月曜日


火曜日
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アキトは朝起きてまず最初に顔を洗ってからトイレにいく。
その後、手を洗ってもう一度顔を洗いうがいをして時々薄い髭を剃る。
外は爽やかな朝を演出するのにうってつけなほど、燦々とした太陽光が眩しかった。
冬に向かう準備を、太陽自ら放棄しているような空模様。

結局昨日はハルキに相談なんて出来るはずがなかった。
何事にもやる気が起きない、そんな気だるいさを感じながら台所へ向かう。

「おはよう」
「っ……おはよう」

ハルキはまるで何事もなったようにアキトに朝の挨拶をする。
父はもう出勤しており、家には二人だけだけなのが気まずさに拍車をかける。
もっとも、そう思っているのは一方だけだったが。

「なんだ今日は起きるのが遅い上に元気ないな。
勉強するのも結構だが、よく寝ないと昼間授業に集中できないぜ」

淹れたてのモーニングコーヒーと一緒に親切にも言って聞かせるが、
ここまででアキトはとみに感じるハルキの親切心が少々厭わしく思えてた。
何か一言でも言っておかなければ気がすまない、そんな気分だった。

「……………の……か?」
「えっ?」
「お前は、俺の母親か、って言ったんだ。……ん……コーヒーサンキュ」

アキトの皮肉にハルキは新聞を読む手を下げ、目を合わせる。
昨夜、件の『アキトも――』のあとに続いて語った父の話を思い出す。

『最初は、ハルキは母に似てアキトは私に似てるかと思ったが』

父の台詞は思ってもみなかったことを気付かされてしまった。
その上ハルキにおける、アキトの存在と並び立つコンプレックスをアキト自身が尚も抉る。
心拍数が上がり、眩暈と合わせて不快な汗が流れ始めた。
言った方はたった今のことなど忘れたように朝食を食べ始める。
皮肉であっても悪意など微細、いつも通り社交辞令のにしか過ぎない一言だ。

「ぅ……ぁく……」

ハルキはかたかたと震える手を隠すように、カップをソーサーに戻す。
予想もしないところからの一撃は、未然に防ぐことも不可能だった。
幼少の頃にトラウマとして残る綺麗な面影が脳裏に甦る。

「お、俺……先に行くわ」
「えっ、おい」

ハルキは脱兎のごとくこの場から逃げ出す。
顔を見られれば、何を言われるかわかりきっていた。

********************

電車で揺られながらアキトは一連の出来事が、
何かしら兄の見えざる裏側に繋がってるように思えてならなかった。
もう一人のキーパーソンに聞いてみるのが一番だろう。
兄が変になり始めたのは、結衣のことを好きだと打ち明けてからだ。

アキトは兄のこととなると、結衣に対しても意外と冷静になれるものだと感じた。
空に浮遊するような恋愛感情とは違う、より所を踏みしめ地に足をつけた安定感ゆえだろう。

********************

ハルキは学校近くまで来ながらも、門をくぐることなく近くの大規模公園で時間を潰す。
時計の針が始業時刻を指しても、公園のベンチから立ち上がる気はなかった。
日も高くなると、母親と子供が陽気に誘われて遊びに出る。
ちらちらと保母さんが見えるあたり、どうやら近くの園児たちも集団で遊びに来ているみたいだった。
ハルキは地元でも有名な進学校の制服のおかげか、それなりに不審人物には見えない。
見た目で判断するなら、その姿は少し息抜きが必要な好青年だ。
母親、保母たちがあまり気にしないと子供らも同様に習い、
勝手気ままに遊び、はしゃぎ、ハルキの近くへも駆け出す。
その光景を気の抜けたように眺める。心を無にすればとても幸せな光景だった。

「あっ」

かけっこをしてた子供が勢いよく転ぶ。
うつ伏せになったままじっとしてる姿に、ハルキは落ち着かずそわそわしてしまう。
しまいには顔を上げて泣き出してしまった。それでも保護者らしき人は見えてこない。
仕方なしに近くに寄って子供の目線に屈み、頭を撫でながら土ぼこりを払う。
よしよしとあやしながらハンカチで涙を拭くころには、子供のほうも驚いてか泣き止んでいた。
いつの間にか泣いていた子供の仲間が周りに集まっている。

「ほらみんな心配してるよ」
「お、お兄ちゃん……ありがとう」
「おっ、ちゃんとお礼ができるなんてえらいえらい」
「そうね。でも学校サボって子守りはどうかしら、ハルキ君」

聞いただけで心臓を鷲掴みされる声に、
ハルキは驚きのあまりバランスを崩し、屈んだまま尻餅をついた。

「あた……」

今度は子供たちが心配そうな視線を注ぐ。
ハルキがいささか赤面しながら、なんでもないと仕草をしてアピールすると、
安心したように三三五五と遊びに散って行く。

「うふふ、サボって何してるかと思ったら、
甲斐甲斐しく子供の世話して転んで、悪いけどとても良いものが見れたわ」
「悪いと思ってるなら見ないでください」

くすくすと乙女チックな笑いは、意外にも結衣に似合って可愛らしく見えた。
ハルキは恥ずかしがりながらもベンチまで戻って座りなおす。

「それより本当に何してるの、こんな所で」

結衣も隣に座って語りかけたが、ハルキの反応は鈍く、返答はおろか相槌も打たない。
きゃっきゃとはしゃぐ声の中、ハルキたちが座っているベンチだけが取り残されたように沈黙を保っていた。

「アキト君が心配して、私に頼み込んできたわよ。
生徒は基本的に昼休みでも外に出れないしね。
おそらくこの公園にいるって言ってたけど、本当に大当たりね」

アキトの名前を出せば反応するかと思ったが、特に感慨もなく黙ったままだった。
結衣としても連れ戻そうという気はなく、確認さえできれば良かったが、
このまま置いてきぼりにする気にはなれなかった。
特に話すこともなく、ハルキと一緒に周りの様子を眺める。
なるほど、平和で幸せな光景だ、とほとんどハルキと同様のことを思った。
時を待つのも良いが、話の糸口を探ろうとハルキの目線を自然と追っていく。
するとちょっと面白いことがわかった。

「ひょっとして、ハルキ君……ものすごく子供好き?」
「……もしかして……ロリコン、とか思ってませんか……」

このまま黙っていると誤解されかねないと思っての台詞だろうが、
何か発してくれただけでも、結衣にとっては我が意を得たり、であった。
少しずつ糸を手繰り寄せるように言葉を編んでいく。

「違うわよ。それなら遊んでる子供ばかり見てるでしょうけど、
ハルキ君は赤ん坊抱いてるお母さんとか、妊婦さんとかよく見てるもの」
「……」

結構な図星だったのだろうが、
そっと照れて赤くなる可愛らしさがあるとは思わなかった。
顔を覗くと、少々ふてくされた様に視線を在らぬ方へ逸らす。

「ふ〜ん、ハルキ君は子供が欲しいのね」
「いや、その、それは……」
「それは?」
「……もう少し大人になってからでいいです。
しっかりと責任とれる立場になるまでは……」

子供が欲しいという点については否定しなかった。
むしろ条件が満たされるなら、肯定的に欲しいとも取れる言い草だった。
この年頃なら、セックスはとてもしたいだろうが、
子供が欲しいなんて思わないか、明確には気に留めないのが普通である。
前に感じた、焦がすような情念の中でもしっかりと避妊を心掛ける姿勢は、
関心ある故の正しい知識であり、何かしら彼のけじめにも思える。
無論避妊すること自体、環境を考えれば当然であるが、それ以上の何かが垣間見える。

「ふふ、ハルキ君。それなら……」

結衣はそれが何か、深淵にあるだけに惹かれるものがあった。

「また……私と子作り……してみる?」

ハルキは呆然とした目で結衣を見つめる。
近くに人はいないとはいえ、公共の場で白昼堂々とこんなことを言われて、
他にどう反応ができるものか。

「私なら、相手に不足はないでしょ。それに責任取れなんて言わないわ。
……それでもハルキ君なら、取ろうとするのが目に見えるけどね」
「……先生は……アキトの気持ちをわかって言ってるんですか?」

いかに常識に囚われないとはいえ、これでは単に非常識の謗りをまぬがれない域だ。

「あらぁ? あはは、とてもよくわかってるわよ。
アキト君の気持ちも……ハルキ君の気持ちも……ね」
「それなら!」

激高しかけるハルキに対して、結衣は対照的に憂いの表情を見せる。
先ほどとがらりと変わった雰囲気に、昂ぶった気持ちも有無を言わさず沈静化していく。

「……とてもよくわかってるのよ。
ハルキ君は、本当は麗しの弟クンと私と付き合ってほしくない。
アキト君は、自身が私とお似合いとは思ってない、それどころかむしろ……」

耳をふさげば聞こえない。
今ならまだ間に合うとは思いつつ、途方もない重圧に動くことはできなかった。

「……お兄さんの方がとてもお似合いだと思ってる」

こんなところまで、わかって欲しくはなかった。

「け、けど、それは違う。あいつは自分に自信がないからそんな風に思ってるんだ。俺なんかよりよっぽど」
「本当にそうかしら。私とアキト君だとタイプが全然違うと思うけど」
「それでも先生なら余裕だろうし」

この答えに、結衣は思いっきり、と形容するに相応しい苦笑をする。

「それは褒められてる気がしないわね」
「……俺は、このことについては、先生にお願いすることしかできない」

土曜日の夜から、ここまで事態が急展開するとは思わなかった。
ハルキにしてみれば、本当にあの時は少しばかりのイタズラと後押しだけだったのに。
しかも、上手くいくかと言えば、あえなく玉砕の懸念が強かった。
まさか教師の方から積極的に生徒との垣根を越えるなどと予想できるはずがない。

「何か変な会話だよね、これ。本心ではないはずなのに、真心がこもってる。
気持ちは少しはわかるけど……ね、全部はわからない。
まあでも、アキト君がお兄さんのこと心配になるのも、今のでよーくわかったわ。
もういいじゃない、このことは私とアキト君だけの問題にして放っておけば。
重い荷物背負ってるような悲愴な表情は、見ていて痛々しいだけ」
「それだと……」

それだとアキトと結衣では、絶対真っ当な道を歩んでいきそうもない。
ハルキは幸福な家庭を持つことが至上と思ってる、存外古風な概念の持ち主だ。
今までの自らの家庭ありようを見てのものであり、根の深いものだった。

「ん〜とね、ハルキ君は私のこと嫌い?」
「へっ……好き嫌いの問題なら……嫌いではないですよ。ただ……」
「はい、そこまででいいわよ。まあ私に任せて気楽にしなさい」

誇張でもなく、アキトがいいように弄ばれる図しか思い浮かばなかった。
はたして進む道が正しいのか、神のみぞ知るところだ。

「今日は早めに自宅へ帰って、休んでなさい。顔色もあんまりよくないよ」
「はい……」

確かに最近よく眠れていない気がするハルキだった。
結衣はベンチから立ち上がり、そっと離れていく。
時間はお昼休みも終わる頃だった。

********************

放課後になって、結衣は諸所の用事を済ませた後、将棋部へ向かう。
いくらか時間は過ぎており、夕焼けの眩しさに目を細める。
部室近くに来ても物音はしない。
結衣は常々、将棋にもっと会話をしたりぼやいたり愚痴を言っても良いと思っている。
プロの対局に倣っているのだろが、アマチュアではもっと盤上以外でも楽しむべきだと。
結衣の大原則とも言うべき思想信条には、まず楽しむことであった。
楽しむことを忘れ、勝負にこだわり過ぎるから、
負けたときにまるで相手は、特に結衣は女性だけに、世界の終わりみたいな顔をする。

戸を開けてみると、残っているのは対局が続いている部長のアキトと、相手の副部長だけだった。
二人の実力は拮抗しており、結衣の目から見ても充分な実力の持ち主。
クロックタイマーを置いていないところを見ると、制限時間無しで指しているようだった
いくらか呆れ気味になり、さっさと帰ろうかと思った結衣だったが、
昼前のハルキの顔を見た手前そういう訳にもいかなかった。

局面はもう終盤であり、あと十手もあれば終わるくらいだ。
どちらが勝つか、と結衣が考えると副部長の方に軍配を上げるが、あくまでも自分が指した場合である。
そして次手で副部長が指した所は、結衣が考えていた所と同じだった。

(もう受けは……、……、……無いよね)

どう受けても、最終的には詰みが免れず、受けずにこちらから攻めるしかないが相手の守りに余裕がある。
絶対絶命だったが、アキトは用意していた手を出す。
王手を指したのだから、相手は当然守らなくてはならない。
その後、何手か王手を絡めて駒のやり取りをすると、盤上にアキトを詰めるに必要な駒も取り払われる。
攻めつつ華麗に捌ききり、これには内心お上手だと結衣は思った。
ピンチを脱したアキトは勢いがあった。
この後するすると相手の囲いを崩してしっかりと詰める。

「すごいわね。あそこから逆転勝ちなんてなかなかお目にかかれないわ」
「いえ……それほどでも……」
「まさか、あそこからひっくり返されるとは思わなかったぞ。何が悪かったかな〜」
「はいはい、検討したいでしょうけど、今日は遅いから帰りなさい」

二人とも礼をして駒と盤をしまい、帰り支度をする。
そうしてアキトは帰るふりをして、結衣のところへ戻る。
片付ける時に、さり気なくウインクをしてみせたのに何か兄についてあるはずだった。
もう一度部室の戸を開けると、案の定結衣が居た。

「まあ座って」
「はい、それで兄の様子はどうでした。それを聞かないと帰りづらいです」
「帰りづらいなら私の家に泊まればいいのに」
「さすがにそれはちょっと……」

結衣は何がさすがに、なのかつっこみたかったが、話が脇道にそれるので止めておく。
ここで昼前に公園でハルキと会い、どんな様子だったかアキトに話した。
さすがに会話の内容まで話すまではいかず、その時感じた印象を客観視してまとめる。

「やっぱりアキト君の言ったとおり、ハルキ君は何か変ね。
だけど、ハルキ君自身が問題を抱えてる、て訳でもなさそうなのよね」
「そうなんですよ。本人のことじゃなくて、俺のことで変なんですよ。それがわからなくて」

結衣は考えてた質問をすることにした。
少しデリケートな内容なのはわかっていたが、悪癖ともいうべき興味があった。
人の心の奥底にあるものが見てみたい、というものだ。
それがどれだけ醜いか、美しいか、汚いか、澄んでいるか、
どんなものでも剥き出しの本性を見れる瞬間がとても大好きだった

「私はね、ハルキ君が、アキト君に深い恩か……負い目があると思うけど心当たりはある?」
「……あの、今更かもしれませんが……」

ここでアキトはもじもじとして、俯きながらもちらちらと目線を合わせる。

「俺……結衣先生が好きです。その……愛してるって意味で……大好きです!」
「うん、ありがとう。その気持ち、言葉、私は嬉しいよ」

さらりと結衣の方は言ってのけるが、アキトはさして気にしなかった。
二人の間柄にとって先ほど言ったとおり今更、であるのは確かだった。

「その、それでここからなんですが、兄も……結衣先生が好きで、
それを、その……俺、朝帰りなんてしてしまったから、逆に気を遣って、
無理矢理にでも、その……先生と俺をくっつけて……忘れようとしてるのではと……」

この答えに、結衣はとてつもなく、としか言い様がない苦笑をする。

「……それは絶対ないと思うわ」
「えぇっ、そうですか?」

ばっさりとアキトの意見を切って捨てる。

「実を言うと……ハルキにも同じようなことを言ったんですが、
先生と同じく、直ぐに否定されました。けど、自分自身でもわからない部分はあると思うんです。
今回に関しては、勘もあるけど……間違いないです。
単に本人も気付いてないだけなんですよ。
それに……俺は先生も、兄も幸せになってほしいです。
こ、こんなこと……言いたくないんですが……」

目じりに涙を浮かべて、切に問いかける。

「俺だと……先生をホントに幸せにできないと思うから……、
思うから、兄にがんばって欲しいって思うんです。
兄なら絶対先生も幸せにできるから……」

この子は本当に自分のことを好いていると結衣は感じたが、立場の違い、
更に深刻な力量の不足が、人が持つ格の差がお互い暗黙の了解として立ちふさがっていた。
しがない平民が王女に恋をしてハッピーエンドになれるのはお伽噺の中だけ、そんなものだ。
可哀そうと思いつつも、アキト自らがその壁を破壊するとは思えない。

「うん……と……。アキト君はハルキ君のことが好き?」

アキトは質問の意味を図りかねたが、何よりも本当の気持ちを込めて頷く。

「アキト君は……ふふ、ちょっと普通とは違う私のことを愛してくれる?」

前の質問と気持ちは同じだった。
アキトにとって初めて恋焦がれた異性は彼女に他ならない。
そして今後、これ以上の人は現れない確信があった。

「うん。それならアキト君の言うこと信用してみようと思うの。
ハルキ君が私のこと好きだって言う気持ちをね」

アキトはその言葉を聞いて、悲しみながらも心が安らかに落ち着くのを感じた。
結衣なら、きっと兄を何とかしてくれる、
そして兄なら結衣を満足させることができる。
だが結衣はそんなアキトの心を知ってか、少し慌てる。

「あっ、誤解させてごめんなさい、最後まで聞いて。
ねっ、アキト君、私はとっても欲張りなの」
「はっ、はあ……」
「だからね、ものすごーく呆れるかもしれないけど……私の提案、聞いてくれるかな」

アキトは話を最後まで聞いた後、思わず涙を流した。
楽しさと喜び、感心、そして新たな理想の形に心を躍らせる。
一筋の光明はとても輝かしかった。

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ハルキは内心おどおどしながら家で夕食の準備をする。
詮索を避け、動揺を抑えるためとはいえ、学校をサボったのはいくらなんでも怪し過ぎて変であった。
本来なら当番ではないため夕食の支度をする必要はないのだが、
何もしないでアキトを待つ訳にはいかなかった。
精神の平衡をを保つ手段として、アキトを懐柔する手段としてでもあった。
玄関から音が聞こえると、びくりと反応してしまう。
頭の中で何度もリハーサルした一声を出そうとする。

「おぉ、さすがは頼れる兄。遅くなった俺の代わりにありがとう」
「へっ……」

こんなことを言う奴だったか?
気を取り直して再起動をかける。

「い、いや。それより今日は遅かったな」
「うん、結衣先生と対局してたらこんな時間になったんだ。ごめんな」

とにかく話題を自分のことにしたくないハルキだったが、
知ってか知らずか詮索もせず、ごく普通に返す。

「今日のメニューはなに?」
「根菜のシチューにハンバーグのワインソース、かいわれサラダに納豆だ」
「かいわれ意外はオーケー」
「あれ? お前、かいわれ苦手だったか?」
「そうだよ」
「今になって初めて知った。まあいい機会だから黙って食え」
「お、鬼だ……。ハンストを申し出る、そんなものは口に入れない!」
「訂正、何を言ってもいいが残さず食え」
「悪魔だ……」

何となしに、いつも通りの会話のタイミングが掴めてくる。
昨日までとは違う、普通のありがたさが身にしみるひと時であった。
きっと何かしら、結衣との間に良い事があったのだろう、
一抹の寂しさもあったが、これで良いのだ。


夕食を終えた後に、アキトはハルキの部屋の扉をノックする。
放課後の結衣との話を終えて、強い決意を胸に秘めていた。

あの時、結衣はアキトの推測とは別に
『ハルキ君はアキト君に対して強い恩か、深い負い目があるはず』
と確信を込めながら重ねて述べた。
だが、やはりアキトに心当たりはまるでなかった。
どちらかと言えば、アキトの方こそがハルキに対して何かと恩義を感じていたことの方が多い。
何事も真面目で不器用な弟を、奔放だが器用で面倒見の良い兄は
時に親身に、時に突き放しながらも彼なりのやり方で引っ張る。
少なくとも普段は対等の立場であるため、
恩義など表に出さないが、アキトには兄の思いやりが充分に伝わっていた。

これから自分たちがしようとする行為は、
言うなれば兄を罠にはめようとしているのであり、もしかしたら裏切りなのかもしれない。
だが全て上手く行けば、このノックが兄に対する救いの音になる。
そして純粋に、楽しみで胸が弾む。
アキトは結衣に感化された部分も多分にあるよう思えたきた。


「うん?」
「あぁ……ちょっと昨日できなかったご相談いいかな」

ハルキは一呼吸して、入ってよい旨を伝える。
しずしずと扉が開き、アキトが入ってベッドサイドにちょこんと座る。

「……夜中に悪いな」
「別に構わんよ。それでどうした」
「あぁ……うん。その、なんだ」

アキトはもじもじして、歯切れの悪い言葉を漏らすだけだった。
じれったい気分になるが、カウンセラーの本を読んだところによると、
相談の心得としてこういう時は急かしてはいけないとあった。
そして受けるときは冷静になること。

「まあ落ち着け。コーヒーでも持ってきてやろうか」
「いや。別にいらない」
「なんだ、自白剤でも混ぜてやろうかと思ったのに」
「ひでー」
「ははは」

ひとしきり笑った後、アキトも気分がほぐれたようだった。

「んん……と……。今度の金曜日なんだけど、また先生宿直当番なんだってさ。
それで、そろそろテストも近いしさ、勉強見てあげようかってお誘いがあったんだ」
「ふ、ふーん」

ハルキの内心は非常に複雑だった。
例えて言うなら、手塩にかけて育てた一人娘にものすごく悪い虫がついたあげく、すでに傷ものにされ、
でも娘は盲目的に愛を信じているが、こちらから見れば二人は幸せになれないのではないかと、
そんな気分だ。
だが結衣は、一応は、それなりに、かろうじて、なんとか、信頼できる。
世間一般の倫理観や道徳的な意味合いとは違った、
彼女なりの正義はそれを貫くだけの強さがあり、その内には清々しささえ伴っていた。

だから公園での結衣との会話の後、気持ちを整理するには時が足りなかったが、
そんな中でも結衣が言ったとおり、もう放っておけばいいのではないか、といった結論には達していた。
最終的にはアキトにとって、きっとほろ苦い経験になるだろうが、それもまた良いのだろう。
フォローするには、全てが終わった後でも遅くないはずだ。
だが感情が納得しない。
納得するには何かが足りないが、それが何かわからなかった。

そんな兄の気持ちなど、お構いなしに弟は話を続ける。

「だけどさ、ちょっと怖くてハルキも来て欲しいんだ」
「……は?」

保護者同伴ですか?
さすがにお前、その男らしさゼロはまずいと思うぞ。

「それはダメダメだろう」
「あぁ、胸を張って言うことじゃないが、俺もそう思う!」
「……それもダメダメだろう」
「ああ! 胸を張って! 言うことじゃないが!!」
「わかった! 繰り返さんでいい」
「最初に繰り返したのはハルキだろ」
「俺は、それも、に変えたはずだが」
「細かいこと気にするなよ! 兄キ」

こいつなんかさっさと結衣に犯され、なぶりものにされればいいや。
一割程度本気でそう思ったハルキだった。

「でも、さすがに行く気は起こらんな」
「……ああ〜、本当はこんなこと言いたくなかったんだけど」

アキトは頭をかきむしり、苛立ち、というより羞恥を見せ始める。

「俺さ、実はまだハルキが先生のこと、好きだって疑ってるんだ。
それで、密かにそれを確かめるために、一緒に来て欲しいって思ったんだ」
「お前ぶっちゃけすぎ……」

今のアキトは躁状態としか思えない明るい口調でぺらぺら話す。

「とにかく俺は俺の勘を信じる。
と言うか、結衣先生を見て好感を持たないはずがない!
たとえハルキといえど、例外はない!!」

こいつの頭は少しヤバイことになってる。
もしかして放課後にでも結衣先生とヤリ過ぎて変になったか。
二割程度本気でそう思ったハルキだった。

気を取り直して真面目に考える。
さすがにそこまで行かなくとも、何らかのブレーキのために付いて来て欲しいのかもしれない。
これから人生とって重要な時期でもあるのだし、
あんまり現を抜かして取り返しのつかないことになっても困るというもの。
アキト当人だってそこら辺はわかっているはずだ。
まあ結衣先生にいたっては、勉強に関しては妥協という言葉をまったく知らないから、
それほど心配はいらないと思うのだが。

ここまででお目付け役程度として、アキトの付き添いに行こうかと思い始めたハルキだった。

「わかったわかった。お前の戯言は置いておくとしてな。
まあ一応に考えておくよ」
「おぉ、ありがとう。前向きに考えてくれ」

ハルキはここで礼を言うのも変なものだと感じた。
おそらくは、本当の理由は己の推察と最初の言葉にあるのだろう、
微笑ましさに、にやつく表情を抑えられなかった。

********************


金曜日