはそつなくこなし、あとのことはごく普通な彼は、
大ハーンの後継者候補に上がったこともある。
早い段階でその話が消滅したのは、僕が父上の正妻から生まれた嫡子であり、
さらには僕自身がシルンドを妻に迎えていたこともあって、
三代続けて皇后を出し、帝国内で隠然たる勢力を持つ母方の一族の圧倒的な支持を得ていたことによる。

「多少の能力の差なら、主流派が支持している皇子を後継者に据えたほうが穏当」
そういう保守的な空気は、大帝国の上層部というものに流れているもので、
結局のところ、ザマバは、それを覆すほどの才能と実力の持ち主ではなかった。
僕が正式に皇太子に決められた瞬間、ザマバは(少なくとも彼と彼の支持者の間では)、
「悲劇の皇子」になり、僕に次ぐ勢力、つまり僕の反対勢力の領袖となった。
家柄、年齢、それに支持者の数――そうした様々な要素を足し算していくと、
ザマバは僕の帝国の「二番目の男」となる。
つまり、僕が皇帝親征をしなければ、その総大将はザマバが就くしかない。
そして、そうしたときに、この異母兄がカイゾンと結んだり、
あるいはカイゾンを倒した後で、軍権を返さずに反乱を起こしたりする危険性はおおいにあった。
ザマバは、僕と同じ、先代大ハーンの息子だ。
僕さえいなければ、あるいは、僕よりもっと大ハーン位にふさわしい「英雄的な男」と皆に認められれば、
彼が新しい大ハーンになってもおかしくは、ない。
そして、「バァトルの中のバァトル」カイゾンを倒すことほど、
「英雄的なこと」が、このタタタールの草原にあるだろうか。
「……ザマバが、カイゾン討伐に立候補しているのは知っているよ!」
僕はいらいらとゲルの中を行ったり来たりしながら言った。
叫ぶような声が裏返っているのが自分でも分かる。
耳障りな声に、さらに自分に苛立つ。
「あいつは、今頃になってそんなことを言い出したんだ!」
──自己嫌悪。
「今までずうっとそんなことを言わなかったのに、今になって急に!」
──自己嫌悪。
「味方が七十五万になって、相手の十五倍になって、カイゾンに勝てそうになってから!」
──自己嫌悪。
ザマバが考えていることは、僕と同じだった。
勝てるならば、カイゾンと戦いたい。
カイゾンに勝って、英雄になりたい。
ザマバも僕も、そう考えていて、だから僕は、なおさらザマバに総大将の座を与えられなかった。

「――ふむ。ふうむ」
ナイマンタルが腕組をして天井を眺めた。
「……」
ジャベイは、こちらも腕組をして机の上の地図を見詰めている。
どちらも、僕の声に答えることばを持っていない、
二人の将軍はそんな感じで、僕は、それが痛いほどにわかった。
「……なぜ、僕ではダメなんだい?」
僕は、自分でも情けなくなるような小さな声で聞いた。
「……答えづらいですな。非常に答えづらいですな」
東北の従兄弟は、ひげをいじくりながら目を逸らした。
「……臣下の身ではうまく返答できないこともある」
西の草原の剽悍な戦士は、憮然として言葉を吐き出した。
「そうか……。結局は、僕が無能と言うことなんだな。
僕が総大将では、カイゾンに勝てない。そういうことなんだろ?」
ザマバは、将軍として、僕より幾分はましだ。
少しでも勝てる要素があるほうを選びたいというのが、決戦に赴く戦士の本音なのだろう。
「……それは……」
「……理由はそうである。だが、そういう意味だけではない」
ジャベイは頭を振りながら言った。
ナイマンタルが失礼な降将に、おい、と掴みかかろうとしたが、
途中で同じように頭を振って椅子に座り込んだ。
「うまく言えない。が、大ハーンは、戦場に来てはいけない」
「……そうですな。ジャベイが言うとおりですな。
うまく言えないのですが、大ハーンはこの都にいるべきです」
「そうか……」
僕は、がっくりと肩を落としながらつぶやいた。
「僕と、ザマバではそんなに違うのか。何が違うというんだよ……」
カイゾンと比べられて無能扱いされるならまだ納得が行くが、
身近なライバルとの差を見せ付けられると、止めようもない虚無感が僕を襲った。
だが、その言葉に、二将軍は反応した。

「……違いますな。たしかに違いますな」
「なるほど──」
二人は互いの顔を見て、頷きあった。
「なんだ、どうしたんだ」
「いえ、気がつきましてな。大ハーンの強みを。ザマバ殿下とも、カイゾンとも違う、強みを」
「強み……、違い……?」
「大ハーンには、皇后がいる」
「なんだ、そりゃ。ザマバだって夫人くらいいるよ。
カイゾンにだっているだろう。たしか、四人か、五人くらい」
「そうではありません、そういうことではありません」
「ああ、実家のことか。そりゃシルンドの実家ほど勢力があるところは……」
「違う。そんなことではない」
「だから、なんだって……」
二人は顔を見合わせ、そして立ち上がって言った。
「お戻りください。オルドにお戻りください、大ハーン」
「皇后なら、うまく説明できるだろう」
「だって、シルンドは、僕に戦うなって言うんだよ!?」
僕は口を尖らせて反論しようとした。
でも、二人の将軍は、巌のような胸を張って言った。
「皇后様は、あなたの味方です。誰よりもあなたの味方です」
「そして、あれほど賢い人間はどこにもいない。
――それが大ハーンとザマバ殿下、そしてカイゾンとの違いだ」
「それはわかっているよ、でも──」
僕は、言いかけて、二人の将軍を言い負かす理(ことわり)が自分にない事を知った。
シルンドは、何を言おうとしていたのだろうか。
「大ハーン、あなたは大ハーンです」
「そして、カイゾンに勝てる武器を持っている唯一の大ハーンです」
「……!!」
それは、シルンドが閨(ねや)の中で言ったことだった。

そうだ、あの時、シルンドはそう言った。
僕は、カイゾンに勝っているところがあるって。
──喰いしん坊で、怠け者。
そんなものが武器になるはずがない、僕はそう思った。
だけど、現実に、僕は、その二つの力で、カイゾンから十五万の兵力を奪った。
あの父上でさえ、できなかった芸当だ。
怠け者の僕は、僕の国の国是にあまり肯定的でない西の草原の人々を厳しく追及することなく受け入れ、
喰いしん坊の僕は、彼らの差し出す痩せた羊肉を喜んで受け取った。
あいまいな迎合は、ごくたまに懐の広さと同じ働きをする。
そう、確かに僕は、カイゾンを上回ることをやってのけた。
それは、シルンドが見つけた僕の「いいところ」。
──彼女は、まだ他に何か言っていたはずだ。
僕の「いいところ」を他にも見つけてくれていたはずだ。
カイゾンに勝ってるところ。
カイゾンに勝つ武器。
なんだっけ。
……なんだっけ。
…………なんだっけ。
僕は立ち上がった。
もどかしい。
それを思い出せないことがもどかしいんじゃない。
今、シルンドが僕の隣にいないことがもどかしいんだ。
シルンドが隣にいて、ツァイを淹れてくれて、笑ってくれて、
ご飯を作ってくれて、話しかけてくれて、口付けをしてくれて──。
「――オルドに行ってくる」
僕のことばに、ナイマンタルとジャベイがどんな表情になったのか、
そんなことも確かめることなく、僕は大ゲルを飛び出した。

「やあ。そろそろ戻ってきてくれる頃だと思っていたよ」
シルンドは、飛び込んできた僕に笑って見せた。
「シルンド……」
「まあ、座りなよ。ボクの大ハーン様。馬乳酒を温めておいたんだ」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
「チーズとヨーグルトもあるよ?」
「あ、あのさ……」
「西のブドウと、東のライチ、どっちがいい?」
「……両方」
僕はシルンドの前に座った。
「はい」
シルンドが馬乳酒を注いでくれる。
「ん……」
馬から作った酒は、甘くて酒精が薄い。
水の代わりに飲んでも大丈夫な、タタタール人の飲み物。
同じく甘い果物にはあまり合わないというけど、僕は結構好きだ。
干ブドウを口に放り込んで、馬乳酒で流し込む。
シルンドは、ライチを齧りながらお茶をすすった。
うん。温かいものをお腹に入れて、少し気分が落ち着いた。
聞かなきゃならない事を、聞く。
僕は深呼吸をして、口を開いた。
「あのさ……」
「何?」
「教えて」
「何を?」
「僕が、カイゾンに勝っているところって何?
いや、それより先に、……なんで、僕が戦いに出ちゃいけないのか」
「あ、それは簡単。――カイゾンは、君よりずっと強いから。
君が戦場に出たら、君は殺されちゃうかもしれないでしょ?」
シルンドはあっさりと言い、僕は絶句した。

「殺されるって……」
確かに考えてはいた。
カイゾンの兵は五万まで減った。
でも、それは、どんなに不利になっても、カイゾンが生きていれば、
最後まで「バァトルの中のバァトル」について行く、最強の戦士たち。
僕の軍隊は、七十五万を集めてはじめて互角。
それはわかっていた。
でも、七十五万。
七十五万の兵士がいるんだぜ。
いくらなんでも、総大将の僕が死ぬなんてことは──。
「……っ!!」
不意に、それは、鮮やかに僕の脳裏に描かれた。
崩れていく陣形。
蹴散らされる味方の軍団。
寄せ集めの士気の低い兵団は、死に物狂いのカイゾンの親衛隊に気おされてずるずると下がって行く。
決戦は、七十五万を使い切って、僕の本隊とカイゾンの本隊の間で行われる。
そして、僕の前に、黒い大きな馬に乗った魔神のようなバァトルが現れて──。
「うん。君、死んじゃう。半々の確率で。
だから、ボクは、絶対に君を戦場に行かせない」
シルンドは、僕の杯に馬乳酒を注ぎながら言った。
僕は、自分の喉がからからに乾いているのに気が付いた。
慌てて杯をあおる。
「で、でも、半分は勝つってことだろ……」
そうだ。
英雄は、そんな死地を乗り越えて偉業を成すから英雄になれるんだ。
僕の父上も、カイゾンも、そうやって万人が認める偉大な男になったのだ。
僕だって──。
「――残りの半分は、絶対に死んじゃうんだよ?」
シルンドは、僕の目を見ながら言った。

血が凍るような恐怖。
そうだ。
戦場に出て、負けたら、死ぬ。
単純な話だ。
「で、でもさ……。僕が行かなきゃザマバが総大将になって……」
「君が勝つ」
「なんで! なんでザマバなら勝てるのさ!」
僕は思わず叫んだ。
僕よりわずかに優れた異母兄への嫉妬。
それが、僕に喉から絞ったような声を上げさせた。
「ちがうよ。勝つのは、君。
――君以外の人間が総大将になるなら誰がなっても同じで、絶対に、君がカイゾンに勝つ」
シルンドは、真っ直ぐに僕の目を見詰めながら、そう言った。
「なんで……どうして……」
「君以外の人間が総大将になっても、カイゾンは五分五分でその人の首を刎ねる。
でも──その時には、カイゾンの五万の兵隊は全滅している。
君の七十五万の兵隊を切り進んで、カイゾンが本陣に迫る間に、ね」
「……!!」
シルンドの表情は、水のように静かだった。
「今、カイゾンのもとにいる五万は、最後の最後に残った最強の兵士。
カイゾンの一番の支持者。カイゾンのために、文字通り死に物狂いで戦う信者。
──それは失えば、二度と手に入らないんだ」
「……」
「でも、君の七十五万は、烏合の衆。時間がたてば、十万でも二十万でも集められる。
ううん。一万でもいいんだよ? たったの一万人で。
もしカイゾンが勝ったあとで戦場から逃げても、追いかけて、殺しちゃえばいい。
カイゾンがいくら戦争が強くたって、たった一人で一万人相手に勝てない。
だって、それは、もう戦じゃなくて、狩りだもん」
「……」
「だから、君が戦場に出なければ、……カイゾンは絶対に君に勝てない」

「……」
「逆に言えば、カイゾンが君に勝つ方法は、ひとつだけ。
戦場で君を殺すこと。君さえ殺せることができれば、
たとえ軍が全滅していても、大ハーンは一人だけになるからね。
誰かがカイゾンにひれ伏し、――まわりの皆もそれに従って、おしまい」
「……」
「だから、カイゾンが勝つのは、君が戦場に、
──カイゾンの弓の届くところに現れたときだけ」
「……」
「だから、ボクは絶対に君を戦場に行かせない。
だって、君はここにいる限り絶対に負けないんだから」
「シルンド……」
「総大将になった人がカイゾンと手を組むとか、
君に反乱を起こすとかは考えなくていいよ。
ボクらの国は、結局カイゾンと相容れない──兵隊だって同じことさ。
それに、起こったら起こったで、反乱者より、大ハーンの君のほうが絶対有利さ」
「シルンド……。シルンド……」
僕は喘いだ。
空気を求めて、ぱくぱくと口を開けたり、閉じたりする。
ナイマンタルも、ジャベイも僕に言わなかったはずだ。
これなら、絶対にカイゾンに勝てる。
だけど──。
「シルンド、僕に卑怯者になれって言うのかいっ……?!」
それは、正確には卑怯とは言わないだろう。
だけど、英雄的ではないことは確かだ。
僕が、この方法でカイゾンに勝ったら、皆はどう思うだろうか。
今生きるタタタールの人間も、これから生まれてくるタタタールの人間も、
あるいは、世界中の人々が、ずっとずっと後の世の人々までもが、
きっと僕のことを、凡庸な、つまらない男だと言うだろう。

史書は、――僕の父上のことを書くだろう。
偉大な大ハーンとして。
カイゾンのことを書くだろう。
「バァトルの中のバァトル」、タタタール史上最強の男として。
あるいは、カイゾンの戦った決戦の相手として、ザマバのことも書くかも知れない。
でも、僕のことは、小さく、一言だけ。
「凡庸な四代目の大ハーン」。
確実に勝つということは、そういう道を選ぶということ。

「……そうだね。ボクは、そう言っているのかもね」
シルンドは、僕から視線をそらし、ライチを手にとった。
ほっそりとした指が茶色い皮をむいて、白い瑞々しい果肉を取り出す。
爪で切れ目を入れて、中の黒い大きな種を外す。
彼女がそれを自分の口の中に入れるのを、僕は黙って見つめた。
──不意に、シルンドが僕に抱きついてきた。
唇を重ねる。
ライチの甘い果汁と、もっと甘いシルンドの舌が、僕の舌を奪う。
互いの唇を貪り、唾液とライチを分け合って飲み込んだとき、シルンドは、ぽつりと言った。
「――でもさ。ボクは、死んじゃうかも知れない英雄の君より、
絶対に生きていてくれる普通の君のほうがいいな」
震える肩。
「――英雄なんかじゃなくったって、卑怯者だって、ボクは、君のことが大好きだよ」
細い、小さな、首筋。
「ボクの料理をおいしいおいしいって食べてくれて、ボクのことを可愛いって言ってくれる
普通の、普通の、生きている君が、――ボクは一番大好きだよ」
僕の腕の中の、華奢な、華奢な娘。
僕は、ただ黙って、それを抱きしめているだけしか出来ないでいた。

……いつから、「英雄になりたい」と思ったんだろう。
ずっと昔からかな。
偉大な父上に比べてずっと無能な僕は、皇太子になってからも、
父上や、その好敵手のカイゾンのようになりたいと思っていた。
いや、やっぱり最近のことかな。
カイゾンに、あのカイゾンに勝つ可能性が出てきたとき、
僕は、自分が英雄になれるかもしれないことに興奮した。
タタタール一のバァトルを倒せば、僕がタタタール一。
史上最強のバァトルを倒した、もっとも偉大な大ハーン。
タタタール一、ということは、つまり世界で一番ということ。
タタタール史上最高ということは、つまり世界史上最高ということ。
どの時代、どの場所の英雄よりも、はるかに偉大な大ハーン。
──みんなが、ため息と苦笑交じりで語る僕。
──十日に一回は落馬して、三回に一回しか動かぬ的に当てられない愚図。
そんな僕を変えたいと思ったのは、その機会が目の前に現れたときだったのかも知れない。
今。
今しかないんだ。
確率は、半々。
負けるかもしれないけど、死ぬかもしれないけど。
勝てば、僕は──。
「……シルンド」
僕は、深呼吸しながら、言った。
決心は、もうついていた。
世界で一番価値のあるもの、それを、僕は掴む。
掴め。
手に入れろ。
他の物は、すべて捨ててもいい。
それには、その称号にはそれだけの価値がある。
「……シルンド。僕のいいところはなんだっけ?
喰いしん坊で、怠け者の他に何かあったはずだよ」
僕の腕の中で、シルンドが目をいっぱいに開く。
「……臆病で、助平なところ……」
「そうだな。僕は、臆病で助平だ。
──だから、カイゾンとの戦いが終わるまで、ずっとここにいる。
このオルドの中で、シルンドとむつみ合って過ごすよ……」
「……!!」
シルンドが、僕に抱きついてきた。
賢くて、華奢で、料理が上手くて、抱き心地が良くて──最高の娘。
「シルンドの夫」という称号には、英雄よりも価値がある。
臆病で助平な僕は、絨毯の上にシルンドを押し倒して裸にむいた。
シルンドが声をあげて僕を迎え入れて、――長い長い間、僕らは交わり続けた。

「――起きろ、寝ぼすけ! もう朝だよ!」
シルンドが、手に持った鍋をナイフの背でがんがんと叩く。
鉄でできた丸い鍋は、チーヌからの献上品で、色んな料理が作れる。
朝、こうやって叩いて音を出して、僕を起こすこともできる優れものだ。
「うう……あともう少し……」
「ダメ、ダメ! もう朝ごはんが出来てるよ! 今朝はごちそうなんだから!」
「何っ!」
僕はがばっと跳ね起きた。
「まったく。ほんとに君は喰いしん坊だね」
「うるさい。僕は、これで国を一つ獲ったんだ」
誰も誉めてくれないけど、――それは事実だった。

結局、僕がオルドの中でシルンドと睦みあっている間に戦いは終わった。
カイゾンは、百の草原の歌ができるくらいに雄々しく戦い、
僕が総大将に任命したザマバを射殺すという奇跡を起こして逃げ延びたけど、
戦場で誰が放ったかわからない矢を受けて、その傷がもとで数日後にあっさりと死んだ。
悪夢にまで見た「バァトルの中のバァトル」の実物を、
僕は生きているうちに一目も見ることもなかった。
塩漬けになって届けられた首はとても大きかったけど、それを見てもあまり感慨はなかった。
──僕は、何もせずに勝ち、そして何もしなかったから、誰にも認められなかった。
……いや。
「矢の届かない場所にいる大ハーンは、カイゾンでも殺せません。
自分の弱さを知っている大ハーンは……強いですな。一番強いですな」
朝食の席でナイマンタルがひげをひねりながら言った。
「そんな大ハーンは、誰にも勝てなくても誰にも負けない。
そして、勝たなくても、もうタタタールの七分の四を手に入れているから
これからは、負けないでいることのほうが恐ろしい」
ジャベイが、顎のあたりを掻きながら言った。
二人は、戦争の後片付けが終わって、それぞれの牧草地に帰る日だった。

ナイマンタルは、領地の東北へ。
ジャベイは、今年は草が良く生えているという西の草原へ。
出発の日に、彼らを招いたので、今日の朝食は特別豪華だった。
将軍や大臣たちの中で、僕のことを「大ハーンとして」以上に認めているのは、この二人だけだった。
カイゾン討伐で戦功を挙げ、今では本軍と元離反軍のそれぞれの主席に立った二人が
そう考えてくれているのは嬉しいけど、実際のところ、それは買いかぶりなのかも知れない。
結局、僕の価値は──。
「リンゴを焼いたよ! 食べる? 食べる?」
「い、いえ、もういっぱいですな。腹いっぱいですな」
「これ以上は、……無理だ」
「なんだい。せっかく作ったのに……」
「あ、僕は食べるぞ。二皿よこせ!」
「やったね!」
自慢の料理をおいしく食べてくれる相手に、シルンドは飛びっきりの笑顔を見せてくれる。
僕に、僕だけに。
シルンドに、その笑顔を向けてもらえる男というのは、
きっと「歴代史上最高の大ハーン」と言われるよりも価値があるにちがいない。



──史書にある。
タタタール帝国第四代大ハーン、テマルテマルは、美食と閨事を好む凡庸な皇帝だと。
実際、彼の治世には政治制度的にも見るべきものはほとんどなく、
その初期に<カイゾンの反乱>が自然消滅的に終息したことをのぞけば軍事的にも大きな事件は起こらなかった。
テマルテマルの時代は、先代大ハーンと、次代大ハーンの偉業に挟まれた、
史学的にはあまり重要でない二十年間であったと言える。
──にもかかわらず、いわゆる<パックス=タタターリカ>、
すなわち「タタタール人によってもたらされた二百年間の草原交易路の平和」は、彼の時代から数えるのが普通である。
テマルテマルは、熱狂的にはないにせよ、東西タタタールの両者の支持を得てこれを統一して、
「西はエウロペ、東はチーヌの食材が並ぶ大ハーンの食卓」を作り上げたし、
オルド(後宮)政治においても、多くの私生児を生ませて後継者争いを招いたそれまでのタタタールの支配者と違い、
皇后シルンドだけを寵愛して、彼女に生ませた長子バイシャンに早々に譲位することで、
タタタール特有の後継時のごたごたを未然に防いでいる。
最近の研究では、チーヌを征服して帝国の礎を築いたホブライ=ハーンの時代と、
残る三ハーン家を統合して真の世界帝国を作り上げたバイシャン=ハーンの時代は、
あらゆる点で大きく性格が異なっているが、その鍵となるのは、
実はテマルテマル=ハーンの時代ではないか、と言う説も生まれているが、
真相の解明には、なお慎重な研究が必要であろう。



FIN