彼は、二十四歳と言う若さで、王国の王立騎士団 副団長の任に着いていた。
武芸に秀で、知略にも長けた若き騎士は、次期軍団長の呼び声高く、皆 彼を慕っていた。

彼には、愛する妻がいた。大聖堂の修道士で、美しく賢い女性であった。だが、もうこの世には居ない。
彼が外征から戻る前日、森に薬草を取りに出掛けた所を獣人に襲われたのだという。

彼女は、彼の全てであった。
彼女の喜ぶ顔が見たくて
彼女のその笑顔を守りたくて
彼は、その為に、その為だけに騎士団に入り、獣人どもと戦ってきた。

しかし、彼女を失った今 彼には騎士団に居る意味を見出せずにいた。
騎士団全員が、彼を思い止まらせようと説得を試みた。だが無駄であった。
一番守らなければならない存在、それを守れなかった自分に何が出来ると言うのか、と
彼は、騎士団長に辞表を提出し、騎士団を去った。

それからというもの、彼は、妻が愛した美しい森の巡回を始めた。
一人でも多くの人を救いたい、それもあったのだろう。
そうすることで、失った彼女に何処かで救いを求めていたのかも知れない。

それから一ヶ月程たったある日。
何時ものように森を巡回し、日も落ち始め、そろそろ帰宅しようとした彼の目に、へたり込んだ修道士に、獣人が斧を振り上げている姿が飛び込んできた。
その光景が、亡き妻の最後と重なった。
不意に憎しみが湧きあがり、気付けば獣人を蹴り倒していた。
何時もならこんな事はせず、普通に切り倒す。だが、この時は違っていた。
蹴り倒した獣人に馬乗りになり、その体に何度も、何度も、剣を突き立てていた。
剣を抜く度、血飛沫が上がり、彼の顔を、体を汚していく。
ざんばらな美しい白銀の髪も、尖ったその長い耳も、飛び散った血で赤く染まっていった。

その最中、彼は泣いていた。守れなかった、守ってやれなかった、最愛の人を想って。

獣人が息絶えた後も、彼は、突き立てた剣を握り締めたまま項垂れていた。

「ありがとう」
―と、背後から女性の御礼の声が聞こえる。

彼は、自分の耳を疑った。
そんなはずがない
そんな事あるわけない
そう思いながらゆっくり立ち上がり、彼女の方を振り向いた。

修道士独特の深い藍色の衣を身にまとい、頭巾を目深に被ったその女性は、ゆっくりと彼に歩み寄る。
その時、彼らの周りを不意に風が吹き抜けた。
彼女の被った頭巾が捲れ上がり、外気にその顔を晒した。

そんな…まさか…
彼は声を失った。

日も暮れ、月明かりが木漏れ日のように彼女の顔を照らし出す。
その顔は、彼が良く見知った顔だった。

長く艶のある黒髪
透き通るような白い肌
ピンと尖った耳
澄んだ空のように青い瞳
通った鼻筋
そして、仄かに紅く色付いた唇
似ていた、どれもこれも亡き妻に瓜二つだったのである。

彼は、目の前の彼女を凝視し、立ち竦んでしまった。
そんな、まさか、妻は死んだ、死んだんだ……
自分に言い聞かせるように心の中で呟き続ける。しかしその時、彼の中に不意に一つの疑問が生まれた。
死んだ? 本当にそうなのか? 何故そう思った?

妻が死んだ。彼は何故そう思ったのかを思い返していた。

あの日、外征から帰った時、妻は家に居なかった。

日のあるうちの帰宅、夕食には、まだ間がある。
夕飯の食材を買いに出掛けているのだろう―と、彼は勝手にそう思っていた。
彼は、二階の自室に向かい、鎧を解き、甲冑台座に掛けた。
そして、薄い布製の街着に着替えると、剣を手に取り、手入れを始めた。
彼は、背もたれの無い丸い木製の椅子に腰掛け、刀身を見ながら、彼女が居なかった事を残念に思っていた。

何時もは、おかえりなさい―と、微笑む彼女が迎えてくれた。
その後、必ず決まって彼女は、彼にねだる事がある。
戸口で、帰宅したばかりの彼に駆け寄り、目を瞑って顔を少し上向ける。
ねぇ して… ねぇ ちょうだい…と言った様子で、彼に、ただいまのキスをねだるのだ。

彼は、彼女の柔らかな唇が好きであった。
只単に柔らかいのではない。その唇は、疲れて帰ってきた彼を優しく包み、癒してくれた。

今回、御預けを食った形になった彼は、彼女が帰って来たら直ぐに、ギュッと抱きしめ、その愛しい唇にキスをしようと考えていた。
その時だった、彼の耳に玄関戸を激しく叩く音が聞こえてきたのは…

ドン ドン ドン
「ジェド、ジェド、俺だ!」
けたたましく扉を叩く音に混じって男の声が聞こえてきた。

彼は、その声を良く知っている。
同僚の騎士で、無二の親友グラットの声であった。
武芸に長けるがお調子者で、何時も軍の規律を乱す。その度に彼がその尻拭いをしてきた。
そんなんだから私生活もだらしがない。
賭け事好きだが弱く、金が無くなれば彼に金を借りにきているというありさま。
また借金か……?
彼は何時もの事か、と溜め息をつき、剣を鞘に収め壁に立て掛けると、階段を下り玄関へと向かった。

「そんなに叩くな、戸が壊れる」
扉を開けた刹那、グラットは、彼を押しのけ、家に上がり込んだ。
呆気に取られた彼を他所に、グラットはキョロキョロと家中を見回していた。
「どうしたんだ? 金借りに来たんじゃないのか?」
冷静に問い掛けた瞬間、グラットは彼を睨み、掴みかかって叫んだ。
「奥さんは!? フィリスさんは、何処だ!」

彼は、グラットが何故そんなに慌てているのか、何故妻を捜しているのか、全く分からなかった。
物凄い形相で睨み、”知らない ”とでも言ったら殺されそうな勢いで迫るグラットに圧倒され、彼は、確信の持てぬ答えを返してしまっていた。
「…買い物、だ」
グラットは、彼の胸倉を掴んでいた手を離すと、ふらふらとした足取りで、リビング中央のテーブルに両手を着いた。
彼は、乱された襟元を整え、何故妻を捜しているのか、と訊ねる間も無く、グラットは、彼の方に振り向いた。
「いや〜、そうだよな、うん」
グラットは、安堵の表情を浮かべ、笑むと一人で納得した様子で呟いた。
なにが? と怪訝な顔をした彼を見たグラットは、自分の道具袋を漁りだした。
「これ、売ってる奴いたから」

道具袋から取り出されたのは、小さなガラス製の薬瓶であった。
その薬瓶は、綺麗な模様の装飾で、美しい芸術品のようでもあった。

何故これが… 何でこれが売られていた…
彼は、それを手に取りながら、言いようの無い不安に囚われ始めていた。
何故なら、その薬瓶の持ち主は、妻だったからである。
特異な形状をした、その瓶は、共和国産で、新婚旅行の際、妻にせがまれて買った物であった。

彼は、じっと瓶を見つめたまま、勝手に喋り続けるグラットの声を聞いていた。

「でも、お前の奥さんの持ってる物とそっくりだよな」
違う…これは確かに妻のものだ。この瓶は、縁が欠けている。俺の不注意で出来たものだ…
「青空市場で偶然見かけてさぁ、ほら、凱旋門前の冒険者が開いてる市場さ」
冒険者? 何故冒険者が、これを持っているんだ…
「まぁ、奥さん居るなら心配する事無いけどな」
心配? 一体何を心配していたんだ?
「これ売ってた奴に聞いたら、獣人が持ってた、って言うもんだから」
獣人!? 獣人だって!?
「てっきり俺は、お前の奥さん、薬草摘みに出掛けて殺られちまったんじゃないかと―」

グラットが言い終わらないうちに、彼は、台所に向かっていた。
確かめなければならなかった、そこに有るべき物が在るかどうか。
妻が、薬草摘みに出掛ける際に使うバスケットは、何時もそこに置いてある。
彼は、心を不安で押し潰されそうになりながら、台所へと急いだ。
台所に着いた彼を待っていたのは、あまりにも残酷な光景であった。

有るべき物は、そこには無なかった。
代わりに、妻が買い物に出掛ける時に使う、大き目のバスケットが、ぽつんと置いてあった。
彼が、それが何を意味するのか理解するまで、時間は掛からなかった。
急に目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちた。
彼は、目を閉じ、漏れ出る嗚咽を堪えようと呻いていた。
何で… どうして…
答えの無い、誰も応えない問いを、只、ひたすらに繰り返す。
目蓋に、妻の笑顔が、仕草が、立ち居振舞いが、浮かんでは消えていった。
彼は、床に突っ伏すと、溢れ出る涙を堪えきれず泣きじゃくっていた…

それが、彼が妻の死を受け入れた瞬間であった。


そう、彼は、直接妻の最後を見た訳でもなければ、その遺体を見た訳でもない。
人から聞いた話と薬瓶を見て、それを信じ、鵜呑みにしていたからである。
だから今、目の前に居る女性を見て、妻は生きているのではないか?―と彼が思うのも無理は無かった。

彼は、目の前に居る女性に、訊かなければならない事が沢山あった。
自分の妻 フィリスであるのか?
そうであるなら、何故一月以上も音沙汰が無かったのか?
今、何処で何をしているのか?
考え出したら限が無かった。

彼が訊ねようと声を発する前に、彼女に訊ねられてしまった。
「冒険者さん ですか?」

彼は、その質問と問いかけた彼女の顔を見て、考えていた事が吹き飛んでしまった。
彼女が、彼の妻であるならば、そのような事を問うはずが無かったからである。
やっぱり違うのか… と気落ちするが、彼女には関係ない事―と心で呟くと、微笑みかけながら応えた。

「いいえ、違います 王都に住んでいるジェラルドといいます」
その言葉に彼女は、目を輝かせる。
「王都? じゃぁ、王国の騎士様ですか?」
答えは”違う”であったが、これまでの経緯、その他の事情を考えるに、彼は、否定すると面倒と思った。
「まぁ、一応は……そうなのかな」
「危ない所を、助かりました」
彼女は、微笑み、両手を胸の前で組むと、深く頭を垂れ、感謝の意を表した。

彼は、彼女の手に釘付けになっていた。
彼女の組んだ左手の薬指には、銀の指輪が光っていたからである。
彼は思わず息を呑んだ。
同じ…? そう思っていた時に、彼女が次に発した言葉で彼は混乱した。

「あ…私、”フィリス”っていいます」
彼女の名前は妻と同じ、しかもその手には彼とお揃いの指輪が光っている。
どういう事だ… 何なんだ…これは…
彼の疑問は、直ぐに彼女によって解決される事となる。

もしよければ、家に来ませんか? お夕飯まだですよね? 今、聖なる川の守役をしているお婆さんの所に、お世話になっているんです。そのお婆さんに、私は助けられました―お婆さんが言うには、獣人に襲われた
時に出来た傷だと言うのですが…」
彼女は、右腕の袖をたくし上げると、彼にその傷を見せた。
「私は、血を流し、川岸に倒れていたのだと言うのです。傷が良くなるまで三週間程掛かりました。結構深かったので後残っちゃいましたけど…」
そこまで言い終えた彼女の顔が急に曇り、困惑した顔つきで彼を見上げた。
この後に、彼女が言った言葉で、彼の疑問が払拭される事となった。

「実は、襲われたショックからか以前の記憶が無いんです。名前だけは、これで分かりましたけど…」
彼女は、腰に提げた小さな道具袋から、ぼろぼろに破れた紙を取り出し、彼に見せた。

――――!
彼は、それを良く知っていた。
何故ならそれは、彼が、戦地から彼女に宛てた手紙その物だったのである。

「水に濡れて、文字が所々消えてしまっていて… 読み取れたのが”フィリス” ”騎士団” ”王都”だけで…」
彼女は、消え入るような声で呟き、彼に縋った。
「ジェラルドさん、お願いです。騎士団に私を知ってる人が居ないか探して頂けませんか?」

彼は、それで悟る事が出来た。
どうして自分を知らないのか
どうして生きているのに帰ってこなかったのか
どうして名前だけが分かっているのか
どうして騎士であるかを訊ねたのか

彼女が、記憶を失っている。
それは、彼が今までの疑問を納得するのに充分な理由であった。

彼が愛して止まない大切な人、彼女は、生きていた。

手を伸ばせば、その体に触れることが出来る
一歩踏み出せば、その体を抱きしめることが出来る
彼の目に、自然と涙が滲んだ。
嬉しかった、只、嬉しかった。
記憶を失っていても、彼女が…妻が、この世に生きているという事が。

彼は、フィリスの顔を見つめ、伝えようとしていた。
フィリスが捜している騎士は、自分だという事を。

彼が、言葉を発しようとした時であった。
それを遮り、しゃがれた声が背後から聞こえてきたのは。

「フィリス、こんな所に居ったのか…」

彼が、その声の方を振り向くと、薄汚れた法衣を纏った老婆が佇んでいた。

髪は真っ白で、尖った耳は垂れ、腰は曲がり、両手で杖を突き、それに凭れ掛かって、じっとこちらを見ている。

彼は、その老婆が、フィリスを救ってくれたその人だと直感的にそう思った。
彼は、深く深く頭を垂れ、無言で感謝の意を伝えた。
老婆は、そんな彼を見つめたまま、何かを覚ったように微笑み、頷いた。

彼が顔を上げると、老婆は彼を見据え、呟いた。
「あんたが、フィリスの捜しておる騎士様じゃな?」

「ぇッ…」
フィリスは、彼の横顔を見ながら、小さく驚きの声を上げた。
彼は、そんな彼女を横目で見ながら、黙って頷き返した。

彼は、老婆に言わなければならない事があった。
そして彼女にも、伝えなければならない事が。

妻を、記憶を失っていても自分の愛する人を自分の傍に…
以前のような暮らしは出来ないかも知れない
もしかしたら、彼女は自分を拒否するかも知れない
それでも、もう一度あの家で、二人で暮らしたあの家に一緒に帰りたい
この想いだけは伝えなければならない、と彼は思っていた。

彼が、硬骨の表情を浮かべ、全てを伝えようとした時、老婆の碧眼が、彼を貫いた。

何も言うな
わかっておる
その目は、彼に、そう訴えているようだった。

老婆は、彼女の顔を見つめ、穏やかな優しい声で諭すように呟いた。
「フィリスや、今日からお前は、この者と暮らすんじゃ。良いな?」

彼が、彼女の顔を見ると、その頬に一筋の涙が伝っていた。
手紙の主、捜していた人を見つけられた喜びと、老婆からの突然の別れの宣告。
心の整理がつかないのであろう。
ポロポロと涙を零しながら、必死に笑みを浮かべ、彼女は、老婆の声に只、頷いていた。

老婆は、そんな彼女を見て、目を細め頷く。
そして、彼の顔を見つめると、黙って深く頭を下げ、森の闇へと消えていった。

森で老婆と別れてから一時間位であろうか、彼は、彼女を伴って城下町を歩いていた。
夜も更け、人通りの殆ど無くなった石畳の街道は、シンと静まり返っている。
聞こえる音と言えば、彼の纏った鎧の擦れる金属音、彼女の纏った修道衣の擦れる音、それに、二人の足音。
後は、少し離れた所にある酒場から、騒ぎ声と吟遊詩人の奏でる音楽が小さく耳に届く位である。

二人は、あれから森で数回言葉を交わしただけで、会話も無く街並みを歩んでいた。
彼女は、俯いたまま黙って彼の後を着いて来るのみであった。
彼には、その表情を読み取ることが出来なかった。
彼女が何を思い、何を考えているのか、それは分からなかった。
だが、彼にも一つだけ分かっていることがあった。
彼女が、自分と暮らす事を受け入れた、という事である。

彼女には、選択することが出来た。
あの時、あの森で老婆が闇に消えた時、彼女は、老婆を追って行く事も出来た。
でも、それをしなかった。
それは、彼女の意思であり、それが、彼女の決意でもあった。

大通りから横道に入り、道なりに続く緩やかな階段を進む。
この先に、二人が暮らしていた家がある。
歩調が、少しだけ早くなる感じがした。

この一ヶ月、その家で彼は、一人で過ごしてきた。
彼は、一人は、慣れていたはずだった。
幼少期に両親を失ってからは、ずっと一人でその家で暮らしていたから。
だから、大丈夫だと思っていた。
しかし、彼女を失ってからの家は、灯が消えたように静まり返り、彼の心を凍えさせた。
森から帰ってきても、誰も居ない、寂しくひんやりとしたその家も、今日からは、そうで無くなる。
そう思っただけで、彼の心は、少しだけ、ほんの少しだけ和らいだ。

家の前に着き、彼女の方を見ると、未だ俯いたままであった。
後悔しているのかも知れない
やはり一緒に暮らすのは、無理なのか…
彼の心が、苦悶で包まれていく。

「どうかしたのですか?」
色々と考えているうちに、彼女は、彼の顔を見上げていた。

彼女の視線を受けながら、彼は、家に視線をを移し呟いた。
「…着いたよ」

彼女が、家の方へと体を向け、全体を見渡すように、じっと見つめている。
彼は、玄関戸を開き、屋内へと足を踏み入れる。
その後を、彼女が着いて来て、入り口で立ち止まった。

「おじゃまします…」
彼女の口から出た言葉に、彼は、少し可笑しくなった。
あの時と全く同じ、彼が、初めて彼女を家に呼んだ時と全く同じ光景が、今 目の前にあったからである。
だがそれは、彼女が、記憶を失っているという事を、彼に再確認させた。

焦らなくて良い
記憶が戻るまで、待てば良い
どんなに時間が掛かかっても、彼女さえ居てくれれば…
そう自分に言い聞かせ、彼女を招き入れた。

久しぶりに、ランプに明かりを灯す。
明かりに照らし出された、彼女の顔は、疲れているように見受けられた。

それもそうであろう、一遍に色々な事が起こり過ぎた。
彼も、そうであった。
だが、記憶が無く、何も解からない分、彼女の方が、この状況に困惑するのも無理は無かった。

彼は、話したい事が沢山あったが、それを抑え、彼女を二階の寝室へと案内した。

「今日は、ゆっくり休んで。今後の事は、日が昇ってから話そう」
そう言って、部屋を後にした。

彼は、その隣の自室に入り、鎧を解いた。
血みどろの鎧を見て、自分が血に塗れている事を思い出し、夜更けではあったが、湯浴みをする為階段を下りた。


彼は、湯浴みを終え、薄い街着に着替え、自室に戻った。
何時も通り、剣の手入れを始める。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
ドアをノックする人、それはフィリス以外に考えられない。
もう彼女は寝ている、と思っていた彼は、何事かと思いドアに向かった。

ドアを開けると、フィリスが苦しそうな表情で佇んでいた。

彼女は、彼を見つめたまま、黙っている。

「眠れない?」
彼は、その様子が尋常では無い事を感じながらも、努めて平静に尋ねた。

本当は、直ぐにでも抱きしめたかった。
フィリスが、理由は分からないけれど苦しんでいる。
自分に何か出来ることは無いのか、と思っていた刹那、彼女は口を開いた。

「お願いがあります……」
そう呟くと、彼の目を真っ直ぐ見つめる。
彼女の青い瞳は、彼の瞳を捕らえて離さない。

俺に出来る事なら…、そう言おうとして彼は息を呑んだ。
今、彼女は、何と言った? 俺にどうしろと頼んだ?
彼は、自分に投げかけられた言葉に、その行動に、暫し身動きが取れなかった。
彼女
が、彼に言った言葉、それは、こうであった。 「
あれから、ずっと考えてました。森を歩きながら、街を歩きながら、あなたと居れば、何かを思い出すんじゃないか、って…でも、家に来ても、家の中を見ても、何一つ思い出さないんです。だから、お願いします
。一度…一度だけ、あなたを感じさせて下さい」
そう言うと、彼女は、彼に抱きついた。

彼女が、ずっと俯いたまま後を着いて来ていた時、そのような事を考えていた等、彼は、予想だにしていなかった。
彼が考えていた以上に、彼女は、自分の記憶を取り戻そうと必死だったのである。

記憶を失い、それを思い出す、取り戻すのは容易でない事位、彼にも分かっていた。
だから、ゆっくりと時間を掛けて、以前の暮らしをしていくうちに思い出せば、と彼は、思っていた。
しかし、彼女は違っていた。
彼女は、自分が記憶を失う以前、どのように生きていたのかを直ぐにでも思い出したかったのである。

彼に抱きついた彼女の体は、震えていた。
彼女は、彼に抱かれても思い出さないかもしれない、それでも彼を求め、感じたいと言った。
その姿は、深い霧の中を彷徨い、やっとその中から助け出せる人を見つけ縋っている子供のように思えた。

彼は、彼女の体をギュッと抱き締め、耳元で囁いた。
「いいんだな…」
その言葉に、彼女は、黙って頷き返した。

「フィリス…」
彼は、抱き締める力を緩め、彼女の名を口にする。
彼女が、彼の顔を見上げるようにした時、彼は、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
何時もしていたように、軽く唇を合わせる。
その時、ランプの蝋が燃え尽き、闇が辺りを覆った。
しかし、窓から差し込む朧げな月明かりが、二人を闇の中から照らし出していた。

闇の中、二人の体が擦れ合う。
彼の唇が、彼女の唇を離れ、首筋へと滑り落ちる。
月明かりで、青白く反射する彼女の首筋に、彼の唇が、点々とその痕を刻み込む。
その度に、彼女の口からは、押し殺した艶やかな声が、漏れ出ていた。

抱き締めていた彼女の手が弛み、その体は、彼に凭れるように、力無く縋る。
彼は、その様子を窺い知ると、唇を離し、彼女を抱き締め直すと、耳元で囁いた。

「向こうで、しようか…」
そう呟くと、彼女が開け放ったままの、寝室の扉に目を移す。
彼女も、潤んだ瞳で彼を見上げると、小さく頷いた。
彼は、それを見届けると、彼女の背中と膝下に手を伸ばし、抱き上げた。
急に抱き上げられて、戸惑う彼女の顔を見ながら、彼は、優しく微笑む。
それに、安心したかのように、彼女は、彼の首に両手を伸ばし、その身を預けた。

彼の自室から、寝室までの廊下は、時折軋み音を上げながら、彼女を抱き上げた彼の歩みを捉えていた。
寝室まで辿り着くと、彼は、彼女をベットの上にゆっくりと降ろし、横たわるその唇に、深いキスをした。
彼は、重なった彼女の唇の隙間に、自分の舌を滑り込ませ、彼女の舌と絡める。
二人の口から濡れた水音が漏れ、鼻から抜ける吐息が、静寂を打ち破っていた。

暫く口付けを繰り返し、彼は唇を名残惜しそうに離す。
唇を離す時、空に二人の絡み合った唾液が弧を描き、消えた。

二人は、拳一つ分の距離で互いに見つめ合い、長い口付けの余韻を感じていた。

「フィ…」
不意に彼の口から、何時も呼んでいた彼女の愛称が零れ出る。
それとほぼ同時に、彼の手が彼女の胸に伸び、触れる。
服の上から、優しく包み込む彼の手は布越しでも暖かく感じられた。
彼の、低く呟いた声に、手に、彼女の体が反応する。
体が火照り、痺れに似た感覚が彼女の体を駆け抜ける。
頭では、何が起きているのか、自分では分からない。
でも、それは、彼女にとって嫌な疼きでは無く、頭では忘れている何かを体が憶え、反応していた。

「…イヤ……」
彼女は、自分に起きていることが分からず、不思議な感覚に囚われ始め、思わず口走る。
彼は、その言葉にハッとなり、彼女から手を離れた。
彼女の目は潤み、今にも零れ落ちそうな涙が目尻で震えている。
彼は、その表情に、彼女にした事の、これからしようとしていた行為に対して、自責の念にかられていた。

「ごめん…」
彼の口から、彼女に告げられた謝罪の言葉。
それは、とても弱々しく彼女に届いた。

自分から誘っておいて、拒否を思わせる言葉を発してしまった
彼女は、彼の腕を掴み、小さく顔を振ると彼の目を見つめ、呟いた。

「…違うの、そうじゃない、えと…その……」
彼女の顔は、紡ぎ出そうとする言葉に詰まると、頬をほんのり紅く染めていく。
彼は、その顔を見つめたまま、黙って次に出てくる言葉を待った。
彼女は、彼に縋るように呟いた。

「体が… お願い、お願いだから最後まで……最後までして…」
そう言い終えると、彼女の目尻から涙が伝い、シーツに落ちた。
彼は、その応えに一瞬躊躇したが、彼女の目に圧され黙って頷いた。

彼の手が、再び彼女の胸に伸びる。
それを包み込み、ゆっくりと揉んでいく。
彼の手の中でふるふると揺らされ、形を変え、揉みしだかれる。
彼女は、その行為に身が流されていく感じを覚え、何時の間にか濡れた声を上げていた。

「…あっ……んんっ…」
彼女は、口から出る声を我慢するためか、自分の指の背を噛み、苦しそうに喘いでいた。
彼は、その様子を見て、揉む力を少し強め、服の下から押し上げる胸の膨らみを摘み上げる。
「んンン……」
切なそうに漏れ出る彼女の声に、彼は、彼女の口にある手を掴み、引き剥がした。
「フィ…聞かせて君の声を……」
そう呟くと、彼は、彼女の服を留めている腰のベルトに手を掛け、解いた。

彼は、ベルトを紐解くと、彼女の着ている修道士の外套に手を掛け、前を開いた。
前が肌蹴、彼女の下着姿が露になる。
彼女は、恥ずかしそうに目を伏せ、その流れに身を委ねる。
月明かりが照らし出すその体は、以前と同じ美しさのまま彼の前に晒された。

「フィ、綺麗だよ…」
彼は小さく呟くと、薄い布で覆われた胸に手を伸ばし、静かに触れた。
むにゅっとした柔らかな感触が、彼の手の平に伝わり、小さな突起がその手を押し上げるように突き上げる。
「…ぁ……」
彼女の口から艶のある声が漏れ、その表情は一層赤味を増していく。
彼は、その口に、自分の唇を宛て、漏れ出る声を塞いだ。
彼女の吐息は、行き場を失い、喉の奥で留まる。
彼は、暫く彼女の口を覆ったまま、胸への愛撫を続けた。
さわさわと、乳房へ触れるか触れないかを繰り返すと、布の中に手を滑らせ、乳首を摘み転がした。

彼女は、喉を鳴らせ、苦しそうに鼻から甘く切ない声にならぬ声を漏らす。
彼は、塞いでいた唇を離し、彼女の顔を覗き込んだ。
「苦しかった。苦しかったんだ。フィリスを失ってからずっと……」
彼は、胸に留めていた想いを、思わず口にする。
その間も、小鳥が啄ばむように乳首を転がし、乳房を弄る。
彼からの突然の言葉、彼女の思考に快楽の刺激が襲う中、反射的に彼の顔を見つめ返す。
彼女の目には、彼の目が潤んでいるのがはっきりと見て取れた。

彼の手の動きが完全に止まる。
彼女は、彼が泣く理由が何となくではあるが、感じ取る事が出来た。
彼の喜びと嬉しさの涙が、彼女の頬に零れ落ちる。
彼女は、彼の体に両手を伸ばし、包み込むように背中に添えた。

「…フィリス」
彼が、小さく彼女の名を呼ぶと、彼女も応えるように彼の名を呼んだ。
「…ジェラルド」
彼女の声が消えると、彼は微笑み、その唇に優しく口付けた。

彼女の呼んだ彼の名は、彼の頭の中で繰り返される。
”ジェラルド”それは確かに彼の名である。
しかし、以前の彼女は、記憶を失う前は、そうは呼んでいなかった。
”ジェド”これが彼の愛称。
この名を呼ぶのは、彼のごく親しい人のみ。
彼女の記憶が戻るのかどうかは分からない、彼は、そんな不安に駆られ始めた。

その不安を拭い去るように、彼女の唇に重ねた自分の唇に想いを込めるように深くキスをした。
彼は、その体勢のまま、彼女の胸の手を布の中から抜き取ると、その胸を覆う布の結び目に手を掛け、解いていった。

彼は、彼女の胸に纏わり着いている布を解き、それを取り除いた。
ぷるんとした、張りのある形の良い双丘が露になり、ふるふると揺れている。
重力に逆らうように張った乳房は、幾分潰れるが、横に流れたりせず、その形を保っている。
彼は、唇を、首筋に滑らせ、鎖骨、乳房へと移していく。
そして乳首に辿り着くと、それを口に含み、ちゅう、と音を立て吸い上げた。

「はぁぅんン……」
彼女の体がピクンと震え、口からは熱を帯びた声が漏れた。
彼は、口に含んだ乳首を甘噛みし、舌で転がし、吸い上げる。
その度に、彼女の体は、小さく快感に震え、声が漏れ出た。
彼は、乳首を口で弄びながら、反対側の乳房を右手で揉みしだく。
彼の左手は、ゆっくりと彼女の体を滑り落ち、下腹部へと伸びていった。

彼は、彼女の透き通るような白い両足の付け根に手を伸ばすと、彼女の下穿きの上からクレバスをなぞった。
「ん…っ…」
彼女の体に、電気のような痺れが走る。
彼の手が、クレバスに沿ってなぞられる。
彼女は、自分の腹部に、じとっと濡れる何かが渦巻き、それが、下腹部に落ちていく感覚に襲われた。
彼女の下穿きは、彼の指がなぞるたびに染みを作り、広がっていく。
下穿き越しに弄る彼の手は、彼女から溢れ出た、じっとりと濡れる液体が纏わりついていた。

彼女の切なげな喘ぎ声が、彼の耳に届く。
愛しい声、何時も聞いていた声が、その唇から吐き出されていく。

感じている。彼を感じ、それに呼応するように彼女の体が震える。
彼は、顔を上げ、彼女の顔を覗き込む。
不意に彼女のクレバスをなぞっていた手が、止まった。
彼女は、その刹那、”えっ”という表情を浮かべる。
彼は、その表情を見て微笑むと、しっとりと濡れそぼった彼女の下穿きの中へと手を滑り込ませた。

くちっ、という濡れた音。
それに触れた途端、彼女の口から艶のある声が発せられた。
彼女は、彼の手が触れている自分の部分から溢れて来るそれに、体が融けてしまうような感覚に陥っていた。
彼女にとっては、今している事、されている事、全てが初体験になる。
記憶が無いとは、そういう事。
彼は、彼女と一番最初にした時と同じように、彼女の体を愛していった。

彼の指が、彼女の秘裂にゆっくり侵入していく。
「ん……」
優しく挿入した指に、彼女の温もり、中の圧迫感、ぬるぬるとした感触が纏わり着く。
少し指を抜き差しするだけで、彼女の喘ぎ声が漏れてくる。
その声は、彼の体を刺激し、火照らせ、熱くさせていった。

ゆっくり、優しく愛撫を続ける。
彼は、彼女の顔を、感じているその表情を見続けた。

彼女の秘裂から溢れた、ねっとりとした液は、下穿きをぐちゃぐちゃに濡らし、シーツまで染み渡っていた。
彼は、指を二本に増やし、掻き混ぜる。
くちゅくちゃ、と音を立て弄り続けた指を引き抜くと、ピクンと彼女の体が揺れた。

彼は、彼女の足元に移動すると、くたっ、と為っている彼女の下穿きに手を掛けた。
彼女は、顎を引いて、彼を見つめる。
その表情は、恍惚となり、目は潤んで、はぁはぁ、と荒く息をしていた。
彼は、彼女の目を見つめながら、下穿きを下ろしていった。

濡れた下穿きと彼女の秘裂の間に、にちゅ…っと濡れた音が聞こえそうな液が伸びた。
それが、下にずらされる度、ぱたぱたとシーツに零れ、染みを作る。
月明かりに照らし出された彼女の秘所は、ぬらぬらと光り、そこから垂れる液は臀部に至っていた。
彼は、彼女の足の付け根に顔を埋めると、秘裂に舌を這わせた。

「ぁ…ぃゃ……」
彼女から再び拒否の言葉が漏れる。
それは、生理的なものであろう。そんな所を舐めないで、と。
彼女の声を無視し、彼は、音を立てながら溢れ出る愛液を舌で絡め取り、吸い立てた。

彼女は、彼の頭に手を伸ばし、必死に押し剥がそうとする。
「ぃゃ…お願い、だ…から……んっ」
彼女の切なる願い、それは彼には受け入れられない。
それどころか、一層激しく吸い立て、舌を這わし、嘗め回す。

有りとあらゆる水音を立て、責め続ける。
「んっ…ぁ……ぁっ…」
彼女の口からは、次第に快楽から来る喘ぎ声のみに為っていった。
ぴちゃぴちゃと、まるで子犬がミルクを舐めるように、彼は、彼女の秘裂を嘗めた。
彼の口が、秘裂を離れ、その上部に移る。
包皮に覆われた蕾。それを唇で包む。
軽く吸い、舌で転がす。

「ひゃぅ」
彼女の声が飛び上がるように跳ね、体がひくひくと震えた。
彼の責め立ては止む事が無く、彼女の体をとろとろに融かしていった。
彼女の頭の中は、真っ白になり、徐々に視界が小さくなっていった。
気持いい―それ以外に彼女を支配するものは何も無い。
気付けば、先程まで押し剥がそうとしていた彼女の手は、彼の頭に添えられ、自ら秘所に押し付けていた。

「いいよぉ…ぁっ…きもちいい………あぁ」
彼女は、激しく悶え、淫靡な声を漏らし続けた。

とろとろと溢れ出る愛液を口で受け止めながら、彼は、その匂いに溺れていった。
狂ったように責め続ける。
あたかも、それは自分の物だと言わんばかりに。

「いや、だめ…だめなのぉ…ぁ……いや、いやぁ」
彼女は、駄駄っ子のように顔を振り、彼の頭を再び押し剥がそうとしていた。
彼は、それに構わず一向に止めようとはしない。
次の瞬間、彼女の体が大きく捩れた。

ぷしゃあぁぁぁ…

彼女の秘裂は、ひくつきながら潮を噴き、彼の顔を濡らしていく。
彼女は、肩で息をしながら、視点が定まらないのか、ふわふわと瞳が空を彷徨っている。
彼は、彼女の秘所から口を離し、顔に飛び付いて来たそれを、舌舐めずりをして味わった。
惚けた彼女を見ながら、彼は自分の服を脱いでいった。
その服で、顔を拭うと、ベット脇に放り投げた。

彼は、くたっ、と横たわる彼女の上半身を抱き起こし、彼女の纏う修道着の袖を抜き取った。
しゅるっ、という布の擦れる音。
彼は、彼女を左腕で抱えながら、修道士の衣を剥ぎ、一糸纏わぬ姿にした。
彼女は、荒く息をしながら、彼の胸に縋っている。
彼は、未だ惚ける彼女の顎に手を掛け、上向かせると、その唇に口付けた。

「んっ………っふ…」
口付けを交わしながら、彼は、彼女をベットに横たわらせた。
彼女は、彼の背中に手を回し、しがみ付くような格好でその身を任せた。

「…ん……っは…」
甘くとろけるようなキス。
彼女の心に、彼の温もりが伝わっていく。
不意に”幸せ”という感情が湧き上がる。
何度も何度も繰り返される口付けは、彼女の中に何かを取り戻させつつあった。

長い口付けを終え、二人は見つめ合ったまま、一言も言葉を発しようとしない。
二人の間に、他とは違う時間軸が存在するかのように、ゆったりとした時間が流れる。
彼は、自分自身を彼女の秘裂に宛がうと、低く、穏やかに呟いた。

「…いくよ」
彼女は、こくんと頷くと、彼の体にしがみ付く。

つぷっ…
亀頭部分が彼女の中に呑みこまれる。
ゆっくり、確実に彼と彼女は一つに融合していく。
彼に徐々に加わる圧迫感、包み込むような彼女の中は、ぬるぬるとして侵入を拒まない。

「っ…ぁ……んん」
彼女の艶のある声、少しずつ奥に進む度、その口から漏れ出てくる。
やがて、全てを呑み込み、二人は一つに繋がった。

互いを見つめ合ったまま、一度軽く口付ける。
彼は、彼女の両脇に着いていた手を押し上げ、上体を起こした。
それと共に、侵入していた自身を引き抜き、押し戻す。

くちゃっ…くちゃっ……
粘り気のある水音が結合部より漏れる。
「ぁっ…ぁ……っ…」
彼女の喘ぎ声が小さく、聞こえ始める。
彼の息遣い、彼女の熱を帯びた吐息、どくんどくんと脈打つ鼓動を互いに感じる。

ぬるっぬちゃくちゅ…
彼の腰の動きと共に、静かな部屋に濡れた音が響く。
彼女の膣内は、次々と蜜が溢れ、彼に纏わりながら外へとぬめり出される。
ちゅぷくちゅ…
濡れに濡れた音、何処からそんなに湧いて来るのか不思議な位、彼女は潤っていた。

「あっ…ん……ああっ」
彼女の淫靡な声は、彼の腰の動きと連動して吐き出されていく。
狂う。
よがる。
悶える。
今の彼女には、全てが当てはまるであろう。
そして、彼にも。

忘れ去られた彼女の記憶、忘れようとした彼の想い。
感じようとする、互いの求める物は何時しか同等になり、二人を包んでいった。

「ぁっ、くっ…ん……」
彼の切なげな顔、彼女だけしか知り得ぬ顔。
わたし、見たことある…
彼女の脳裏に、浮かんだ言葉。
それが、何だか自分でも分からない。
でも、言わなければいけない気がする、そんな思いが彼女の口を動かした。

「…ぅん……ジェ、ド…いいょ…っ、きもちっ…いい」
彼は、その声に一瞬気が緩む。
気を抜きすぎて果てそうに為るが、直ぐにぐっと堪えると、彼女の顔を見つめた。
彼女の口から”ジェド”という言葉が紡ぎ出された。
それは、紛れも無く記憶を失う前の彼女が、彼を呼んでいるのと同じ。
彼には、そう思えた。

艶やかな声、彼女の声、甘く切ない表情を浮かべ、彼を求める時の声。
その声で彼女は、彼の愛称を口にした。
それが、彼と彼女を結ぶ証。
繋ぎ合わさった二人の体。
片翼を失い、飛べぬ鳥のようであった彼を、彼女の翼が包み寄り添い、癒していく。
彼は、そんな感じがしていた。

彼の突き上げるような律動。
それに呼応するかのように、弾き出される彼女の声。

くちゅじゅぷ…
「はぁっ…ジェド、ジェドぉ…い、っちゃう…んっ」
「っ……い、いいよ…フィ……いって、もっ」
激しく乱れた声、互いの体の一部が融けて無くなりそうな衝動に襲われ始める。

只の快楽、それに溺れる男女。
彼女は、ひたすら、高みに昇ろうと、出入りする彼の動きを感じ喘ぐ。
彼は、それを見つめ、自らを突き動かす。

じゅぷっじゅぷっ……
彼女が、彼を見つめ、切なげに呟いた。
「ジェ、ド…も、いきそ…っ…ん」
彼は、言葉と体でそれに応えた。
一層激しく突き、彼女の中をぐちゃぐちゃに掻き回す。
「…っ、いいよ……いって…俺、も…っ…」

彼女の指が、彼の背に食い込み、じわっと血を滲ませる。
よがる彼女の、何処かへ飛ばされそうな衝動が、想いがそうさせた。
彼は、背中に彼女の印を刻み込みながら、自らも彼女に刻み付ける為に律動を繰り返した。

「あっ…ジェド、ジェドぉ!」
「……くっ…」
彼女の体が、一瞬縮こまったようになり弾ける。
彼女は、彼の名を叫びながら果てると、彼も彼女の中に全てをぶちまけた。

びゅくびゅく、と止め処無く溢れる彼女への想い。
彼の幸せ、それはフィリスが居る事。
彼の思いは、彼女に届いたのであろうか。
彼は、とくんとくん、と彼女の中で萎えていく自身を引き抜く。

どろっとした粘質性の白濁液が、彼女の秘裂から溢れ出る。
紅い花芯に、白く濁った液が付着し、ひくつく。
彼女の体は、汗ばみ月明かりを反射し、まるで宝石のように輝いていた。

「……ジェド」
彼女の呟き、彼を呼ぶ声。
「どうした?」
乱れた息のまま、互いを見つめ合う。
彼女の視界に、彼の優しい顔が映りこむ。
汗ばみ、上気した顔。綺麗な白銀の髪が月明かりを受け、青白く輝く。
彼女は、そっと彼の体を引き寄せると彼の唇にキスをした。

彼女からのキス。
彼の望むもの、フィリスの存在。
その瞬間、彼の中の止まっていた時計が、動き出したように思えた。

彼女が唇を離す―と、その目から一筋の涙が零れた。
「ごめんなさい…」
その言葉の意味、彼には理解できなかった。
だが、紡ぎ出る彼女の言葉は、続く。
「ジェド、ごめんなさい… わたし、わたし…」
彼女の青い瞳が、彼を貫く。

「記憶が戻ったの、か?」
彼の静かな声が、彼女の耳に届く。
彼女は、黙って頷いた。
彼が、彼女を抱き締めようとした時、彼女の口からさらに続けられた。

「でも、まだ全部は思い出せないの…獣人に襲われた時の事とか…」
そう言うと、目を伏せ、黙りこんでしまった。

「フィ…」
思わず漏れ出る言葉。彼女の名前。
彼の声は、彼女の心の扉を叩き、彼の行為は、失われた記憶の欠片を呼び覚ました。

「それは、思い出さなくて良い…」
彼は、彼女を抱き締めた。
彼女は、恐らく、とても凄惨な目にあったのだろう。
心に蓋をし、記憶の扉を叩いても出て来れない所に、その出来事をしまい込んだのだから。

彼は、ただ、彼女を抱き締め、そんな事は無かった―と呟きつづけた。
彼女も、そんな彼に応えようと、涙を拭い、彼の胸で甘え縋る。


二人は、抱き合ったまま、何時の間にか深い眠りに落ちていった。
青白く光り、窓から差し込む月明かり。
彼の体を照らし、騎士団時代の傷が、あちこちに浮かび上がる。
彼女の体も、その月明かりは照らし出している。

彼女の体の獣人に斬りつけられた傷。
それは、右腕の背中側を真横に斬られている。
そして、背中にも真一文字に傷痕が残り、未だ痛々しく肉が隆起している。
それは、獣人に斬られたにしては、余りにも美しい切り口であった。
獣人達の使う粗悪な武器で、ここまでの切れ味が有るのだろうか。

その傷は、まるで人が用いる太刀で斬りつけられたような、そんな傷であった。


あれから、あの再会の日から三ヶ月が過ぎた。
ジェラルドは、再び王国の騎士として働く事になった。
都市防衛・治安を主任務とする”神殿騎士団”の軍団長として。

本来ならば、外征で働き国家の為に獣人討伐を行う王立騎士団の方が、彼には相応しい。
フィリスが生存している事を知った騎士団長が、グラットを使者として何度も彼の説得に当たらせた。
しかし、彼は首を縦に振る事は無かった。

騎士団に入れば収入が安定し、生活が豊かになるのは明白ではあったが、あの悪夢の日々を思うと、戻る気にはなれなかったのである。
出来得る事なら、ずっとフィリスの傍で穏やかに暮らしたいと彼は思ったいたのだ。
騎士団に入れば、何週間も何ヶ月も留守にする事がある。
離れて暮らすより、町人のような生活をし、貧しいながらも幸せに暮らしていけるその生活で満足だった。
あの事を知るまでは。


彼の家に大聖堂の最高責任者、”教皇”の使者が訪れたのは、二人が穏やかな生活をおくり、それが周囲に知られるようになった日の事であった。
使者は、彼に書簡を届けたのである。
そこには、こう記されていた。

『明日、登城せよ。これは、わしからの頼みでもあり、そなたの妻に関する事である』

簡潔とした文章ではあったが、その内容は彼にとって新たな不安となった。
妻に関する事。
それが一体何なのか、知らなくてはならない。
彼が登城するのは、騎士団を去ってから実に四ヶ月が経とうとしていた。

巨大な城門の前に来ると、思わず足が竦み止まってしまう。
その城門を抜け進むと、謁見の間と呼ばれる大広間になる。
荘厳な雰囲気を醸し出し、威厳に満ちたその広間は、飛空艇がすっぽり入ってしまう程の広さで、部屋中央階段上奥の扉は国王の間になっている。

彼が、謁見の間に入ると宰相が走り寄って来た。

「ジェラルド、久しいな。今日は、教皇様に召されて来たのだな」
宰相の口調が強張って聞こえる。
彼が、教皇に呼ばれて来る事を知り、謁見の間でずっと待っていたのだろう。
強張った声を発するのは、宰相がいらついている時の癖であった。
だが、それだけではないようである。
何か重大な事…それを彼に知らせる事の恐怖というか、不安というか、宰相の顔が引き攣っていたのである。

「教皇様がお待ちだ。着いて来なさい」
宰相は憮然と言い放ち、つかつかと広間を抜け、中庭へと足を進めた。

光が差し込み、中庭の草木が煌めき合う。
そこに教皇の姿があった。
背が高く、白い顎鬚を蓄え、聖堂最高位の紫色の法衣を纏った姿は、神々しく見えた。

「ジェラルド、よく来てくれた」
教皇は彼に近付き、低く穏やかな、安らぎを与え包み込むような声で語り掛けた。
思わず萎縮してしまう。
こんなに間近で教皇に会う事など、滅多に無い。
彼は、すぐさま立膝を突き、頭を垂れ応えた。

「教皇様には、ご機嫌麗しく、益々御健勝で臣下として喜ばしい限りで御座います」
思わず口に出る通例文。騎士団生活を思い出す。
その言葉を聞いて、教皇は微笑み呟いた。

「そんなに畏まる事は無い。楽にせよ、楽に」
それが、最初で最後の優しい語り口調であった。

彼が顔を上げると、教皇は中庭中央の噴水に歩みだしていた。
鳥の囀り、草木のざわめき、噴水から流れる水音。
心地良い音色が彼に広がっていく。

教皇が噴水の縁に辿り着いた時、水の出が止まる。
鳥も草木も、風さえも。
不意に全ての音が消え、静寂があたりを包む。
彼が、妙な気持になり始めていたその時、教皇は振り向き語りだした。
「実は、厄介な事
が起こっておってな。他二国の使者が今訪ねてきておるのだ」 …バスト
ゥーク共和国とウィンダス連邦の使者が? 「その事
柄は、そなたの妻に関わりがありそうでな。それで、そなたに来て貰った訳だ」
フィリスに関わる事……
「その者達が協力を求めているが、王立騎士団は動けん。陛下が首を縦に振らなんでな…。ジェラルド、そなたに頼みたいんじゃ。神殿騎士団に入って、その者達の話を聞いてやってはくれまいか? 神殿騎士団であ
れば、家を長期間留守にする事はなくなるであろう?」
確かに、神殿騎士団ならば王都の防衛。常に王国内に居る事が出来る。
「どうじゃな? やってくれるか?」

そこまで話し終えた教皇は、何時の間にか彼の傍に立っていた。

彼は迷っていた。
騎士団に入れば収入も増え生活も安定しよう。
だが、フィリスは何と言うのだろうか?と考えてしまった。
穏やかに暮らしていこうと二人で決め、ここ数ヶ月そうやって暮らしてきた。
だから答する事に躊躇われた。

それを感じ取ったのか、教皇は彼にこう続けた。

「今直ぐに答えを出せとは言わん。使者の話を聞いてからでも遅くは無かろう」
その時、宰相に連れられて二人の人物が中庭に姿を現した。

教皇の声の先に目を向けると、そこにミスラとガルカの姿があった。
彼らが、他二国の使者なんだ、と思う前にその姿に違和感を覚え思わず呟く。

「お、とこ…? それに……」

彼の声に、くすくすと猫撫で声で含み笑い答えたのがミスラであった。
「僕はレック、君の思っている通り男性のミスラさ。こいつは一緒に事に当たる事になったガルカのアグヴァス」
そう言うと傍に立つガルカに視線を向ける。

彼の思考が止まる。
見るのも、聞くのも初めてなミスラの姿を目にし言葉が出ない。
微動だにしないジェラルドに溜め息をつき、教皇にレックが問い掛ける。

「教皇さんよぉ、こいつかい? 僕達に協力してくれるって奴は?」

不躾なまでに横柄な口の訊き様。
ジェラルドの背筋が凍りつく。
教皇様に何と言う言葉遣いなんだ…
彼が教皇の顔を見上げると、慈悲深い面で受け流して応える。
「まだじゃ、決まってはおらんが例の事象をこの者に話してはくれまいか?」
教皇がレックに向かって言葉を発した瞬間、レックの背後に居たアグヴァスが口を開いた。

「それは駄目です、教皇様。私達と共に事に当たれる者でなければ、御話する事は出来ません」
そのガルカの声は男性のものとは明らかに違い、彼の耳に高く通って聞こえた。