35人目 〜4 Take Me Home

「マスター。いつものを出してくれる?とびっきり目が覚めるようなのを一杯、さ。」
私の言葉にマスターが頷いた。
客商売としてはいかがなものかと思わざるを得ないような立派な口ひげを震わせ、
いつも通りの手際で手早く酒を作るとカウンターに座った私の前に静かに置く。
あまり似合わない口ひげはなんだけれども、酒場のマスターとしての腕は良いのだろう。
一日中酒を作っているのだろうに白いシャツには染み一つ出来ていない。
あばら家と言っても良い、雨が漏り、壁には穴が開き、床には空き瓶とゴミが散乱している汚い店が
何とか酒場としての体裁を保っていられるのはこのマスターのお陰でもあるのだろう。
グラスに口を付けると飛び切りキツイ飲み口にカッと喉が焼けた。

ここはネオシティーの外れにある酒場だ。
ネオシティーでも一番を自負するような腕利きのガンマン達が夜の一時の安らぎを求めて集まってくる憩いの場と言っても良い。
昼間は敵同士、顔を見れば銃を抜くような間柄の皆もこの酒場の中ではおとなしくしている。
誰にでも休息って奴は必要だからだ。
金の為なら親でも売るような奴らばかりだけれど、いや、だからこそこう云う所が必要なのだろう。
この酒場は誰の縄張りでもない緩衝地帯。
皆仲良く、撃ち合いはご法度って事になっていた。
喧嘩沙汰はあれど、それ以上に発展する事はまず無いし、
それどころか日中は殺し合いをしているような連中が仲良くポーカーなんかをやっていたりする事すらある。


そんな奇妙に落ち着いた雰囲気の中、私の短めのタイトに体に張り付くスカートを見て声を掛けてくる酔っ払いをいなしながら
(街中でそんな事をしたら眉間を打ち抜いている所だ。私もここでは大人しくする事にしている。
何といっても他のガンマン同様、私にとっても憩いの場は大事だからだ。)
くいくいと杯を開けていると、カラン、と音を立ててドアが開いた。
途端にだみ声が響く。
「おうおう!あれがエースのワカバって女か!ずいぶん色っぽい感じじゃねえか。酒が上手くなりそうだなぁ。」
その声に合わせて複数の男達の追従するような笑い声が聞こえた。

その下品な声と共に店中の目が私に注がれた。
喧嘩沙汰ご法度と言いながらこれだ。
まあ、どこにでも例外というものはいる。

ちら、と声のした方に視線をくれてやると
おっと、と潰れたような鼻をした下品な顔の男がその視線の先でおどけて見せた。
その男の服装を見てうんざりする。
両肩を剥き出しにし、赤く染めた革の上着を羽織ったその男の格好は最近この街で暴れているシャーク団の1人である証だった。
シャーク団とはこの前事を構えた事がある。
何かのけちな仕事を一緒にやって分け前の取り分でごたごた抜かしていたから
何人か殴りつけて以来、やたらと絡んでくる奴らだ。
思い出せないがこの男も殴りつけてやったうちの1人なのだろうか。

「おお、エースが睨みつけてきやがったぜ。こいつはこええや。」
そう言いながらこちらに歩み寄ってくる。


既にどこかで飲んできたのだろう。
どかりと私の横に座ると酒臭い息を吹きかけ
「なんだ、文句でもあるのかテメエ。」
と絡んで来た。
瞬間カッとなったが、理性で抑えた。
ここでの喧嘩はご法度だ。息をゆっくりと吐く。

「文句なんて無いよ。向うにいきな。」
そう言って手を振ると、その反応が意外だったのだろう。
その男は一瞬私の手の動きにびくりと身体を震わせた後、ふっと息を吐いて笑った。
「なんだなんだ。兄貴達がエースのワカバには手を出すなって言いやがるからどんな女狐かと思ってたが
随分と素直そうな可愛らしいお姐さんじゃねえか。」

「そうかい?」
ホルスターに伸びそうになる手を抑えつける。

「こんな良いお姐さんだって知ってりゃあもっと早くに顔を見に来るべきだったな。」
男の言葉に男と一緒に入ってきた連れの男達がてんでに笑う。
その男達の中に何人か見覚えのある顔があった。



男達は私の顔をじっと見たまま、男に対する愛想笑いとも緊張とも取れるような唇をゆがめた顔をしている。
なるほど、こいつらは私の事を知っていて、つまりはこの前の仕事で一緒だったって事だ。
で、目の前の絡んできてる男は私の事を知らない。
恐らく前に飲んでいた場所で連れの男達に私の話を聞いて、俺が締め上げてやるとでも気炎を上げたのだろう。

「最近売り出し中の若手って訳?皆に良いところを見せたいのかしら。」

そう声に出した瞬間、男の目がすう、と細くなった。
どちらかといえば愛嬌がある犬といった風情の潰れた鼻をした顔つきが一瞬で凶悪なそれに変貌する。
同時に連れの男達にも緊張が走るのが見えた。
確かに売り出し中らしい。
「俺の名前を知らねえってのか?」

「知らないねえ。・・・っく」
私がそう口に出した瞬間、男の手が私の胸をわし掴んできた。
いつもだったらそんな事をして来た命知らずの奴は造作もなく捻り上げてやるところだが想像外に素早い動きだった。
酔っ払いだと思って舐めていた。
ちっと舌を鳴らすと、男がにやりと笑う。

「じゃあこれから、ゆっくりと教えてやるよ。名前だけじゃねえ。色々とな。」
ぎゅうと私の胸を握り締めながら私の顔に顔を近づけてくる。
掴まれた胸から鋭い痛みが登ってきて、独りでに顔が歪む。
私の顔に勝利を確信したのだろう。もう片方の手を私の太腿に置くと、手を上に滑らせてくる。

もう限界だった。
こっちの許可も無く胸を掴まれるなんて無作法を受けたのは久しぶりだったし、
何よりも私を舐めきった態度に頭にきた。
と同時にここ最近、こんな風に突っかかってくる奴なんていなかった事を思い、微かな面白さも感じていた。



右手を相手の私の胸を掴んだ方の手に当てた。
思い切り痛そうな顔をしてやると、男が満足そうに笑った。
喧嘩慣れしていそうな男だ。
利き手の右手をそうやって当てると云う事は私が負けを認めた、とそう考えたのだろう。

瞬間、左手で右腰にあるホルスターを開いてグリップを指に引っ掛け、小さく円を描くように上方へ放り投げた。
こういう時の為にホルスターは左手の一本の指でも届けば一発で開くように調整してある。

銃は三日月のような小さな円を描いて、まるで逆回しのように男の手に当てていた私の右手に吸い込まれた。
銃口は相手の顔を向いている。
連れの男達が魔法でも見たかのように口をポカンと開けたのが見えた。
そのまま撃鉄を上げ、カチリ。という音が響くと共に口を開いた。

「名前はいいわ。興味ないから。」

男の顔色が一瞬にして変わり、絞るように胸を掴んでいた手が緩んだ。

男の連れの1人が喚いた。
「エースが抜きやがった!皆見たか?この場所で、エースが抜きやがったぜ!」

「そうね。」
銃口を下げて引き金を絞った。
まずは目の前の男の股間1cm下。
凄まじい破裂音と共に床に穴が開く。客のうちの何人かが(勿論目の前の下品な男もだ)飛び上がって、焦げ臭い匂いが漂った。
返す刀で思わずこちらに踏み出してきそうになった男の連れの足元にも撃ち込む。
それを一呼吸でやった。
銃声は1発分しか聞こえなかった。
しかし床には2発分の穴が空いている。私の手の動きは男達には殆ど見えなかっただろう。



一瞬の後、下品な顔の男が叫んだ。
「て、て、てめえ。」
腰は引けていたがそれでも精一杯睨みつけてくるあたりは立派だ。
これで修羅場の1回や2回も生き延びられれば本当にそこそこの顔になれるかもしれない。
少なくとも私に殴られて怯えていたシャーク団の幹部の1人よりはよっぽど胆力はありそうだ。

しかし、この男の反撃もそこまでだった。
「良かったじゃない。エースに殺られるのならあなたもきっと名前だけは残るわ。
私は覚えないけれど。」

私の冷えきった言葉に店中の人間が凍りついたように動きを止め、男の顔は青ざめた。
いくら胆力があっても、死は恐いものだろう。
修羅場の1回や2回も生き延びられれば顔役にもなれるだろうが、そういう男は実は結構いるものだ。
それなのに中々顔役になる奴がいない理由は唯一つだけ。

そういう奴は、生き延びられないって事だ。

右腕を持ち上げ、男の額に銃口を定める。
私の手の動きは相手にはスローモーションのように見えているだろう。
「後悔は地獄ですることね。」
撃鉄を上げて、宣言するように言い放った。

しかし私が引き金に当てた人差し指に力を込めた瞬間、
店の端に置いてあった古ぼけたジュークボックスが動き出し、大音量で陽気なロックが流れ出した。
ぐにゃりと景色が歪む。

目の前の男が驚いた顔のまま静止している。いや、男だけではない。店中のなにもかもが静止していた。
もう一度銃を持ち直す。
ガンガンと音楽だけが鳴り響き続いている。

「気分が削がれたわね。じゃあ、さよなら。」
静止した世界の中、もう一度宣言する。



Even though I want you♪
Even though I need you♪

音楽に気を取られる。
好きなタイプの陽気な曲だった。

目の前の下品な男の顔がふと見直すと違う顔になっていた。
懐かしいというか、優しそうな、こうぐっと来る顔。
思わず手に持った銃口を反らそうとして、手に持っているのが銃ではなくて、目の前の男の手の平である事に気がついた。
いつの間にかしっかりと手を握り締められている。

目の前の男が笑った。
笑顔で思い出す。そうだ、口は悪いけれど優しい、私の好きな人じゃないか。

「梅原さん」

Even though my heart is screaming♪
Still believing♪
We could fall in love♪

そう呟いて前を見ると目の前の好きな人が私の目を見つめていた。
そしてどぎまぎする私に向かってにっこりと笑って、私の手を掴んだまま口を開いた。

「僕と彼女の間に子供が出来たんだ。喜んでくれるよね。」

そして、世界ががらがらと崩れてきた。




@@

目を開く。
頭を持ち上げた瞬間、ガンガンと酷い頭痛を感じて顔をしかめた。
机に突っ伏したまま寝ていたようだ。胸もムカつく。
目の前10Cmの所で携帯が陽気にがなりたてている。
その横に空になったビールの500ml缶が寝転がっているのを見て途端に現実に引き戻された。
時計を見ると夜の8時。
最悪の気分だった。

Even though I want you♪(たとえ僕が君を求めても)
Even though I need you♪(たとえ僕が君を必要としても)
Even though we won't find better♪(たとえ僕達がもっと良い人を見つける事がないとしたって)
We can't stay together♪(僕達は一緒にはいられないんだ。)

溜息を吐いた。職場からの電話だ。
何でこんな歌詞の着メロにしたんだっけ。
絶望的な気分になりながら携帯を掴む。

2度咳払いをして声が出る事を確認してから通話のボタンを押した。



「もしも」
と声を出した瞬間、向うから聞こえてきた只ならぬ声に頭が覚醒した。
「お休み中申し訳ありません。和歌葉さん。その、緊急事態で。誰に言って良いものかと思いましてその・・・」
電話をかけて来た男は梅原さんにつけた護衛の男だった。
素手でクマを倒したという噂は眉唾ものだが、SPとしては超のつく優秀な人物だ。
それが電話越しにも判る位に慌てた声を出している。

「どうしたんですか?」

「その・・・梅原氏に逃げられまして。」

「に、逃げたぁ!?」
思わず声が上ずって慌てて咳払いをした。
「は、いえ、逃げたというよりも運転中にどこかで降りられたようです。
エージェントを家へお送りした時までは梅原さんも確かに車にいらっしゃいました。
エージェントの優子、さんでしたでしょうか。彼女と随分深刻そうに話をされていたので
あまり気を散らさないようにとカーテンを閉めていたのですがその後いつの間にか。」

「優子さんと一緒に降りた可能性は?」
「いえ、ありません。つい15分前までは車の中におられたのを確認しています。
エージェントの家からはもう既にかなり離れています。」
「拉致されたりした訳ではないのね。」
問い詰めるようにそういうと電話の向うでひっという声が上がった。
想像して気が遠くなったのだろう。

「は、いえ、その、恐らく。恐らくは。ど、ど、どう致しましょうか。や、やはり報告を」



はあ、とため息を吐いた。
「いいわ。拉致されたり事件に巻き込まれる可能性は低いし、父さんには黙っていて。
きっと外の空気を吸いたかったとか、そんな理由だから。
心当たりが無いわけじゃないから、当ってみます。
そちらは慌てずに車を本部に廻して待機していてください。」

電話の向うから安堵交じりの了解の声が聞こえたのを確認してから電話を切る。
目は覚醒していたけれど頭痛は消えていなかった。
頭をさすりながらゆっくりと立ち上がる。

ついさっきまで見ていた夢を思い出す。
「僕と彼女の間に子供が出来たんだ。喜んでくれるよね。」

「ああああああああああ!もおおおおおおおお!逃げたいのは私なのにいいいいいい!」

一回思い切り叫んでから、洗面所に駆け込んだ。
洗面所でばしゃばしゃと顔を洗い、更に3分でお化粧を終らせて髪の毛を梳かす。
冷蔵庫から牛乳を取り出してコップ一杯分を一気飲みしてからコートを羽織る。

腹立たしい。
頭が割れるように痛くて、胸がムカムカして、そして腹立たしかった。

これは事件じゃない。SPの責任は置いておいて拉致されたなどと心配する必要は無いだろう。
確信を持ってそう考えた。
大体の経緯は想像が付いた。
きっと今日、梅原さんは優子さんと話したのだろう。
その、優子さんに出来た梅原さんの子供について。

そしてきっと、ショッキングな出来事があったのだ。
だから1人になりたくて姿を消した。
きっとそうだ。

で、ショックな事って何だろう。
梅原さんがショックに思う事って。
きゅうと締め付けられるみたいに胸が痛んだ。



これでも父親からは梅原さんの情緒面でのサポートを任されているのだ。
ずっと梅原さんの事を考えていたのだ。
こんな時、彼がどういう風に考えるのか位、何となく判る。
何となく判ったからこそ昨日はそれを恐れて1人で大酒を飲んで泣きながら寝る羽目になったのだ。

梅原さんは子供が出来た事できっと悩むだろうと云う事。
心理学的にはそうなる事は予測できた。
それが現実になったのだ。

きっと梅原さんは責任を取ろうと思ったのに違いない。
案外生真面目な性格の彼だ。
きっと、優子さんに責任を取ると言ったはずだ。きっと本気で。
所謂普通の意味で責任を取ると。
日本で唯一の正常精液保持者である彼が、普通の意味で責任を取ると。
そんな事が許されるはずが無い事くらい、考えればすぐに判るのに。

それでも彼は彼の常識に従ってそうしたのだろう。


なんだかそんな事が判ってしまう事もまた腹立たしかった。




で、当然の如く梅原さんの提案は却下されただろう。
当たり前だ。
優子さんがそんな話を受ける訳が無い。
社会的にも、仕事としても、そして恐らく私的にも。

そしてプロポーズを袖にされた彼は傷ついたと。
恐らくそういう事だろう。

・・・

傷ついてしかるべしなのは私ではないのか。
もっと可愛がってくれたっていいじゃないか。
始まりは仕事かもしれないけれど、こんなに好きになったのに。
私が好きだって言っているのに。
私じゃない事で悩むなんて。私以外の事で、梅原さんが悩むだなんて。

なんだか泣けてきて、私は目を拭った。

「私は本当はエースなんだから。」
いつの間にか昔の口癖が出て、口に出してからその事に気がついた。
そういえばと先程の夢を思い出して少し笑った。
ああいう夢を見たのは久しぶりだった。
昔はよく見ていた、くじけそうになった時に良く見る夢。



@@

私の父は所謂モーレツ型の研究者という奴だった。
医科大学を出た後に研究者となり、ものの10年で人工授精に関する権威となり、
今回の全世界の男性から精液が失われた問題が起こってからは
正常精液保持者の調査、研究に関する政府の機関に招聘されるとそこでも瞬く間に出世した。

父の頭の中には必死で働く奴と怠けている奴の2種類の人間しか存在しなかった。
そういうタイプの人間だった。
そういうタイプの人間だったからこそ結果も残し出世もしたのだろう。

そういうタイプの人間にありがちな事で、父は私にもそれを強制した。
つまり、父は必死で働く奴と怠けている奴のどちらになるのかという事を私に問いかけてきたのだ。。
私に男の子の兄弟でもいれば違ったのだろうけれど残念な事に私は一人っ子だった。

他の世の中の子供達と同様、私は父親が望む方の道を選択した。
子供の頃は常に自分の年齢より3年は上の学年の問題に取り組むように教育され、家庭教師を付けられた。
この為に学校の授業は甚だ退屈なものとなったが、当然のように私の学校での成績はすこぶる優秀なものになった。

どんな科目であれ95点以上取る事は義務とされた。
父は優しかったし、手を上げられたことも叱られた事すらなかったが。
90点以下のテストを家に持って帰るとその日は父の知り合いの怠け者がどのような人生を送っているか、
いかにつまらなく意味が無いかを何時間にも渡って聞かされる羽目になった。

その度に私は震え上がり、もう二度と怠けたりはしないと父に誓った。
テストで90点以下を取ったのはそう多い回数ではなかったけれど、それでもまったくの0という訳ではなかった。
その度に、私はそう誓い続けた。


そういう生活で育った子供がどうなるか。
私は子育ての専門家ではないからそういう事にはっきりとした事はいえない。
普通は上手くやるものかもしれないし、こんな事になったのは私だけかもしれない
私の場合はどちらかというと不満を内に溜める方だったからか、
常に満たされず、追い詰められた気分で生活していた。
いや、実際子供なりに追い詰められていたのだろう。
やるべき事をやるのが精一杯で、できたからと言ってそれは当然ということにされて褒められもしなかった為に楽しくも無かった。
そう、勉強は出来たけれども特に好きではなかった。
当時の私には他のクラスメイトよりも進んでいる奇妙な優越感と、父に対する劣等感だけがあった。
どちらにせよ毎日をあまり楽しいと思った事はなかった。
そんな子供に友達が出来るはずも無い。
そもそも私はあまり積極的に友達を作るタイプでもなかったし、本を読んだりする事に喜びを見出す方だった。
(そして父も私が泥まみれで遊ぶよりもそうする方をより賞賛した。)

きっと、当時の私は周囲から見ればやるべき事だけをやるむっつりとした子供に見えただろうと思う。

そんな私の唯一の発散の方法はテレビゲームだった。
小さい頃、あまり体が強くなかった私に父が唯一許した娯楽型の玩具だった。
誕生日に買って貰ったドラゴンクエストをやった時、これだ。と思ったものだ。
小説のゼンダ城の虜や指輪物語なんかと一緒。そのヒーローを自分がやれるのだ。
私は夢中になってゲームをやり、ゲームの主人公になりきって
ついには私はそれから不満な事があると自分が勇者になった夢を見るようになった。

勇者はカッコよくて、何でも出来て、
そして周りの皆に「エース」と呼ばれ尊敬されているのだ。
むっつりとただ一つ自分ができる事だけを誇りに生きたりなどしていなかった。
エースは成すべき事を知っていて、そしてそれに向かって戦う事が出来た。

私はエースになってその夢の中で敵を倒した。
相手は嫌な男の子みたいな悪役だったり、私の事を叱る先生みたいな悪役だったり、
そして、何でも正しい事を言って私の言う事をあまり聞いてくれない父親みたいな悪役だったりした。
ドラゴンクエストの主人公みたいに、カッコよく戦う勇者。私がエースだ。



辛い事やどうしようもない事があった時、私は良く口の中で呟いた。
「私は本当はエースなんだから。」
そう、エースだったらこんな事は簡単に切り抜けられるのだ。
家に帰ってエースになりさえすれば。
そうつぶやいて家に帰った。
辛いと言っても今考えれば大したことではなかったが。
例えば授業参観に両親が来てくれないとか、友達にいじめられたとか、テストの点数が良くなかっただとか。
誰かに言っても大した事は無いといって解決はしてくれない、けれど子供にとっては深刻な出来事。
そういう事がある度に私は呟いて、そして家に帰って妄想や夢の中で悪者達をやっつける事にした。

下らない事かもしれない。
けれど子供の頃にはそれが唯一の私のストレス発散方法で、そしてそれはずっと続いた。

年を経る事にそういう子供っぽい自分に、子供っぽい発散をしている自分に疑問を持つようにはなっていたけれど、
それでもつい最近まで私は何かあるたびにそういう妄想し、寝れば夢に見ていた。
子供の頃の習慣というのは意外とやめられないものだ。
仕事で失敗したら、叱られたら家に帰ってエースになって悪い奴らをやっつけた。

そう。ずっとそうだった。
その回数が徐々に減るようになったのはずっとずっと後。
梅原さんと知り合って、そして恋をしたと思える頃まで続いた。



@@

ぐいとコートを引っ張った。鏡を見てチェックをしてから机の上の携帯を引っつかむ。

靴を履こうとして、しゃがみ込んで独特の革の匂いを感じながら少しだけ考えた。

さて、どうすべきか。

こういう時に私は本当に行くべきなのか。

家で泣いているってのも手だ。
何 と い っ た っ て 今 、 私 は と ん で も な く 雑 に 扱 わ れ て い る。
私より雑に扱われた女の子は当然世界の中には何人もいるだろう。
しかし私の今までの人生の記憶上、存在しないくらいには今、私はとても雑に扱われている気がする。
自分で言うのもなんだけれど、年若い美少女の初恋の思い出としてこのまま暫く泣き暮らしてみるってのも手だ。
今まで通り嫌な事はエースのワカバに戦ってもらうのだ。
沢山寝れば、きっと気も晴れるだろう。
このまま携帯の電源を切って、ドアを叩かれても返事をしないで、私の方こそ行方不明になってやる。
魅力的な提案だ。



もう一つある。自分のやるべき事を思い出すって事だ。
誰の為に行動するべきなのか考えてみるって事だ。
これは父親的な考え方で、個人的にはすこぶる納得しかねる。

しかもそっちの道はとんでもなく険しい。
何といっても初恋の君は現在日本で唯一の正常な精液保持者。
父親の手で計算ずくで引き合わされた相手。
どう考えたって普通に恋愛すべき相手じゃない。
しかも相手の性格は判りきっていて、口は悪いが素直で優しくて責任感がある彼は
恐らくこれからだってずっと同じ問題で悩むだろう。

そう、そもそも奴は今、私 以 外 の 女 に 振 ら れ て 傷 つ い て い る 真 っ 最 中 だ。
そ れ っ て 助 け て や る べ き な の か?



やっぱり寝ているべきだろうか。
そう考えて、ふとその瞬間に私は今まで一度もした事の無かったものの考え方が心に浮かんで来たことに気がついた。

こんな時、エースのワカバならどうするべきと言うだろうか。

エースのワカバは私だ。
だから今まで私はエースのワカバならどうするだろうなどと考えた事は無かった。

でもなんだか今日は違った。
久しぶりに妄想したからだろうか。
エースのワカバと私が違うもののような、そんな風に感じていた。
なんだかエースのワカバが昔からの友達のような、そんな感じがしたのだ。

いつでもクールに決める彼女なら。
どうするだろう。
嫌な男の子をやっつけて、私の事を叱った先生をやっつけて、
そして家庭を顧みずに政府の仕事をした挙句、私を巻き込んだ父を夢の中で何度もやっつけてくれた彼女なら。

エースだったら、私はどうすべきだと言うだろうか。

暫く考えた後、携帯を鞄に落とした。
靴を履いて、ゆっくりと息を吸ってから玄関を出て、扉を閉じた。
とんとんと靴の踵で地面を叩いた。



彼女の事は良く知っていた。なんと言っても子供の頃からの自分自身だからだ。
彼女ならきっと自分が欲しいものを手に入れようとするだろう。
決して弱音を吐かず、泣き暮らしたりはしない。
父親にだって反抗するし、悪い奴はやっつける。
何故子供の頃の私がそれを出来たかというと、頭の中の出来事だったからだ。
テレビゲームの中の出来事だからだ。

頭の中の出来事だったら、テレビゲームの中の出来事だったら
クールな勇者は他人の痛みがわかっていた。
そして誰が一番辛いのか判るから、カッコ悪くたってやるべき事をやっていた。

私も同じだ。本当は判っている。
毎日梅原さんと一緒にいたから。

父親に引き合わされた相手で、仕事がらみの相手だけれどいつのまにか好きになっていたから。
日本で、自分しか正常に子供を作れないって知っている人は、
妊娠させた事で自分がその人を幸せにしなきゃいけないと考えてしまう位に真面目な人で、
それが私じゃないのが腹立たしい限りで、そしてそれはこれからも続くのだろうけれど。

でもそういう優しい人だからこそ、私は好きになる事が出来て、ストレス満載の仕事が楽しい事になって、
だから私はエースの夢をあまり見ないようにもなれて、
そして今、エースを自分自身じゃなく友達みたいに感じているのだ。



うん。勿論エースの夢を見るのは悪くは無い。エースになりきるのは全然悪い気分なんかじゃ無い。
いや、偶に見る分には楽しいとさえいえる。
何といっても彼女はカッコいい。
悪い奴は一撃でノックダウンだ。すかっとする。
嫌な事なんか吹き飛ばしてくれる。

でもことこれに関しては。
つまり私の初仕事であり初恋であるこれに関しては、妄想に逃げるのはやめにするべきなのだろう。
そういうのは子供のやる事で、私のやるべき事じゃない。
夢の中でエースになりきるのではなく、エースを尊敬できる友人と思うべきだ。
子供の時みたいに妄想するのではなく、私にもエースのワカバみたいに行動するべき時が来たのだ。

例えカッコ悪くても、エースのワカバみたいにスマートにやれなくても。
好きな人を奪い取る為に行動する。
うん、こっちの方がしっくりとする。
今何もしないのはベッドの上でエースになりきっているようなものだ。
今は私の恋を奪い取るチャンスで。
そんな時エースなら絶対逃げはしない。

梅原さんが日本で唯一の精液保持者になってから私はずっと側にいた。
私にしか出来ない事をやる。
梅原さんの悩みは正常で、悪くないって言ってやる。

探し出して、元気付けてやって、私がいるって言ってやる。
日本で唯一の精液保持者を、私にメロメロにしてやるのだ。

そして彼が元気になったら、
こういう時は私の方こそ慰められるべきではないのかと、意地悪く言ってやるのだ。