「オグチンには、南チーヌの黄金を一袋。
マバルには、馬を五頭、駿馬を。トグには、羊を八頭」
<贈り物>を選別する声に、迷いはない。
貴婦人は、年老い、もう目もほとんど見えなくなっているはずだが、
明晰な頭脳にはいささかの衰えもなかった。
(当然だ)
女主人のことばを筆記しながら、侍女頭のムールンはそう思った。
(ゾルガグタ様は、ホンバギト氏族で最も賢い女ですもの)
それは、つまり、「西の果てから東の果てまで、馬の走れる陸地の間の中で一番賢い」と言うこと。
草原でもっとも知恵がある賢者の一族は、
その頭脳を買われて代々の大ハーンの正妻を出すことを決められている。
いや。
タタタールが草原を統一し、さらに世界を征服したのも、
もとを正せば、初代の大ハーンがホンバギトから妻を迎え、
さらには息子や孫にもそうするように決めたからだ。
ホンバギトの知恵を見出し、それを一番身近に受け入れたからこそ、今日のタタタールの繁栄がある。
──侍女頭はそう思っていたし、またそう考える人間は多かった。
ムールン自身も、一族の女の中でも博覧強記で知られていたし、
大ハーンお抱えの学者たちが舌を巻くほどに賢い。
次の世代の<お后候補>の一人に挙げられたこともある。
(それでも、その自分でさえ──)
到底、このお方の知恵には及ばない。
結局<お后候補>の選定からは漏れ、ゾルガグタの侍女を務めるようになってから、
つくづくと、大帝国を動かす人間の力と言うものを知った。
たとえば、今。
こうして自分が書きとめている<贈り物>の一覧さえ、
世界を動かす重要な「要素」の一つなのだ。

皇太后。
すなわち大ハーンの母親。
タタタール最高位の貴婦人。
そんな人物が、何かの折にまわりの人間に下賜する物は、大変な政治的な意味を持つ。
あるいは、大ハーンその人からの贈り物よりも意味を持つ場合さえあるのだ。
(だから、――ゾルガグタ様は、それを慎重に選ぶ)
そして、その選定を間違ったことは一度もない。
「……ヒヤン=ガグには、珊瑚を二つ。コルガン=ガグにも、珊瑚を二つ。
四つの珊瑚は、同じ大きさにしておくこと」
争いごとが耐えないガグ兄弟への贈り物を決めるときも、
老婦人のことばに淀みはない。
それから、一言添えるように、
「……二人とも、年頃の娘がいますからね」
と続けたのは、ムールンへの説明だろうか。
侍女は、顔を紅潮させて女主人のことばにうなずいた。
それから、
「はい。ゾルガグタ様。――それにヒヤン様とコルガン様は、
兄弟でいつも張り合っていますからね」
と返答をした。
「……そうね」
老貴婦人は短くそう答え、侍女は、また頬を興奮で紅潮させた。
(珊瑚を同じ大きさにするのは、争いごとのタネにしないための配慮。
ゾルガグタ様の<贈り物>は、貰ったものが皆喜び、
しかも、それが原因で争いごとが起こることが絶対にない)
ムーランは、それが、自分の女主人が誰よりも深い知恵をもって
タタタールの人々を識(し)っているからだということを理解している。
(──それが分かる私も、なかなかのものだけれども)
心中、密かにそう思って頬をリンゴのように染めている娘は、
自分のことばに対して、ゾルガグタが小さなため息をついたことには気がつかなかった。

(ヒヤンとコルガンの兄弟の見栄の張り合いはいつものことです。
それよりも、年頃の四人の娘に差をつけては可哀想でしょう)
老婦人は、侍女にそう説明しようかと思ったが、
結局、そのことばを飲み込んだ。
この娘は、自分が<お后候補>から真っ先に外された一人、
だということに、まだ気がついていない。
──自分の一族の栄光と、わずかばかり記憶力が人より優れていること、
それに御用学者の社交辞令のほめ言葉。
ムーランの自尊心のもとは、そんなものだが、
自分が「世界の一番上ではなくても、その次くらいの知恵を持っている」錯覚に陥っている娘は、
正直なところ、ホンバギトの一族の中ではそう珍しいものではない。
そして、そんな娘には、<お后候補>などとても勤まらないのだ。
ムールンが老婦人の侍女に付けられたのは、
そうした娘の器量を見てとった彼女の父親から
貴婦人としての「再教育」を懇願されたからだが、彼女は分かっているのだろうか。
(……まあ、いいでしょう)
だが、ゾルガグタは、小さく微笑した。
こうした女の子を──ゾルガグタから見れば、未成熟な頭の十七歳は、娘というよりまだ女の子だった──
預かって、きちんとしたタタタールの貴婦人にして親元に返すという作業は、なかなか楽しい仕事の一つだ。
それは夫と死別し、子供たちも立派に巣立って行った寡婦にとって、
半ば老後の趣味のようなものでもある。
「……続けましょうか」
穏やかにそういい、皇太后の「仕事」を再開する。
「はい」
侍女は、また帳面を取り上げた。
「ハヤナには羊を十頭。ゴラには馬を二頭。ジモ=ビルベにも馬を十頭」
そこまで言ったとき、皇太后でも侍女でもない声が突然あがった。
「――そのうち一頭は、去勢馬だよ!」
その声が、机の下から聞こえたような気がして、ムールンはぎょっとした

実際、ムールンの筆記している樫のテーブルではなく、
ゾルガグタの文机の下でその声をあげた小さな影は、
そのまま文机を潜り抜けて皇太后の膝元に上がっていた。
「ごきげんよう、大伯母様! 何かお菓子ある?」
「姫……!」
侍女頭は、小さな叫び声をあげた。
七歳、と言う年齢に比べても小さく軽い身体と子供っぽい声は、
しかし、その身のうちの知恵を現さない。
ムールンが脱落した、ホンバギト氏族の<お后候補>に選ばれた娘。
つまり、「次の世代のホンバギト」でもっとも賢い、と認められたのはこの少女だった。

「おや、シルンド、こんばんは。――お菓子は、何かあったかしらね?」
ゾルガグタはにっこりと笑って小さな闖入者を迎えた。
ムーランのほうを眺める。
「ええと……」
突然のことに、ムーランは口ごもるが、かわって少女が答えてくれた。
「あ、チーヌのお菓子があるんじゃないかな?
胡麻がいっぱい入ってるやつ!
さっき、マゴバ叔母さんとゲルの前ですれ違ったもん!」
「ああ。マゴバはいつもあれを持ってきますものね。あれにしましょう」
東に領地を持つ男に嫁いだ女の名前を口にしながら、
ゾルガグタは童女のように笑った。
胡麻をたっぷりと使った菓子は、マゴバの夫が治める地方の名産で、
チーヌの食べ物を好まない者にも受けがよく、
マゴバは女同士の贈り物にはこれ、と決めていた。
小さな姫君は、それを知っていたらしい。
ツァイ(薄塩味の乳茶)と胡麻の焼き菓子が並べられると、シルンドは目を輝かせた。

「いただきます!」
そのことばもそこそこに、焼き菓子に手を出す。
小さな口を大きく開けてかぶりつく様子は年齢どおりで、
それはつまり、あまり賢い女に見えない。
ムーランは、なぜ自分ではなくこの少女が次代の「お后候補」に選ばれたのか、
いつも疑問に思っていた。
自分がここの侍女になる前――つまり「お后候補」に選定されるずっと前から、
この小柄な娘がゾルガグタのゲルに足しげく通っていたことを知ってからはなおさらだ。
シルンドは、いつもこうして皇太后のゲルにやってきては、
菓子をねだり、お茶を飲んで帰っていく。
この娘が、なぜ──。
「……シルンドや」
「なあに、大伯母様?」
一族の長老、それも大ハーンの母親という、まちがいなくタタタール一の女性にむかって、
シルンドの口調は、まるっきり「親類の、馬の合うお婆さん」相手のものだ。
親類であることも、妙に話の合うことも間違ってはいないのだが。
(年長者に対する敬意と言うものをもっと口やかましく教育するべきなのではないか)
──彼女のために。
侍女は心の中でそう思ったが、肝心のゾルガグタはまるで無頓着で、
むしろ少女のそうした言動ひとつひとつが楽しくてたまらない、といったようだった。
「教えておくれでないかえ?
ジモ=ビルベに贈る馬の一頭を去勢馬にしなくてはならないわけを」
「ああ、簡単だよ。メゴお婆さん──ジモお爺さんの奥さんだね、が、
そろそろお爺さんの馬は大人しいのにしなきゃねって言ってたもん」
「おや、それは初耳だねえ。
メゴは無口だし、あまりそういうことを言わない性質(たち)だから」
ゾルガグタは、風雪が表情をそぎ落としてしまったような老婆の顔を思い出しながら言った。
人付き合いのいいゾルガグタでさえ、縁の遠い有力者というものはある。
遠方の山麓を領地に与えられた一族などは、その代表だ。

先代の大ハーンの「七つの鏃(やじり)」の一人に数えられた将軍は、今では気難しい老人となり、
戦(いくさ)と政(まつりごと)の大事の会議のとき以外は、
草原の宮廷に姿を現さずに自分のゲルに引きこもっていることで有名だったし、
それに輪をかけて気難しいその老妻は、女同士のおしゃべりに加わらないことでもっと有名だった。
「そうかな? ヨーグルトの話のときなんか、すっごいおしゃべりだよ?」
小さな姫はこともなげに言った。
草原一耳早な皇太后が知らないことを、シルンドは聞いていたりする。
それは、才能だ。――遊牧民族の支配者の女としての。
「ああ、ヨーグルト。……そう言えば、メゴは名人でしたね。
昔のタタタールのヨーグルトを作れるのは、今では彼女一人でしょう」
皇太后は、ちょっと懐かし気な表情になった。
彼女と同世代の貴婦人は、まだ少女の頃からやたらと昔かたぎで、
自分たちの母親さえ知らなかった古くて手間のかかる方法でヨーグルトを作っていた。
酸っぱく、癖のあるそのヨーグルトは、当時から好んで食べる者も少なく、
あの頃から彼女に気のあったジモ=ビルベが全部平らげるのが常だった。
タタタールが世界を獲って贅沢になった宮廷では、
なおさら彼女のヨーグルトを欲しがる者もなくなり、
メゴは女たちの集まりに出てくることがなくなった。
彼女が死んでしまったら、もうタタタールにあのヨーグルトを作れる女はいなくなる。
メゴは、ジモ=ビルベ以外のためにそれを作る気も、
誰かにそれを教えることもないだろうから。
好みの味ではないとは言え、あのヨーグルトは失われれば二度と蘇ることはない。
──それは「タタタールの過去」がひとつ消えて行くことだった。
「そうだね。ボクもまだ、十二種類のうち九つしか作れないんだ。
メゴお婆さんは、「あとはもっと大きくなってから」って教えてくれないんだ。」
口いっぱいに頬張った焼き菓子をツァイで流し込みながらの、事も無げな一言は、
皇太后の感傷を、文字通り吹き飛ばした。

「……メゴがあなたにヨーグルトを教えているのですか……?」
思わず、シルンドの顔をまじまじと見てしまう。
「うん。あれ、美味しいもんね。もっと食べたいってねだったら、
メゴお婆さんが、「自分で作りなさい」って。
でも、残りの三つは、何か腕の力がすっごく必要な作り方なんで、今のボクじゃムリなんだ。
一度作ってみたけど、食べたジモお爺さんが首を振っていたから、やっぱりダメみたい」
「そうですか……」
ゾルガグタは、小さく吐息をついた。
頑なな老婆にヨーグルトの作り方を教えようと思わせることも、
無愛想な老人がそれを味見しようとすることも、
シルンドはまるで簡単なことのように言うが、
ゾルガグタは、それがどれだけの奇跡なのか、見当も付かなかった。
いや。
あるいは、この娘にとっては、本当に簡単なことなのかもしれない。

自分たちがかつて切り捨て、向こうもこちらを拒絶した「タタタールの過去」が、
消えゆく前に、この娘に強く強く受け継がれて行く。
ゾルガグタには、それがとても大切なことのように思えた。
「あ、そうそう。馬の話だったよね!
だから、メゴお婆さんがそう言っているんだから、絶対去勢馬が必要なんだよ!」
「そうですね。そうしましょう。──ムーランや、ジモ=ビルベには去勢馬を。
それも、大きくて戦慣れした軍馬を贈ってあげて」
「あ。そうだね! ジモお爺さんはまだまだ戦に出るつもりだから、
大人しいだけの馬じゃダメだよね! さすが大伯母様!」
シルンドは手を叩いた。
皇太后はにっこりと笑ってそれに応えると、
侍女に手を振って、「今日の仕事はおしまい」と合図を送った。
ムーランが頭を下げてゲルの外に出て行くと、ゾルガグタは小さな姫君に向き直った。
「さて、シルンドや。――今日は、いったいどうしたのかえ?」
この賢い少女が、自分に何か話があることは、一目見たときからわかっていた。
「んんー」
はたして、シルンドは、小さく腕組をした。
「──ボク、結婚しなきゃならなくなったんだ」
七歳の少女が整った眉を寄せたところを見ると、
それは彼女にとって、あまり本意ではないことらしい。
「まあまあ、シルンドや。
その話、妾(わたし)によく聞かせてくれないかえ?」
ゾルガグタは、優しく微笑み、
親族の中で一番目をかけている娘が口を開くのを待った。