「違うって。七百十年にできたのは平城京。平安京は七百九十四年だよ。こんなの全然簡単な方だよ? この調子じゃ、江戸時代とか、明治大正のごちゃごちゃしたあたりはリズ、まったく判んなくなるかもなぁ」
「ちっがうよ。平城京って言おうと思ったんだけど、ちょっと間違えただけだもん」

秋の明るい日差しが射すリビングダイニング。いつも食事をとるテーブルに、日比野重雄と、幼馴染のリズが向かい合わせで座っている。
二人の間におかれたノートを見つめるリズは、少しばかり頬を膨らませて重雄に対して抗議の声を上げた。

「っていうか、しげちゃんちょっとエラソーだよ。勉強ができるからってさー。もっと、リズにもわかり易く教えてよぅ」
「いや、これ以上判り易く教えるっていうのがよく判らない。年表を覚えるだけだよ。簡単じゃないか」
「だからぁ、なんていうかねー、面白くないの! 面白くない事は覚えらんないよ!」「面白い勉強なんてあるなら、僕が教えて欲しいくらいだね」

重雄は肩をすくめて苦笑した。その様子を見て、リズはムキになって反論する。

「英語は面白いよ? だって、英語が話せるようになったら、世界中の人とお話できるようになるもの。あー? しげちゃんは英語だけは駄目だったねー♪」
「僕は別に日本を出るつもりはないし、日本に来た外国人は日本語を喋るべきなんだよ。そもそも、日本語ってのは世界的に見てもレベルの高い、美しい言語なんだよね。それさえ使えれば僕はいーの」
「ほらー。やっぱり偉そう。いいよ。勉強教えてくれる代わりのご褒美、今日はナシにするもん」
「う、ぐ。……判った、じゃぁ最初から、もう一度日本のあけぼのから、いくよ? いいね? だから、無しはナシで……」
「しげちゃんのエロ」

がちゃりと音がした。重雄の祖父、日比野速雄が自室から出てきたのだ。二人のやり取りは、日本における量子学研究の第一人者にとって、他愛もないじゃれ合いのように聞えたのだろう。
枯れ木のような体をゆっくり、重そうにしてリビングに入っていた速雄は、重雄に向かって笑いかけてから言った。

「かっかっか。二人ともさっきから、キャンキャンと子犬のようだったの。ワシの部屋からもよく聞えたわ。だがな、重雄や」

孫の横の椅子をぞんざいに引いて、腰掛けてからふう、とため息をつくと、日比野教授は孫の肩を叩いた。

「リズちゃんは、なかなか良い事言っておる。『面白くない事は覚えられない』とな。これぞ、学問の真理かもしれんの」
「えっ? なに言ってるんだよじいちゃん。楽しく、ゲームでもするみたいに勉強しろっての?」
「まったくもってそのとおり。くくく」
「ほうら、しげちゃん。リズの言うとうりだってよ〜?」

重雄は面白くない。祖父の日比野教授は、二人の会話に割り込む時、大抵リズの肩を持つからだ。
しかし、校内でもトップクラスの成績を誇る重雄は、たとえ相手が博士号を持つ祖父だろうと反駁を試みる。重雄はこれまで、フルマラソンをこなすように、長く地道に、一定のペースで授業の予習や復習へ取り組んでいたのだ。その時、学習の悦びを感じる事はなかった。
今、日比野教授が言った『面白くない事は覚えられない』とは、重雄の考え方とまったく相反するものだったのだ。

「じゃあ、じいちゃん聞くけど、面白い勉強ってのはどう言う事をいうのさ」
「根本に知への探求があることだの。知らぬことを理解したら楽しいじゃろが」
「リズ、社会科見学でパン工場行ったとき、楽しかったしタメになったな〜」
「焼きたてのパンを僕とクニの分を含めて三個も食べれば、リズ的には楽しいしお腹いっぱいになるだろうさ」

そう言って重雄は、僅かに斜を見る視線で考え込み、それから日比野教授に向き直った。
ディベートにおいて、失言は自らの首を締めることになる。
重雄はシンプルな意見を祖父にぶつけ、切り崩す戦術をとる事にした。

「異議あり。『知らぬことを理解したら楽しい』っていうけど、そんなのはすべてに当てはまるんじゃない? たとえば、勉強よりゲームの攻略法を知ったほうが僕は楽しい。だから、それは勉強が楽しいって事の証明にはならないはずだよ」
「ほっほ。ゲームとな? そんなもの、ワシから言わせれば子供だましよ。重雄はまだ、勉強の楽しみを知らんからだの」
「じゃぁ、勉強はゲームより面白いって言うわけ?」
「無論。人類が営々と積み上げた知の大系、それを指す言葉を学問と言う。ゲームを生み出したのもまた学問だの。その学問をエンジョイする事が勉強じゃ。ゲームと学問では、歴史が違うわ。一生かかってもクリアできぬ、知の最高の娯楽じゃぞ」

日比野教授がテーブルに両肘をつき、二人を交互に見ながら言った。

「さっき、歴史の勉強をしていたようだが?」
「うん。中間テストが近いの。リズ、歴史とか理科、っとに駄目だから、しげちゃんに教わるけど、ごめんなさいおじいちゃん。リズも、やっぱりそういった科目は面白くないって思っちゃう」
「ほーら。じいちゃん、勉強ってのは筋トレみたく、辛くてもこなしてこそ意味があるものなんじゃないの? 反論できる?」
「言いおるの、重雄や。さてリズちゃん、歴史が苦手だと言ったのう。それをな、解消する方法を教えてあげよう。それはズバリ、その時代を空想してみることだの」

日比野教授は、芝生で青い庭を指差した。しめした先の花壇のヒマワリはもう花を落して枯れている。その脇には、か細い、重雄ほどの背丈の一本の木が植わっていた。

「今年の夏に植えた栗の木じゃないか。それが空想と関係あんのじいちゃん」
「そう。栗の木だの。ワシが知り合いのところから貰った、山栗の苗木じゃ。そっから試しに、歴史を『見てみよう』かの」
「えー?」
「なんだそれ」

リズと重雄は、不思議な顔をして日比野教授を見つめる。彼は笑顔で続けた。

「縄文時代の遺跡から、炭化した栗が出土しておる。ウチの庭に植わってる山栗と同じ、日本古来の栗を食べてたんじゃろうな。あの栗の木が実を生らしたら、ワシらは、縄文人も食べてた味を感じる事ができる。それを手がかりに、縄文時代を見ることができるようになる」
「リズ、栗ごはん好きだよ〜♪」
「うむ。もしかしたら、縄文人も栗御飯を食べてたかもしれんの。御飯を炊く、までは至らぬとも、穀物と栗を一緒に煮た可能性はおおいに在りうる」
「んー……」
「重雄には見えんか? 折角歴史を勉強し、その知識を持ったらば空想して楽しまなくては損だの。教科書の挿絵や、博物館で見た事のある出土品も考察にいれるのだ。ほら、どんどん考えろ。そうすれば見えてくる。見えたら、楽しくなるんじゃよ」




では、私も日比野教授に習い、空想してみることにしよう。ずっとずっと昔の日本を。
今からおよそ二千五百年ほど前の縄文時代晩期。弥生時代の誕生が、もうすぐそこまで迫っている日本の、特別なケースを選んでみようか。
私のできうる限りの、飛び切り突飛な空想を楽しんでみるとしよう。

私のカメラは、天空から弓状の日本列島を映し出す。縄文晩期には平均気温が二度ほど下がった事が要因となり、海面が低下した。目に映る海岸線は、埋立地さえ除けば、今の日本と大差ない。

そこからさらに、空想のカメラをズームさせてみる。
当時の関東平野は、おそらく落葉樹林の天国だったことだろう。緑と、紅葉による茶と赤のコントラストは、ほぼ切れ目無く大地を覆っていた。

さらにズーム。
山野を縫う曲がりくねった川の近く。緩やかな斜面の開けた台地。そこに見える十を越えるほどのこげ茶の円は、上から見た竪穴式住居だ。
集落の真ん中あたりから煙が立っている。誰かが煮炊きをしているに違いない。

ズーム。

その中に、長い髪を後ろで束ねた、うす茶色の服の女性が見える。

走っている。

私の空想は、その彼女を追うことにしよう。




「エリどうした。そんなにいそ、うわぁ!」
「じゃまァ!!」

ジルハはできたてのスープをぶちまけて、ボクの事を避けた。まぁ、そうでなかったらジャンピングニー(注1)を決めてただろうけどっ!
ガド兄から聞かされた冗談みたいな提案に、ボクは村の長老の家へと一目散に駆けていた。あのジジィついにボケたか? まぁいいや。返答次第では鉄拳制裁決定。

ボクは野を行くケダモノの速さで、長老の家へと飛び込んだ。

「おやエリ。ずいぶんと、早かったねぇ。ガドから聞いたかや? 例の話」
「……はぁ、はぁぁ……。聞いたわよ! ああ聞いたともさ! 長老、アンタ何考えてんの! よりによって、私と、あのケガレが、うぇ。いきなり走ったから気持ち悪い……」
「まぁそこにお坐んなさい」

言われなくてもと、敷かれてる猪の毛皮の上にぺしゃりとへたり込む。肩で息しながらだけど、ボクは長老にガンを飛ばすのは忘れない。

「ひょっとして、エリもケガレの事を野蛮人だと思ってるのですか? 彼は我々と違って、神の選民ではないだけですのね。現地民と呼んであげないと」
「そんな事はどうでもいいの! ともかく、なんで、ボクがケガレと結婚しなくちゃなんないのよっっ!!」




          〜美女と野獣(ノケモノ)〜




「ひょっとして不満?」

長老は呑気に長い髭を撫でながら、ボクの事を小さな目で見つめながら、首を傾げてる様子がまたムカつく。
その髭と一体化しそうな長い白髪の中から、額のあたりに角みたく突き出てるヒラクティリー(注2)を、ボクのパンチで埋め込んでやろうかしら。

「不満だよ!」
「だって、エリに見合う年頃の男はこの村に居ないし。もったんない」
「エロい目でボクの事見んなっ!」

ニンマリとした長老の視線に抗議して、ボクは続けた。

「別に結婚なんてしたくないっつってんの!」
「いやいや。聖書にある『産めよ、増えよ、地に満ちよ』という神の祝福の言葉をエリも知らない訳がないでしょ。我々にとって結婚とは、神との契約の上で、成さねばならぬ大切な行為ね」

長老の目がウルウルしはじめて、まるで黒い小石みたくなる。

「我等がこの地に辿りついたとき、エリはまだ生まれたばかり。それが今ではどう? 女らしい長い黒髪、ぱっちりと大きい、猫のような目。本当に美しく成長した。老い先短い育ての親として、あとはもう、伴侶を持ち、家庭さえ築いてさえくれれば……。ううう。ベニヤミンとレア、あの二人が生きていたら、今回の縁組を、きっと諸手を上げて喜んでいただろうに違いないね……」

ふん、と息をついてボクは肩をすくめた。大体、長老の泣き落としはいつもの事だからな。怒ってるのも馬鹿らしくなってくる。
それに、女らしいなんて言われるのは、ボクにとって屈辱だ。ボクはどうせなら、男の子に生まれたほうが良かったと今も思う。そうだったら、若いのに族長を継いだガド兄を手助けできるのに。
ボクたちはずっと西から来たそうだ。ただ、ここまでたどり着いたみんなは、旅の途中で産まれた。ボクに至っては、この土地へと海を渡って向かう時、船の上で産まれたらしいけど、当然、その時の事なんて覚えてはいやしない。(注3
だから、この土地はボクの故郷になる。
東に行けば、誰も居ないボクらだけの土地があるって、なんかご先祖様のお偉いさんが言ったんだって。でも、やっぱり、ここにも人たちが住んでいたんだ。
ふと、後ろから声がした。

「エリ。判ってくれ」
「ガド兄……」
「おお、ガド、お前からも説得しておくれ」

鷹のような鋭い視線をボクに向けたまま、遅れて来たガド兄が長老の隣に座る。
ボクのたった一人の肉親で、成人して正式に族長を継いだ自慢の兄。でも、今日は鉄器みたいな冷たさで、ボクにこう言ったんだ。

「俺が決めた事だ」って。

「……っ?! なんで? なんでよっ!」
「我々支族がこの地にたどり着いて、もう何年になるだろう。そして、何人減った? もはや、純血を保って行くことは不可能だ。ならば、多民族の血を受け入れるしかない」
「そう。それに、神はヘブライの民の女から産まれた子は、父の民族を別にしても祝福してくれるね。あーエリったら、ひょっとしてマリッジブルー?」(注4

ボクは思わず怒鳴った。

「長老は黙ってろ!」
「エリっ!」

ガド兄は、もっと大きな声でボクを叱った。

「……族長の妹であるエリ、お前にしか頼めないことなのだ。重ねて言う。判ってくれ。それに、我々がケガレに依存している事は、お前もよく判っているだろう」
「ケガレも近頃じゃ、拙いながらヘブライ語を使えるようになったしね。エリの夫となれば、ワシらも諸手を上げてケガレを歓迎できるわけね」

ボクはうつむいて、拳を握り締めた。毛皮がくしゃってなる。

「……ボクは、スケープゴートってことか」(注5
「そう思っても仕方が無い。だがなエリ、ケガレは俺が最も信頼する男でもある。きっとお前を大事にし、どのような苦境からも守ってくれるだろう。そして、強き子を産むのだ」

なんだか、仲間はずれにされた気分だ。ボクはいつの日か、ガド兄と一緒に、ボクら支族のための平和な都を作ってやるんだって、思ってたのに……。(注6
女は所詮、子供産んで、支族を増やす道具くらいにしか思われてないんだ。
怒りより悔しさがボクの体を巡って、力が抜けてくる。
ガド兄──。
吐息みたく、ボクは呟いた。

「判ったよ。勝手にすれば……」
「そうか」
「よし決まりね! 早速準備を進めよう!」

ボクはそのまま、挨拶もしないで長老の家を後にした。


『タンタタン、タンタンタン』という太鼓の音が星空に響いてる。
大きく炎を上げてる広場の焚き火、そしてその周りで浮かれてる村のみんなを眺めながら、ぼんやりとボクは考えていた。
ケガレは悪い奴じゃない。それはよく知っている。
あれはたしか、二年ほど前だったと思う。ボクらがさらに東を求めて、このうち捨てられてた村にやってきたのは。
そこにたった一人で、一匹の犬を連れて暮らしてたのがケガレだった。
頭はボサボサ、ヒゲモジャモジャで、全身は毛皮を縫い合わせた服を纏って、まるでケモノみたいだった。
今もそうだけど、槍を背負って、腰には弓矢をぶらさげてて。もしかしたら、ボクらを攻撃してくるんじゃないかって、ガド兄がボクの事を自分の背後にやった事を良く覚えてる。
でも何故か、ケガレはボクらが訪れたら、ニカって笑ったんだよ。
その意味はよく判らない。
ケガレは、それまで住んでた村を、あっさりボクらに引き渡し、自分は村の近くに茅で作った、三角の小さな住いに引っ越した。そして、警戒するボクらに、山で取れた獲物や川で取れた魚、食べられる木の実や薬草なんかを持ってきた。笑顔もセットでね。
長老は、『きっと我々が神との契約を成した選民だと言う事を、直感で悟ったに違いない』って言ったけれど、どうなんだろうか。直に聞いたことはまだ無かった。
次第にボクらとケガレは、それとなく仲良くなっていた。村で、小さい子供たちと遊ぶケガレを良く見かけるし、狩りの時は、ケガレとガド兄が先頭に立って行うとも聞いている。村で使われてる木のお皿に、ヘンな樹液を塗って綺麗に仕上げる術もケガレから教わった。(注7
今では、現地民との物々交換の時、通訳までやってくれている。(注8
ケガレはボクら支族にとって、優秀なナビゲーターなんだ。
ただ、村のみんなは距離感を抱いてる。
それはどうしようもないと思う。
文化や考え方、宗教がまったく違うから。

「エリもお肉食べない?」

深刻なボクに対して、その彼は白い歯を見せた笑顔でウズラの丸焼きをすすめてきた。

「……いい」
「ん。わかった」

そしてケガレは今、雛壇の上でボクと一緒に並んで座ってる。相変わらずの毛皮の格好。ボクは山繭で織られた、薄緑の花嫁衣裳。(注9
長老の家での一件から三日目の夜。ボクとケガレとの結婚式が見た目盛大に行われてた。
けれど、挨拶にくる村のみんなの、『ああ、かわいそうに……』って視線と口先だけの祝いの言葉がボクを不愉快にさせる。
まぁ、そんな事はボクにとってはどうでもいい。
問題なのは、ケガレとボクが、ちゃんと結婚生活を送れるか、ってことなんだ。
ボクだってさ、覚悟は決めたんだ。他のみんながどう思っていようか関係ない。
正直、支族のために自分のやりたい事を諦める、っていうのは悔しいけど──。
ボクとケガレが結婚すれば、ケガレが村の役に立つんだからいいんだ、いいんだ……。
そう、ボクは自分に言い聞かせてた。

「ケガレ、良かったねぇ。こんなに綺麗なお嫁さん、貰えて」
「ん。オレ、生きててよかったヨ!」
「おめでとうエリ。これ、後で使って?」

ケガレがニカってして、ペコペコとお辞儀をする。ガド兄の許婚、ナオミさんがボクらをお祝いに雛壇に上がってきてくれた。
ナオミさんはボクに小瓶を手渡した。
それを見つめてきょとんとするボクの頭をそっと撫でてくれると、微笑んでボクに耳打ち。

「他のみんなはどうか知らないけど、少なくともガドと私は、貴方たちの事、応援するからね。その小瓶、中に香油が入ってるの。塗ると、ちょっとは痛いのが和らぐかなぁって、思って。わかるわよね? 意味。ふふふ」

ナオミさんは、両親のいないガド兄とボクに、家族のように優しく接してくれた人だ。何かと面倒を見てくれる、ボクのお姉さんみたいな感じ。でも、ちょっとおせっかいが過ぎるって思うこともあるけど。

「わ、わかるよボクだって! 子供じゃ、ないからさっ。……、でも、どっちに塗ったらいい?」
「んー、どうかな〜? 私もまだだから。ガドったら、お堅いんだもの♪ ふふ、エリに先を越されちゃうね。どうなんだろね、好きな人に抱かれる気分って……」
「ナオミさん酔ってるでしょ、いや絶対酔ってるから」(注10
「何のおハナシ?」
「っ! なんでもないよっっ? 関係はあるけどとりあえずケガレは、気にしなくてもいいからっ」
「ん、わかった。あ〜、ガド。こんばんわ」
「エリ、おめでとう。ケガレ。妹をよろしく頼むよ。お前にならエリを託せる。どうだ、やるか?」

今度はガド兄だ。杯を持って、ケガレの肩にどしっと手を置いた。

「今日はやめとくよ。でも、今度また朝までのもう。ガドにはもっと、コトバをおそわらないといけないからね」
「ああ。そうだ、ケガレに渡したいものがある。受け取って欲しい」
「ガド兄それって!」

ガド兄が懐から出したものを目にして、ボクは思わず声をあげた。
それは支族が昔から伝えてきたという、大事で、貴重な、ガド兄の宝物だったから。

「おー! スゴイよ! いいの? もらって」
「ケガレが持っていたほうが、価値のあるものだからな」

炎の明かりを照らして、それは揺らめくオレンジ色に輝く。
石や、青銅じゃない、鉄でできたナイフだ。(注11

「さぁナオミ、行くぞ。二人の邪魔になる」
「あん、そうね。じゃ、お二人とも頑張ってね〜♪ って、ちょっとまってよぅガド……」

宴の輪に戻った二人を目にして、ボクは少しため息をつく。お祭り好きのみんなは、もうボクらの挙式の祝いっていうより、純粋に酒盛りを楽しんでた。
もう、ボクらが居なくなっても、関係ない。
ボクはちらっとケガレを見やった。
さっきガド兄からもらったナイフを使って、もりもりお肉食べてる。

「こら」
「いて」

こめかみのあたりを殴ってやった。ケガレはきょとんとして、ボクに向き直る。

「そろそろ、いこっか……」
「どこ?」
「その、新婚の家……」

ケガレは『あっ』って声をあげて、膝を叩いた。
そう。この村では、新しく式を挙げたカップル専用の家があるんだ。ほかのみんなは一族徒党で、いくつかの家に分散して住んでる。
その、子作りに集中するため、だって……。

「そっかそっか。オレ、今日からこの村の中でくらすんだ」
「そうだよ……」
「じゃぁ、オレのかぞくも呼ばなくちゃな」
「え?」

その時、ケガレが指笛を鳴らした。大きな音で宴のみんながビックリするほどの。

「ヨコテっ!」
「わぁっっ」

林の奥から駆けて来て、物凄い勢いで雛壇に飛んできたのは、一匹の犬だった。ケガレはニコニコしながら、その犬の頭を撫でてやる。

「コイツ、ヨコテ。オレのかぞくだよ。すごくあったまいいンだぜ? ほらヨコテ、お手!」

ヨコテはケガレの差し出した手に、かぷっと喰らいついた。『こうして欲しかったんでしょっっ?!』って目をきらきらさせて、千切れるくらいの勢いで尻尾を振ってる。

「……ダメじゃん……」
「あっれーおかしいな。こないだできたんだけどな。ヨコテ、ほらはなせ。よーしよし。この人がなオレのおよめさんのエリだよ。よくおぼえるンだぞ? はいメシだ」

『ワンっ』とヨコテは一声吠えた。それから切り分けられたウズラの丸焼きに、待ってましたとばかりにかぶりつく。大丈夫だろうか。ボクの事おぼえてくれるかな。

「ケガレ、いこうよ」
「ん。わかった。たべおわったらヨコテもおいで」
「はふっ」

ボクはケガレの手を引いて、酒盛り真っ最中のみんなから迂回するようにこっそり……。

「おお、これからお楽しみね! お二人ともハッスルよ〜! はっはっは!」
「どうもどうも」
「こらっ、立ち止まんなってば!」

杖を振り上げて、モーゼの物真似をしてる長老に見つかった。みんな酔っ払ってるから、座はどっと盛り上がる。
みんなの囃し言葉に思わず恥ずかしくなり、ボクは一番近くに座ってたジルハの頭に鉄拳制裁。ぺこぺこお辞儀をするケガレを引っ張って、笑い声の広がる広場から逃げるように、新居へと走りこんだ。
新婚の家は、この村にある建物の中で一番小さい。カヤを積んだ寝床に毛皮が敷いてあって、中央に炉があるだけの簡素な家だ。
炉の中の薪は、小さな炎とパチパチと音を立てて、暖かい空気と明かりを放ってる。
晩御飯を食べ終わったらしいヨコテが走りこんできたと思ったら、さっそく炉辺に伏せると丸くなって目を閉じた。

「……ったく、あのジジィったらぁ……」
「なつかしいなぁ。ここ、オレのかぞくの家だったんだよな」
「ふぅん……。あ、そうだ、ケガレの家族や、この村に住んでた人たちってどうしたの? ボクら、よくよく考えたら、ケガレの事、あんまり知らないんだよね」
「いろいろ、あった……」

そう言って、ケガレはちょっと目を伏せた。いつもニコニコしてるケガレの、ちょっと悲しそうな、苦しそうな顔を初めてボクは見た。もしかしたら、聞いちゃいけなかった事なのかも知れない。
悪いことしちゃったかな……。
はっとして、ボクは成すべきことを思い出す。
ナオミさんから渡された小瓶を握り締め、ちょっとうわずった声でケガレに言った。

「じゃぁさ、そろそろ寝よっか」
「ん、わかった」

ボクは纏ってた薄緑の花嫁衣裳を、あらかじめ据えてあったキリの箱にしまった。みんなで使いまわすから大切にしないとね。そして麻の肌着だけになったボクは、寝床に横になり、ガド兄からもらった鉄のナイフを眺めてるケガレを横目でちらっと見てから、そっと裾をちょっと捲し上げる。
ナオミさんからもらった小瓶の封を切って、中の香油をてのひらに垂らした。小瓶をずっと握ってたから、ボクの体温が移っていて、明かりできらめく香油は、むしろ温かいような感じすらする。

「はぅ……」

そっと、ボクの一番女の子らしい部分にそれを塗りつける。ぬるりとした感触は、ボクの全身にまで広がるような気がして、思わず声が漏れた。よく馴染むように時々自分でする時より、丹念に、たっぷり。
これからする事、される事。それを考えると胸のドキドキが納まんないよ。
ケガレはちょっと変わったヤツだけど、ボクの夫になったんだ。どうか、今晩をきっかけに仲良くなれたらいい。村のみんなの為だしね──。そんな、祈りみたいな事を考えて、ボクは腰紐を解いた。

「ケガレ……」
「ん?」

ケガレが上半身を起こしたのを見て、僕は肌着を開いた。そしてケガレの隣に腰をおろして、そのままこてんと仰向けになった。

「子作り、頼むよ……。知ってるよね、やり方」
「……ん」

ボクはそっと足を割る。ケガレがその間に膝立ちになる。静かに服を脱ぐケガレが凄く真剣な顔だった。そしてケガレの肌が現れる。全身傷だらけの、ボクと明らかに違う男の裸を目にして、ボクは思わず顔を背け、視線を反らした。
そっと、ケガレの手が、ボクのアソコに触れた。

「何か、ぬってあるね」
「ナオミさんが、痛くないようにだって……。ボクは、準備できてるから、すぐして、いいよ……」

ケガレがボクの頭の両側に手をついた。ふぅ、と、彼が息をついた。ボクは目をぎゅっとつむる。
アソコに何かが触れた感触のすぐ後に、痺れるほどの痛み。ボクはそれで、純潔を失った事を知る。うめき声が出そうになるのを、歯を食いしばって堪えた。
できれば、早く終わって欲しいとボクは願った。ケガレの子種を受けるのが、ボクのする事だから。
ずん、ずんと、ボクはケガレの下で揺すられる。あまりに痛いから、ボクは余計な事を考えてそれを散らす事にした。
これでいい。ボクは女だからこうなるのはしょうがない。
子供を産んで、支族を増やすのが、ボクの使命、義務なんだ。ボクは悔しいけど、男に『孕ませてもらう』、女という存在なんだから──、と思った時だった。
ケガレが動きを止めた。

「……出したの……?」
「ダメだ。つづけられないよ」
「えっ?」

体を離したケガレはちょっと頭を振って、ボクの肌着を元に戻す。ボクは、ケガレに言った。

「……ボクなら、大丈夫だよ? 痛くなんかないよ? なんで、やめちゃうのさ」
「そういうことじゃ、ないンだ。エリはまだ、子供を作るときじゃない」
「……なに、それ……。ボクが子供だって事っ?」
「ちがう。子供を作るときは、おたがいにほんとうのきもちでなくてはダメだ」
「そんなの、どうでもいいよ。ケガレがしてくれなきゃ、ボクが困るんだ。ねぇ、続けてよ。お願いだよ」
「オレはよくない。ほんとうのきもちをおたがいにもってないと、良い子はうまれないンだ」

ボクは体を起した。頭の中のごちゃごちゃした気持ちをぶつけるように、ケガレに言った。

「……男が女の中に子種を出せば、子供はできるんだよ? そんなのケガレの考え方、ボクには関係ないよ! ……その、ケガレのだって、まだ大きいままじゃんっ! 男なんてさぁ? 女抱ければ誰だっていいんじゃないの? ボクだって、こんなんだけど女だよっ! したいようにすればいいじゃないかっ!」
「だったら今日はねよう。エリ。あわてては、いけないンだ」
「──ばかァっ!」

ぱちーんと、凄く乾いた音がした。ボクのパンチはケガレのお腹にヒットしたけれど、まるでゴツゴツした木を殴ったみたいな硬さ。そしてケガレはなんともない顔をしてボクに言った。

「ゴメンね。エリのきもちがほんとうになったら、オレ、いつでもエリをだきしめるよ。やくそくする」
「もう寝るっ。お休み!」
「ん。おやすみ……」
ボクはケガレに背を向けて、丸くなった。腿の間がヌルヌルして気持ちが悪い。
強くつむった目蓋から、悔し涙が零れるをの止められなかった。
そして、泣き声が漏れないように、ボクはまた歯を食いしばったんだ。




お腹の奥が痛い。よく晴れてる空すらムカつく。
朝、目を覚ますと、隣にケガレは居なかった。ヌルヌルを落すのに川に行こうと決め、ボクは表に出ていた。

「ボクは一体、なんなのさっ!」

天日干しを終えて積み上げられた、土器のお皿がボクの目に付いた。真上からの下段パンチでそれを残らず粉砕して、鼻で息をつく。昨日の晩の事を思い出すと、八つ当たりせずにいられなくなる。

『ちがう。子供を作るときは、おたがいにほんとうのきもちでなくてはダメだ』

本当の気持ちって、わかんないよ。
っだよ、ケガレのヤツ。

「あ〜! お、俺の作品が〜っ! あとは焼き上げるだけだったのに……」

頭を抱えるジルハを尻目に、ボクは広場を後にした。
村は台地の端にある。西側はちょっと斜面になってて、その下には小川が流れていた。
段々に切り欠かれた土の階段をうつむきながら下りるボクに、声がかけられた。ナオミさんだった。

「ずいぶんと遅いお目覚めみたいね。寝かせてもらえなかったのかな〜?」
「そんなんじゃないよ……」

小川のへりで洗い物をしてるナオミさんは、ボクの顔を見るとニヤつきながら冷やかしてきた。昨晩の事を知らないから当然だ。ボクは苦い顔をしてナオミさんの隣にしゃがんだ。

「ねぇねぇ、詳しく教えてよ〜。どうだった? やっぱり痛かった? でも途中から気持ちよくなっちゃったりした? コッチの人たちって割礼してないんでしょ? 形が違ったりするの?」(注12
「ったく、ナオミさんは……。サイアクだよ。サイアク。ケガレは、最後までしてくれなかった。なーんかさ、まだ子供を作るときじゃないんだって」
「ケガレが言ったの?」
「そう。途中で止めて。これじゃ、ボクがケガレの奥さんになった意味ないじゃんか……。 い、いててて」

ボクは片膝をついて、小川に浸した麻の布切れをそっとアソコにあてがい、ゆっくりと拭った。秋の水は冷たくて、ケガレにされた時の痛みがちょっと蘇る。内股でヌルヌルとする香油も拭きとって一度すすぐと、布には赤い染みが残った。

「そうなんだ……。まぁ、最初のうちはしょうがないかもね。もっとお互いに、判り合う必要があるんじゃない? エリも、最初失敗したからって、あんまり気を落さないでね♪」
「いっつ……、どうかな。次は無いかも。っていうかボクはあんまりその気は無いな。気持ちよくなかったし」
「気長にさ、頑張んなさいよ。もしかしたら、ケガレの良い所が見えてくるかもよ? ガドが言ってたけど、ケガレは本当にイイ奴なんだって。村の誰より勇敢で思いやりもあるって。だから、エリのダンナに推薦したんだって」
「ヒゲは生え放題だし、毛皮いっつも着てるし、あれじゃケモノだっての。イイとこなんてあんのかなぁ……。思いやりがあるんなら、最後までしてくれたほうが、どれだけ……」
「男は見かけじゃないわよう。見かけが良ければ尚、良いけれど。それにケガレなりの考えがあったんでしょ? 今度聞いてみればいいじゃない」
「うーん……」
「そうだ。ケガレなら朝からガドたちと狩りに行ってるわよ。エリのためにたくさん獲物取ってくるって、張り切ってたっけ」
「……っそう。わかった。でも、村のみんなには悪いけど、ボクとケガレ、うまく行くかしらないかんねっ。じゃ、ボク帰るから」
「うん。また後でね……。あまり気負わないでね、エリ」

ボクは布をぎゅっと絞って、小川を後にした。頭の中はケガレに対するイライラで一杯だ。土の階段を駆け上がりながら、ボクは不貞寝する事に決めた。


「ただいま〜。エリ、シカが三頭も取れたヨ! 今ね、広場で丸焼きにみんなに切り分けてる……。あれー、寝てた?」
「……ん……?」

もう夜になってたみたいだ。能天気なケガレの声で起こされたボクは、思わず意地悪な行動を取った。横になってるボクを覗き込むケガレに対して、背を向けるように寝返りをうった僕は、小さい声でうそぶいた。

「具合悪い……」
「っえ!? それはよくない! ちょっと待ってて? 今、お薬いろいろとってくるから!」

ケガレがそう言ったと思ったら、地面を蹴る音と戸を勢いよく開ける音、そして、ヨコテがワンワンって吠える声が続いた。

「……あれ……?」

程なくしてヨコテと一緒に帰ってきたケガレは、薬草やらなにやらで一杯にしたカゴを抱えて、ニカっとした笑顔でボクに言う。

「いろいろとって来た! どこが痛いの? 頭? お腹? とりあえず、よく眠れるお薬つくろっか?」
「な、何でも……」

丸い葉っぱやギザギザの葉っぱ、ボクには林に生える雑草と何ら変わらないように見える葉っぱをいくつか選択したケガレは、それらを一緒くたにクルクルと丸めて親指の頭ほどにすると、ボクに差し出した。

「コレ、奥歯でよくかんで。それで出る汁をのみこむと、落ち着いて、ぐっすり眠れるヨ!」
「いいよ、だ、大丈夫だよ……、あ、ありがと、気持ちだけもらっとくよ」

ケガレはぶんぶんと首を振ると、毛むくじゃらの顔を近づけてボクを睨みつけるように言った。

「ダーメ! 念には念をおして、当分寝ておいたほうがいいヨ! はい、アーンして、アーン……」
「ちょ、放せ、コラ……、あ、がが、あ〜っ!」
「ほらよくかんで」
「ん、ん〜っ! んっ……。う、うぇ。苦……」
「よしこれで大丈夫」

ボクのアゴを押さえて、もぎゅもぎゅと薬草のかたまりを無理やり噛ませたケガレは、うんうんと笑顔で頷いて仕上げにニカっと笑った。ボクの口の中で広がる何ともいえないエグみと苦さのハーモニーとの絶妙な対比だ。

「吐き出さないで、今晩ずっとかんでててネ。さぁ、お休み……」
「うう〜……」

肩をつかまれて横にさせられると、確かに眠気が襲ってきた。昼間あんなに寝たのに……。
些細な嘘だったのに、ケガレはボクの事をえらく心配する。そこまでされると、なんだか心が痛くなる。
そう感じてる頃合に、ボクの目蓋は勝手に下りはじめた。

次の日はケガレが言いふらしたのか、朝からガド兄やナオミさん、長老たちがボクを見舞いに来た。みんなから掛けられるいたわりの言葉を右の耳から左の耳に逃がして、しょうがないから具合悪いフリ。余計なことして……。
来る人みんなにペコペコとお辞儀をするケガレは、事あるごとにボクへ『具合、どう?』とか『よくなった?』と聞いてくる。
御飯だよって、焼き魚をお皿でほぐしてボクに食べさせる。
寝っぱなしでペコペコだったお腹にそれはたまんなく美味しかった。

「ヤナを仕掛けたら今日も大量だったヨ! おサカナは栄養いっぱい!」
「ガドから今日も言葉を教わったんだ。ちょっとは上手になった?」
「エリが良くなったらクリを取りにいこう。オレのご先祖様が植えた、おいしいクリが成る木がちかくの山にあるんだよ」
「なんだかオレばかり喋ってるね、でも、すごく言葉の練習になるヨ。コツ、判ってきたんだ」

笑顔のまま、ケガレはボクにたくさん話し掛けた。ボクは素っ気無い態度で、小さく、うん、うん、と頷く程度。
ボクは考えていた。ケガレの事を、ちょっとね。
ズレてはいるけど、大切にしてもらってるんだな。
うー……。

「クリかぁ……。いいね。いこっか」
「ん、判った!」

モヤモヤした気分を拭い去りたい。きっといい気分転換になるだろうとボクは思った。


落ち葉が覆った広めの山道を歩くと、サクサクと音を立てた。ケガレとヨコテの後をボクはカゴを手に持ってついて行く。まだ木々についてる葉っぱはどれも色を変えてて、この道をもっと落ち葉だらけにするのは時間の問題だろう。
大事をとって、と三日間寝かされたボクに外の空気はちょっと冷たかったけれど、心地良かった。背伸びをすると、背骨がポキポキと鳴る。

「あー……。ここからだと、村が小さく見える……」

いつも村から見えるこの山に登るのは、ボクは初めてだった。とはいえ、村に居る女の人はみんな、滅多な事がない限り村を出ることがないけどね。
木立の切れ間から見下ろしたボクたちの村は、森の台地に浮かぶ島みたいだった。そんなに遠くまで来たわけじゃなかったけれど、村を囲む自然がずっとずっと続いているから余計小さく思える。

「狩りはネ、大体この山と、さらに向こうの山でしてるんだよ。シカ、イノシシ、ウズラ、他にもたくさん居るよ。冬が来てもメシに困らない」
「そうなんだ。……でさぁ、ケガレは狩りの時って、いつもそんなカッコなの?」
「ん、そうだよ。似合ってるかい? ははは」

ぱかっと開けられたイノシシの口の中で、ケガレは笑った。
ケガレが毛皮を着てるのはいつもの事だけど、今日はより一層、ケガレはケモノみたいだった。イノシシ一頭分の毛皮を頭からすっぽり被って、突き出た手足も、毛皮の筒に通してる。地肌が覗けるのは、顔だけっていうフル装備。
一言で言うと、茶色い毛むくじゃら。さらにケガレは手に槍を、ツタで編んだ長いロープを束ねて背負って、腰は長細い毛皮で作られた弓矢入れを吊るしていた。

「毛皮着てると、ケガしないからね。でね、エモノがいたらこのヤリと弓矢で捕まえる。折角山に来たんなら、クリだけじゃなくてメシをたくさん取っていかないと」
「そのロープは?」
「この縄はね、先っぽがワッカになってて、ぎゅっと締まるようになってる。片方を木に縛って、ケモノ道に仕掛けるんだ。タヌキがよく取れるヨ」
「へー……。あ、あれ、ウサギ?」
「ホントだ」

山頂側、左手の方の斜面から飛び出して来て、山道を横断しようとした茶色いウサギは、ボクらに気づくと警戒するように耳を立ててコッチを向いた。
それが命取りになった。ぴゅん、という音の後、そのウサギは左眼を矢で打ち抜かれて後ろに吹っ飛ぶ。

「うわ……っ」
「やった! さっそくメシが取れたネ! ヨコテ、行けっ」
「ワンっ」

元気な返事でダッシュしたヨコテは、まだピクピクしてるウサギをくわえると猛然とUターン。ケガレはヨコテからウサギを受け取ると、歩きながら鉄のナイフをウサギの首に当て、さっと横に払った。

「血抜き血抜き♪」
「ぅわぁ……」
「今日は幸先いい。きっとクリもたくさん取れる。もうすぐそこだからネ」

って、ケガレはニカって笑った。
ケガレが手にするウサギからしたたる血は、落ち葉に点々と赤い後をつけていく。それを避けながら登り道を進んでると、たしかにケガレの言うとおり、山道が二手に分かれた。
先は平坦になっていて、大きな広場。その真中には太くて高い大きな木が、茶色くなった葉とイガグリをぶら下げてそびえている。下草の間からは、コブのような根っこが所々に顔をだして、これだけの広場を独り占めしてるようなクリの木だった。

「エリ、到着だ。……ありゃ、まだ実が落ちてない。この木はチカラがあるから、まだ葉っぱもクリも落ちないんだな。ちょっと早かった」
「……すごいおっきいじゃん。これ、ケガレのご先祖が植えたって本当?」
「ホントだよ〜。クリが取れるだけじゃなくて家の柱とかにもなるから、ご先祖さまはだいぶ昔から、木がよく育ついい場所には、クリの木を植えてきたんだヨ。このクリの木もそうなんだって昔、親父から聞いた」(注13
「そうなんだ。でも、ホント、ちょっとしか落ちてないよ?」
「うん……。ちょっと待っててネ」

そう言ったケガレは、助走をつけてクリの木にドロップキックを叩きこんだ。
でも、その衝撃は枝をちょっと揺さぶる程度でしかなかった。申し訳程度に、二つ三つのイガグリがポトリ、で終わり。

「ダメだな……。エリ、オレちょっと登ってくるヨ! ヨコテ、ウサギ喰っちゃダメだかんな?」
「え、登んの?」
「そうだヨ〜。たくさんイガグリ落すから、気をつけてね」

ケガレは持ってきてた狩りの道具を木の根元に放り投げると、軽々と太い幹に飛びついた。掴まる枝など無いのにしがみついた格好でするすると、器用に登ってく。
実はボク、ケガレの目が余所に行くタイミングを計ってた。
ちょっと、トイレ……。

「こら、ヨコテついてくんなってば……」

広場の端のヤブに向けて、ボクは小走りした。篠竹をちょっとかきわけ、木の上のケガレから覗かれないような所へと──。
そのとき、ヤブの奥で何かが動いた。尻尾を振ってついてきてたヨコテが、その方向に向けていきなり唸りだす。
『ばふっ』という何かの音。そしてすごい臭い。村の男たちが、狩りの獲物を担いで帰ってきた時に感じる、なんとも言えない生々しい臭いがした。
何か、居る。間違いない。そう思った時だった。
立ち上がる大きな黒の巨体。
胸には白い毛。
明らかに人じゃない。
──クマじゃんっ!

「あっ、えっ……。や、やんのかコラ──っ!」

──脅かしたら逃げるかと思ったんだよ。でも、クマはやる気満々だったみたい。もう一度四つんばいになったクマは、ボクに向けてヤブの枝をバキバキと折りながら近づいてきたんだ。(注14
いや無理、無理だから!
ボクは一目散にUターンした。とにかく、あのクリの木を目指して。走る僕の耳に、クマが地面を蹴る音が届く。ボクの駆け足より早いケモノの蹴り足の音。
思わず走りながら振り返った時だった。足が何か──おそらく根っこ──にとられ、ボクの体が宙に舞う。

「──っ?! ったぁ! え、うぁ!」

クマはすっこけたボクに向かって一直線に走りこんでる! 悲鳴を上げる前に餌食になる、そんな事を考えた瞬間に、ボクの頭の上を鋭く、風が通った。

「エリぃっ!」

ケガレ!
風は、ケガレの放った矢だったんだ。頭を伏せたボクの上を、さらに、さらに矢が通過する。放った矢すべては当たり、クマは嫌がるように突進を止めた。
生まれた僅かな隙。その間にケガレは駆け寄り、ボクとクマの間に割って入った。

「オレの嫁さんおそったら承知しないぞ! こらクマ、山に帰れ! がおー!」
「ワンワンワンっ!」

槍を構えたケガレとヨコテがクマを威嚇する。でもクマは、怯んだ様子をちょっと見せただけで、矢が刺さったままで再び立ち上がった。
うわ……。
クマはケガレよりも、さらに背が高かった。
横幅は倍以上。太い腕に、とんがったツメ。
そして、黒くて小さい目は明らかにケガレを睨んでいる。
きっと自分よりちっぽけなケガレやボクが、ご馳走に見えるんだ。開いた口からはヨダレを一杯垂らしていた。

「……ぜんぜん逃げない。人の匂いを追ってきたのか……? エリ逃げろ。このクマ、きっと人喰った事ある!」
「う、うん……。っあ、うう、足、挫いたっぽい……。」

ちらっとボクを見やったケガレは、クマに向き直った。

「……ヨコテっ!」
「ワンっ!」

それが合図だった。ケガレとヨコテが、同時に動いた。
ヨコテは大きく吠えながら、クマの背後へと回る。小賢しいとばかりに、クマがヨコテに振り向く。その隙にケガレが槍でクマの脇腹を突く。
仰け反るクマ。そして尻尾に噛み付くヨコテ。嫌がるクマが体を捻ってヨコテを振り払おうとすると、さらにケガレがクマの首筋に槍を突き立てた。
ばうっ、と、クマが大きく咆える。
あっという間の連続攻撃をたたみ掛けたヨコテとケガレが、再びクマを挟み込むような位置取りで身構えた。
すごい。
勝っちゃう。ケガレ、あんなおっきいクマ、倒しちゃうよ。
ケガレに言われた逃げろという言葉を忘れ、ボクは尻餅の格好でケガレとヨコテの戦う姿を食い入るように見つめていた。
いつもニコニコしてるケガレが、自分の尻尾を追ってぐるぐる回ってたりする頭悪いヨコテが、これほどに猛々しいなんて。

「さっさと山に帰れ〜っ! やっつけるぞ?!」

矢が刺さったまま、刺された所から血を滴らせてるクマは四つんばいのケモノの格好に戻ると、大きく迂回するようにクリの木へと走った。
とうとう、逃げ出した──?
ううん、距離を取って一度体勢を整えようとしたのかもしれない。でも、それはクマにとって失敗だった。
駆け込んでくケガレを迎え撃つように、クリの木を背に立ち上がったクマは、自分の強さを誇るかのように両手を上げる。でもケガレは全然怯まない。
助走をそのまま、槍を突き込んだケガレはさっと槍を放して身を屈め、木の根元に置いてあったボクのカゴを掴んだんだ。そして、血飛沫を飛ばして振るわれたクマを腕をくぐり抜け、クリの木を蹴って高く跳んだ。でも、カゴっ──?

「こんにゃろっ!」

──真上からクマの頭に、被せたぁっ?!
視界を奪われたクマは、酔っ払ったかのように、ふらふらとおぼつかない足取りで腕を振り回した。
あははっ。駄々をこねる子供みたいだっ。

「いけーっ、ケガレ! っいて!」

的外れのクマパンチがクリの木に当たると、物凄い音と、大地を揺らすほどの衝撃がボクのお尻にも伝わった。そして時間差でイガグリが夕立みたく降ってくる。そのうちの一個がボクの頭に直撃。
その中でケガレは、カエルみたく身を伏せて、クマの足にザクっとナイフを突き立てた。
ばうぅぅっとクマがまた吠え、腕を振り下ろしても、そこにケガレはもう居ない。
一刺しごとに素早く移動してさらに、さらに、ナイフは突き刺さる──
きっと、足を痛めつけて、クマの動きを封じるつもりなんだ。
ボクはケガレの勝利を確信した。
けれど、クマはボクの想像以上にタフでワイルドだった。

「──ぁっ!」

身を翻したクマの頭からカゴが外れた。うねるような動きで横に振られた腕は、地面スレスレのケガレの頭に当たり、彼を軽々と吹き飛ばした。
落ち葉を巻き上げて、ごろごろと転がり、うずくまるケガレ。
そして、クマは四つんばいになって、ボクに振り返った。

「……え……?」
「ワンワンっ!」

ヨコテがボクを庇うように、サイドステップしながら吠え掛かるけど、クマはお構いなしにボクへと歩み始めた。
もう、ケガレたちの相手をやめたんだ。
きっと、ボクだけでも食べてやるって決めたんだ。
足を引きずりながら、刺さった槍で地面をガリガリいわせながらクマは近づく。
ボクは足の痛みを堪えてでも逃げなきゃならない。
でも、体が、動かない。
頭を振って起き上がるケガレが見えた。
ヨコテが背後から飛びかかり、クマの右耳に噛み付いた。クマはブルブルっと頭を振って、右耳ごとヨコテを振りほどいた。
粟粒ほどの血を撒き散らして。
クマの歩みがステップに変わり、ボクへの助走になる。
こんどこそもうダメだ。
そしてクマが飛び掛ってきた。

「──っ?!」

最初は何が起こったのか判らなかった。
ボクに飛び掛ったクマは、いきなり見えない壁にぶつかったかのように、墜落したんだ。イガグリが落ちるほどの衝撃と共に。
でも、クリの木からクマへ、一直線に舞い上がった落ち葉でボクは理解する。
クマの右足には、ケガレが持ってきてた罠のロープが食い込んでる。
その端をクリの木に巻きつけ、歯を食いしばってケガレが掴んでいた。
おそらく、伏せながらナイフを振るってた時に、罠のワッカをはめたんだ。

「うぉぉぉぉおおっ!」

一直線になったロープに添って駆けてきたケガレは、伏せるクマに飛び乗った。
たくさんの落ち葉が舞い降る中、ケガレは背筋を真っ直ぐに伸ばし、両腕を空に突き上げる。
逆手に持った鉄のナイフが煌めいた。

「っがあっ!!」

立ち上がろうともがいたクマの後頭部に、体全体を埋め込むかのようにケガレが一気に、
ナイフを突き立てる。
瞬間、クマはぴたりと動くのをやめ、そのまま地面に、ぺしゃりと崩れ落ちた。

「はぁ、はぁ……。もう大丈夫だ。命のスジを切ったから。でも、クマの力はすごいな。クリの木が丸裸になっちゃったヨ」
「ケガレ、血でてる……」

クマから下りたケガレはイノシシのフードを外して、いつもの笑顔をボクに向けた。その口の端と、頭から赤い血が滴ってる。

「大丈夫。ツメでやられてないから。それより、エリの方が心配だよ。立てる?」

差し出された手をつかみ、腰を上げたときだった。お尻、冷たい。
ボクは、その、もらしちゃってたみたいんなんだな──。
ケガレはきっと気づいてたと思うけど、さっとボクをおぶった。

「さぁ、村に帰ってみんなを呼ばなきゃな。ウサギは持って帰れるけど、クマは無理だもんな。あと、拾いきれないほどのクリもある。行くぞ、ヨコテ」
「ワン!」
「その、ありがと……」
「女を守るのは男の仕事! ヨコテも居たし、二対一なら絶対コッチが勝つヨ! ははは」

怪我してるくせに。
ギリギリだったじゃんか。
ケガレの背中に頭を預けたボクは、もっと大きな声でありがとうって言わなかった事を後悔していた。



こないだと同じように、夜空に太鼓の音が響いてる。
ケガレがクマを倒したというのは、お祭りを起こすのに十分なイベントだったらしい。
ただ、主役なはずのケガレと、無事生還したボクは家に居た。
今ごろは宴の主役として、ヨコテがご馳走を振舞われてると思う。

「……ケガレもさぁ、広場、行ってくれば? ──んっ」
「いいヨ〜。エリの足、ちゃんと直るようにみる方が大事。ナオミさんが肉焼けたら持ってきてくれるって言ってたし」

カヤを積んだベッドに腰掛けたボクは、両足を放り出し、それを跪いたケガレに預けてた。
ボクが挫いた右の足首を、さっきからずっとマッサージしてもらってる。ケガレが言うには、挫くにも色々種類があって、きちんと直さないと後でまた悪くなるんだそうだ。
明かりと温かさを生んでる焚き木が、ぱちり、と音を立てて少し崩れた。

「……ねぇ、ちょっといいかなぁ……」
「ん? なあに、エリ」
「ケガレさぁ、ボクと結婚した事さぁ、後悔とか、してない?」
「そんな事ないヨ〜。オレにとって、新しく家族ができるって事は、すごく嬉しい事だから。毎日、楽しくてたまんないヨ。ここまで曲げると痛い?」
「──んー、ちょっと……」
「外れてたんだ。きちんとはめたからきっと良くなるヨ。あんまり腫れてないしね。もうちょっと揉んでおこう」

さっきから、ナオミさんから言われた言葉を思い出している。
『いろいろ聞いてみればいいじゃない』
ボクが新しい家族なら、ケガレにも元の家族があったはず。クマより強いのは判ったけど、やっぱり知らない事だらけだ。いい機会。ボクはケガレに言った。

「ケガレってさ、何で一人になっちゃったの? それだけじゃない。この村だって、元々誰か、ケガレたちの一族が住んでたんでしょ? こないだ聞こうとしたら、ケガレ、言いたくなさそうだったけどさ、ボクはケガレの奥さんなんだから、知る権利、あるよね?」

ずっと足首に目をやってたケガレが、ちらりとボクの顔を見た。
すぐにそれを戻すと、いつもらしくない、元気の無い笑顔で言った。

「……ああ、そうかぁ。そうだよなぁ……。オレ、まだエリたちの言葉がそんなに上手じゃないから、うまく言えるかなぁ」
「いいよ。すごく知りたい」
「ん……。どんくらい前かなぁ。たしかにね、オレらはこの村に住んでた」
「オレら、ってのは、ケガレと同じコッチの人ってことだよね?」
「そう。のーんびり、暮らしてたヨ。親父、おっ母、ねえちゃんと、弟、あとムラのみんなたくさん。みんなオレみたいな格好だから、エリたちが見たらビックリしちゃうヨ。きっとね。ははは」
「それで、その人たちドコ行っちゃったの? ケガレだけ残して」

一度、ケガレの手が止まった。それから、ちょっとため息をついて、ケガレが口を開いた。

「ガキのころからオレ、狩りが得意だったからさ、冬にそなえてムラの大人たちと、ちょっと遠出してケモノを追ってた。何日かして、たくさんの獲物を担いでムラに帰ってきたら、オレの家族みんな、お、おっ死んじまってたんだよな。なんか悪いモン食ったのかもしんないし、病気かもしんないな。理由はわかんなかった」
「そうだったんだ……」
「そしたら、ムラ長が言った。『フキツな死でこの土地はケガレた。そしてお前の一族も。俺たちは新しい土地に移る』って」

ケガレ──?

「ちょ、ちょっとまって、ケガレって──」
「汚れてるとかって意味のオレらの言葉なんだ。ケガレはオレの本当の名前じゃないヨ。初めてエリたちにあった時、『ここはケガレてるヨ?』って言ったら、そのままオレの名前になっちゃった」

そんなレベルでボクたちはケガレ、いや、彼の事を知らなかった事になる。

「じゃぁさ、ケガレの本当の名前って、なんていうのっ?」
「もう忘れちゃったなぁ……。でも、ケガレって名前はけっこう気に入ってるヨ。まったく、新しいオレになった気がするから。エリたちは、ケガレたオレをノケモノにしないもんな」
「ノケ、モノ……」
「オレらの言葉で、仲間はずれとか、そんな感じの言葉だ。ムラを捨てたみんなを、オレは追ったよ。でも、ケガレは去れって、弓でうたれた。オレになついてた子犬だったヨコテだけが、残った」
「──ひどいじゃんっ、そんなの、迷信だよ」
「しかたないヨ。そうやってオレ以外のみんながうまくいくなら。それに、ノケモノになったオレにも、こうやってキレイな嫁さんができた。ヨコテもいる」

ボクは左足を寄せて、膝を頬杖にした。
改めて足元のケガレを見つめた。
ただ能天気なヤツなのかな〜って思っていた。
クマに挑んだ時のケガレの目。
今、ボクに語った辛い過去。

「よし。もういいかな。──あっ」
「ん?」

いきなり、ケガレはバチっと横を向いた。何故かはすぐわかった。左足をたぐったおかげで服の裾がまくれて、ボクのアソコが丁度、焚き火に照らされケガレから丸見えになってるんだ。

「──あはは。いいよ、別に……。そうだ。アレ、教えて。ケガレの言っていた、本当の気持ちってのを──」

ケガレは横をむいたまま、視線だけをちょっとボクに向けた。

「ん〜。ホントの気持ちはね、なんと言うか、よく説明できない。でも」
「でも?」
「エリ、オレと一緒になって、今初めて笑ったヨ。こないだの気持ちとはちがうと思う。今、エリはいいおっ母になる感じがする」
「だったら、できるかな……?」

ケガレが、やんわり頭をボクに向け始めた。

「したい?」

ぶん、って音が出るくらい、大きくうなずいた。

「する?」
「する!」
「っう、ちょっと、まった。こないだ、結構痛かったんだ。だから、ボクのタイミングで、やらせて、欲しいんだけど……」

気がつくと、っていうのがピッタリだ。ボクはケガレに肩を掴まれて、一瞬で押し倒されてた。目の前のケガレの顔が、すごく真剣でボクは思わず吹き出しそうになる。

「こらぁ、そんなにしたかった?」
「そりゃ、したいよ、したかった。エリの足首揉んでて、オレ、すっごいドキドキしてたよ。今すぐにでも、したい」
「……じゃぁさ、ボクが上になっていい?」
「ん、わかった」

そしてボクとケガレが、クールダウンするかのように、いったん離れた。お互い立ち上がり、そろそろと着てるモノを脱ぐ。
炎に照らされたケガレの体は、所々に影ができるほど鍛えられてて、逞しかった。
本当の気持ちってのが何なのか、上手く言えないとケガレは言ったけど、ボクはなんとなく判った気がする。
結婚した夜、ボクは『させてあげる』って気持ちだった。
今、ボクはケガレと『したい』。
ケガレを夫として認めたとか、ボクが妻としての自覚を持ったとかじゃなく、ただ、彼と家族を作ること、子作りする事をボク自身から望んでる感覚。
なんでそうなったかは──、はは。やっぱり、上手く言えないや。
ボクの顔が勝手にほころんだのを見たのか、ケガレもニカっとやる。
目を合わせたまま、カヤのベッドに横になった裸のケガレ。同じく裸になったボクは、膝立ちで彼の腰にまたがった。

「足、大丈夫〜?」
「……うん」

あの晩みたく、香油は無い。そっと膝を折ると、ボクのお腹の底にケガレのが当たる。
濡らさなきゃ、とボクは思った。
ゆっくり、静かにボクの割れてるトコロをケガレの反り返ったアレにあてがい、ボクはこすりつけるように、少しずつ腰を動かし始める。

「ん……」
「エリは柔らかいなァ」

間延びしたケガレの感想に、ボクは眉をひそめて小さく笑った。ケガレのが、硬いんだよ。ケガレは全身が、硬いよ。
ボクはそんなに、柔らかい?
きっと誰よりケガレは硬く、そして強いね。ボクは今日それを知ったんだ。
じっと見つめられる中、ボクは腰をなでつける。
すごくドキドキするのにあわせて、ボクの奥から滲んでくる。
ボクが動くたびに、ちいさな水の音がする。
すると、ボクが言う前にケガレが動いた。
ボクがしてあげようと思ったのに、絶妙のタイミングで言った。

「エリ、いくよ」
「いいよ──」

ボクの腿に触れたケガレの手が、すすっと腰にまで登る。その指に力が込められると、ボクは軽々と持ち上げられた。
一度、熱いケガレのからアソコが離されると、温度を失って冷たい感じがした。それは寂しい気持ちによく似ていた。でも、すぐさまお腹の底にケガレのが、今度は先端があてがわれる。そしてケガレがボクの事をゆっくり、降ろしはじめた。

「う……、あぅ……」
「エリ……」

こないだ痛かった、って言ったからからかな。優しいね。じわ、じわと、ケガレがボクのアソコに埋まってく。痛みは、驚くほどに無かった。まだ二回目なのに。
やがて、ボクはケガレの腰の上に、ぺたんとお尻を下ろすような格好になった。
ああ、なんか、判る。ケガレの形。ぐーん、ぐーんと、ボクを動かすんじゃないかって思えるほどに動いてるから。

「ああ、もうダメだ、う、あっ!」
「え、えぁ……っ?」

ぐーん、ぐーんが、ぐん、ぐんってなって、ボクのアソコの奥でケガレのが膨らんだ。
いや、違う──。

「出したんだ、子種……」
「ん、出た。でも、ずっと我慢してたからもっと出る。もっとして、いい?」
「いいよ。ケガレの好きなようにして」
「じゃぁ、今度はオレがしてあげるヨ」
「わかった……」

もっと触れ合ってたいよ。もっとケガレを教えて欲しい。ボクはそう思った。
ケガレにまたがったまま、ボクは体の力を抜き、その硬い体に被さる。額を胸に当てると、生き生きとした岩みたく感じた。
ケガレは、今度はボクのお尻に手を当てた。そして、その強い力でボクの全身を揺さぶり始める。思わず、声がもれた。
ちょっと、ヘンだ。イヤじゃない、ヘンな感じ──。
さっき出されたケガレの子種が、ボクの体に変化を呼んだのかもしれない。クマをも倒すケガレのなんだから、不思議じゃない。
ボクのお腹の奥が勝手に動いてるんだ。ボクのアソコを小突く、ケガレの動きとは違う。
ぶるぶるとお腹の奥が、何かに目覚めたように震えてる感じ。
寒くて凍えるように、心地良さに身震いしてる。

「──あ、うぅ……っ」

ケガレの胸に額を押し付けたままで、ボクはうめいた。ケガレの息遣いがボクの耳に届く。ボクより、ケガレは全然余裕みたいだ。
ボクは結構、それどころじゃなくなってきてた。
じんじんと背筋を駆け上ってるのは、新しいタイプの気持ちよさだった。たまに一人でする時のとも違う、じわじわお腹の奥に、心地良さがお湯みたくたまってくんだ。
アソコからもそれが漏れてるかのように、水のこぼれる音が止まらない。
でも、それでも、どんどん気持ちイイはたまってく。

「あああ、ん、あっん、ケガレ……、はぁぅ、んん……っ!」
「なに? エリ」
「あう、んっ、ううぅ……っ! あっ、あっ、あん、あっ」

お腹の奥の動きは、そのままボクの体全体に移ってきて、ボクはケガレの上で震えた。
ぎゅーっと、体が勝手に縮こまるんだ。勝手に胸から空気が吐き出されて、えずきながら泣いてるような声を上げた。
その声がよく聞える。焚き火が跳ねる音も、表の太鼓のリズムも。ことりと、戸が動いたような音も──。肉もってきてくれたナオミさんかな? まぁ、いいや……。
お尻に食い込むケガレの指に力が込められてきた。
ボクが揺れるピッチも早まる。

「ああ、エリ、また出ちゃうヨ……」
「……っ、ん、いいよ、欲しい、出して、ケガレっ」

太鼓のリズムを追い越し、ボクがケガレの上で跳ね、それをケガレが掴まえてくれた時だった。

「う、おぉ……」
「いいっ、あ、ああ、ふぁ、あぁ……」

また、ぐん、ってボクのお腹の奥が強く押された。どくん、どくん、とボクのお腹の奥に、ケガレの子種が放たれる。すると、それを吸い上げるように、ボクのお腹は力強く波打つ。
その時が、めまいがするくらい一番気持ちよかった。
ボクの体はすごくケガレに惚れてるみたいだ。
本能かな? ケガレなら、ボクを本当に、大事に何があっても守ってくれるって悟ったからなのかな。
それは今、どうでもいいことか。
だってもう──

「ふぁ……」
「ああ、うれしかったな。エリ、これから、毎晩子作りしよう。オレ、エリとの子供に早く会いたい。家族ふやしたいヨ」
「うん」

──ボクはケガレの奥さんなんだから。
荒れた息をなだめるように、ボクはケガレに体を預けて、力を抜いた。
アソコはケガレのを咥えたまんま。余韻がまた、心地いい。
ボクはケガレに言った。ずっと、心にくすぶってた事を。

「ボクは、船の上で産まれたんだって。この土地に来る途中で。そのとき、沢山の船でやってきたらしいけど、嵐でボクらが乗ってる船以外、沈んじゃったんだって……。ボクの両親も、その時死んじゃったらしい」
「そうか〜。かわいそうだな。エリも」

ケガレがボクの頭をそっと撫でた。

「この土地についてからさ、ボクらは慣れない暮らしでどんどん減ってった。どの野草が食べれるのか、狩りはどうすればいいのか、みんなよく判らなかったんだ。お腹を減らして、たくさん死んじゃった……」
「オレらは、親父たちから教わってるからわかるけど、エリたちは大変だったんだな。ガドもよく言ってた」
「ボクはね、ある日言った。ボクも狩りに連れてってくれって。そうすれば、少しでも食べ物が獲れるかもしれないって思ったんだ。でも、エリは女だからやめとけって、言われた……。ボクはバカじゃないかって思った。生きるか死ぬかなのに、女だからとか、古い事言ってさ」
「ガドが、それでエリが男にまけないぞって性格になった、って言ってたヨ」

やっぱガド兄だ……。よく、判ってる。

「んで、ガドがね、新しい考え方を作ろうっていった。ケガレ、お前エリと一緒になれ、それで新しい考え方を作るんだ。そう、オレに言ったヨ」
「……そっか、いいね。さすがガド兄だな……」

ボクはすごく眠くなった。ケガレの体は温かく、心地いい。
新しい考え、新しい生き方ってのは、どんなのだろう。
ノケモノにされたケガレと、余所者のボクらが、一緒になってどんな暮らしが生まれるのかな。
それはまだ、判らないけど、ただ、ケガレとの結婚は、ボクにとってうってつけだって事が、判った気がする……。

「おやすみ、エリ。オレも、寝る」


それから──。
ボクが自分の事をボクと言うクセはまだ直っていない。ただ、ボクは今、ケガレが昔使ってた言葉を喋れるようになっていた。
ケガレも、ボクたちの言葉がだいぶ上手くなった。
ケガレが言ったように、毎晩子作りしたあと、ボクとケガレは色んな事を話し合う。
ボクらの持ち込んだ技術と、ケガレの智恵を上手く繋ぎ合わせるにはどうすればいいか、そんな事を。
ちなみに、狩りには連れてってもらってない。だって、狩りならケガレがいるもの。
ボクはどんなに頑張ったって、クマに勝てないしね。
それに──。

「ふぁ……、やっぱ重いな、動くともう暑いね……」
「エリ、家に居れば良かったのに。オレがなんでも、やったげるよ」
「ダーメ。だって、ガド兄とナオミさんの結婚祝いだもん。ボクもやらなきゃ」

表はだいぶ暖かい。ボクはケガレの子供を身篭り、だいぶお腹が大きくなった。
正面にそびえるケガレがクマを倒した山は、青々として眩しいくらいで、きっと今年もたくさんの収穫をボクらに与えてくれるだろう。
村の脇、ボクとケガレはガド兄とナオミさんが結婚するのを祝って、クリの苗木を植えることにしたんだ。
さくさくと地面を掘るケガレの、麻の服に汗がちょっと染みてる。
そう。ケガレは狩りに行く時以外は、ボクらと同じ格好をするようになった。ぼさぼさの髪はまとめて後ろで結い、ヒゲもアゴのところだけ残して、全部剃るようになったんだ。
ケガレがかつてボサボサだったのは、イレズミが無いのを隠したかったんだって。

「ここはクマの骨を埋めたところだから、きっと強いクリの木になるよ〜。あ、エリ、お乳出てる」
「あ、ほんとだ。もうじきなんだな、生まれるのも」

胸に染みが広がってた。最近、ますますボクは母親っぽくなってる。

「オレ吸ったげるよ」
「こら」
「いて」
「外じゃダメだっての。まったく……」

ケガレはなんかね、すごくお乳を吸いたがるんだ。力が湧くって言ってさ。
ボクの服をまくって、口を乳首によせようとしたケガレの頭をはたくと、ちょうど長老とガド兄がやってきた。

「ほほほう。仲良くやってるようね。良い良い。さぁ、祝福を終えた苗木を持ってきたね。では、村を代表して、ケガレ、エリ」
「ん、判った」
「おっし。おっきくなりますように……」
「そんなに強く土を固めちゃ駄目だよ。根っこがよく伸びるように、柔らかく盛ったげるんだよエリ」
「判ってるって……」

ガド兄がボクをケガレに肩に手を乗せ、珍しく笑顔で言った。

「ありがとうケガレ、エリ。感謝する。そして、長老──」
「なにかな?」
「俺とナオミの結婚を契機に、我々支族は戒律を改めようかと思います。族長である俺の意見です。異論は、ありますか?」
「──え?!」

ガド兄が自分の口で、長老にそう切り出したのは初めてだと思う。でも、長老は白いヒゲを撫でながら、何故だか嬉しそうに笑った。一番反対しそうなのは長老なのに。

「ふむ。そうね。我等支族の戒律は、先祖が生まれた土地のものだ。この土地に相応しいとは限らんからね。これで、イノシシとやらも食べられるようになるね」(注15
「申し訳ありません。神を信仰する気持ちだけは、忘れません」
「オレ、神様たくさん知ってるから、エリの神様も混ぜてあげるよ!」

ははっ。そのほうが気楽でいいな。ケガレの意見に賛成。

「それに戒律なら、ガドはもうすでに破ってるね。支族に伝わる十戒の七、『汝、姦淫するべからず』をね」
「……その、申し訳ありません……」

そう。実はナオミさんも今、お腹が大きいんだ。結婚前に仕込んじゃうとは、ガド兄、やるな。

「ケガレたちに当てられたナオミに迫られたんだろね。ラビはなんでも、お・み・と・お・し♪」
「エリとオレの子に、同い年の友達できるヨ! ガドはそれまで見越してくれたんだな! さっすが!」
「いや、そういう訳では、なかったんだが……」

ガド兄だけ残して笑いあって、ボクはふと、あの言葉を思い出した。
ねぇ、と小さく彼に言ってから。

「もう、ノケモノじゃないね」
「エリたちと出会ってから、ずっとだよ」

ニカっとした笑顔は眩しい。つられて、ボクも心から笑った。



「ん〜」
「どうじゃ、何が見えたかの?」
「リズね〜、女王様になったよ〜!」
「それは卑弥呼じゃない? 古墳時代になるから時代に合わない」
「む〜……」

頬を膨らましたリズを見やって、かっかっかと日比野教授は大きく笑う。
それから、穏やかに孫の重雄をその幼馴染のリズに語った。

「そういった空想が楽しいと思えるようになれば、よりその時代の風景や暮らし方を知りたくなるんじゃな。すると、勝手に歴史に詳しくなる。すなわち、勉強になっているということなんじゃの」
「そっか〜。リズ的には結構面白かった! たしかに、おじいちゃんの言うように、ちょっと昔の事とか知りたくなったもん♪」

そんな中、重雄が柱時計に目をやり、あっと大きく声を上げた。

「もうこんな時間じゃん! リズ、ご褒、ゴホン。英語、英語の勉強をさ、しようよ」
「え〜」
「英語か? じいちゃん英語もできるぞ? どれ、ワシが教えて……」

素早く椅子から立ち上がった重雄は、リズの服を掴んで促しながら日比野教授に反論する。

「いいよ! じいちゃんきっとまたワケ判んない事言い出しそうだから! ほら、リズはやく!」
「え〜」
「学校で教える英語より、実戦的な英語じゃぞ? ちょっとテキサス訛りだがの」
「僕らが習うのは、試験のための勉強なの! あいむすたでぃいんぐりっしゅ! あんだすたん? じいちゃんっ」

孫に言われた日比野教授は肩をすくめた。

「日本人が無理して英語を使うのは、みっともないもんじゃぞ? まぐわいとか睦みあいとか、日本古来の美しい言葉をだなぁ……」
「はぁ? なにそれ。早くもじいちゃんのワケ判んない言葉が始まったよ! ほら、リズ!」
「あん、もう……。ゴメンね、おじいちゃん。また今度、いろいろ教えてくださいね〜……、こらぁ、服のびちゃうよ〜!」

引きずられるようにして、リズが重雄の部屋に連れられたのを見やってから、日比野教授はぼやくように呟いた。

「やれやれ。リズちゃん、声大きいからの。オイボレのノケモノには聞くに堪えんわ……」

リビングダイニングには教授一人。席を立って大きく背伸びをした日比野教授は、そのままサッシを蹴開けて裸足のまま青い芝生の庭に出た。
夕暮れ前の秋の日差しは、柔らかく暖かい。
ゴロリと横になって、教授は遅めの昼寝を取ることにした。



             美女と野獣(ノケモノ) 〜おしまい〜


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