日曜日


月曜日

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何年ぶりか、それこそ数えるほどしかない少ない事例、アキトは通学路を一人登校する。
他の学生、社会人に混じって電車に乗りながら景色を眺める。
どうにも昨日の夜から晴れない気持ちを抱え、黙りこくるのは精神衛生上よろしくなかった。
内に溜まったものは吐き出すのが一番良いが、肝心の話し相手はいなかった。
珍しく一人という事もあって、早めの電車にしてきた所為もあり、
まばらな人の中には友人も見当たらなかった。
そもそもいつもの時間帯よりスーツ姿の比率が高い。
それを見てアキトは心底うらやましく感じられた。
自分も今、社会人なら堂々と結衣に対してお付き合いして欲しいと言えるのに。
むしろ今日にも指輪を持っていき、プロポーズをしたいくらいだった。
懊悩を深めるのは、自分の力の無さと、一番の相談相手の不在だ。
アキトは自分には社会的、人格的、そして当事者以外は苦笑ものだろうが、
身体的に結衣との身の丈が合ってないことを自覚する。
彼女の心の広い大人としての態度が、かえって見えない線を引かれている気分だった。
難攻不落? の城砦を攻略するには、手持ちの武器が不足している。

もう一人の自称、心の広い大人はどこでなにをしているやら。

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ハルキの朝は早く、葵が起きる前にさっさと自分の服へ着替え、朝食の仕度を始める。

「おはよ〜」
「おはようございます」
「朝ごはんはなに?」
「ベーコントーストに梨、スクランブルエッグとヨーグルトサラダ、そのくらいですけど」

葵はあくびをしながら椅子に座って、コーヒーを飲みテレビを眺める。
自動的に出てくる朝の楽さには、自堕落な気分にさせられる。

「ハールーキー君」
「何ですか?」
「私にあ〜ん・し・て」
「はい、どうぞ」

今更逆らう気も起きないハルキは、フォークに梨を刺して口元まで持っていく。
女性が無防備に口を開ける仕草はそこはかとなくエッチだ。

「どうですか」
「んむ……苦しゅうない、それよりよく眠れた?」
「はい」

葵は食べる手を止める。

「そうなの、よく眠れたのね。私なんかハルキ君が近くに居て、ドキドキで眠れなかったのにな〜」

ハルキは地雷を踏んでしまったことに気付く。
自分から慰めの言葉をかける訳にもいかず、ただ苦笑する。


ずいぶんと長い休日だったと思う。
色々とあったが、昨日の一日で気持ちの整理をつけ、良い気分だった。
これから久しぶりと言えば大げさだが、
それでもアキトが何を考え、何を思っているか会うのが楽しみだった。
苦悩と喜び、この狭間にいるのは間違いない。
相手は風変わりな難敵だが、上手く行ってもらうため、労を惜しむつもりは無かった。
己はどんな時でも幸せになれる自信がある、
だがアキトはそうではないはずだ、
こうなった以上アキトは是が非でも、結衣と結ばれて欲しい、
あのアキトが唯一強い好意を持った女性だから。
アキトには幸せになって、自分が生を受けた喜びを心底から謳歌してほしかった。

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「よっ、おはよ。なんか久しぶりって気がするな」

アキトが思い悩んでいると、教室の入り口から知った声が聞こえた。
目を向けるまでもなく、兄のハルキだとわかった。
違うクラスだが、わざわざ足を運ぶところ見るに、多少悪びれた様子が窺い知れた。

「ん、おはよう。それより昨日はどうしたんだ」
「悪い悪い、遅くなったんでそのまま泊めてもらうことにしたんだ。
まあ代わりに今日はアキトが好きなエビチリでも作ってやるよ」
「それは嬉しいけど……」
「それよりもお前こそ土曜日の夜はどうだったんだ。ん? ん?」
「い、いや。それなりに仲良くなれたと……思う。気を利かしてくれてサンキュ」

アキトは自分の方こそヤブヘビだったと悔やんだ。
だが兄がそれ以上追求する気がないらしいことがわかり、ほっとする。

ハルキはハルキで、弟の反応を見て安心する。
性格からして言うわけないが、間違いなく弟と結衣はセックスしたはずである。
だが、それがどういう成り行きかまではわからなかった。
弟のほうから積極的に、というパターンはまず無いため、
結衣のほうから誘惑されたか、逆レイプされたか、どちらかだろう。
微妙に赤面してその台詞ならまず前者だろう。これは今後のことを考え好ましい方向だ。

よくよく自分との場面を冷静に分析すれば、トラウマを植えつけかねない後者はまず無いとも言える。
結衣は自分が気持ちよくなるため、相手の力を120%発揮させる状況を作る、
純粋で狡猾、本能に赴くまま理知的にそれは成されていく。
なんとなく将棋が上手いのもわかる気がする。
少しでも緩めれば詰まされるため、必ず限界まで攻めなければならない状況に、いつの間にかなっているのだ。

「なに言ってるんだよ。その分だと結構脈がありそうで良かったよ。
まあ、お互い色々難しい立場だろうけど、俺は協力するから何でも言ってくれ」
「おぉ、ありがとう。……そうだよな、色々難しいよな」

妙に積極的な兄の働きかけにアキトは驚いた。
いつもなら、ひとしきり笑った後に肩を叩くのが関の山だったはずだ。
真摯なほど気に掛ける上、協力をするとまで言われると、俄然心強く思える。
だが昨夜悩んでいたことがぶり返される。

「でさ、これからどうしたらいいか、全然わからなくて……」
「はあ? 普通にデートに誘ったりとか、とにかくもっとお近づきになるのが重要だろ」
「ああ、確かにそうだけど」
「お互いを良く知る。それが付き合う上での基本だろうしな」

兄の言ってることは真に正しいだけに、途方に暮れてしまう。
だが、アキトは顧問である結衣のことを色々良く知っていたし、
曲がりなりにもすでにお近づきになっていた。
どうも話が噛み合わないと思っていたら、第一に話の前提が違うのだ。
スタート地点が通常とは根本から違っている。

「俺さ……」
「ん?」

アキトはいっそのこと、全部洗いざらい打ち明けるべきか悩む。
あまり兄との間に隠し事はしたくない性分でもあった。
だが、すんでのところで思いとどまる。
少なくとも内容が内容だけに、今は場所が悪い。

「いや、なんでもない。まあ少し考えるよ」
「こういうのは考えてもダメだって。
よけいなお世話かもしれないが、思い切って行動するのが大事だぞ。
結衣先生は待ってても意味はないし、遠まわしなアプローチをしてもダメなタイプだと思うぜ」
「あああぁ、わかったけど少し頭を冷やさせてくれ」

妙に知った風なお言葉に、アキトは苛立ちが募る。
そういえば結衣との会話で、ハルキが女性関係が色々あるらしいような推測をしたことを思い出す。
だが直接兄の口から、女の子と付き合ってる話は聞いたことはない。
確証も無いのに問いただす訳にいかないし、今この場ではあまり意味のないことだ。
なにより隠したいのかもしれないなら、話さなくてもそれはそれで良いはずである。
それだけの分別はアキトにもある。

こちらとしても逐一話す必要は無いはずだ。
自分と結衣の関係、それは前提を共有し話の方向性を定めるだけで充分なはず。
いささか情けないとは思うが、五里霧中の今は兄の協力は必要だった。

「……あのさあ、二人で話がしたいけどいいか?」
「それは、結衣先生のことだよな」

ハルキは、アキトの言った二人という言葉に本気を感じて、あえて確認する。

「勿論」
「それなら夕食の後でいいだろ。
休み時間は時間を気にしなくちゃならんし、
放課後は……アキは部活があるだろしな」

わざわざハルキは昔の愛称で弟を呼ぶ。
女の子っぽいと言うことで本人が嫌がり、いつの間にか自然消滅した呼び名だ。
口調からしてリラックスさせたい意図が見え、アキトは昔のように不快に感じることもなかった。

「悪いな。俺ばっかり春が来る相談して」

ハルキがたまにする言葉遊びを少し真似て返す。
少し苦しいと思いつつ、お互い笑ってしまった。
ハルキの昔の愛称が、そのままハルだからだ。

「いいって、気にするな。俺よりもアキには幸せになってもらわなくちゃならんぜ」

アキトは微かな違和感を感じた。
いつもならこういう場面では口調に茶化しや強がり、冗談を含んでいるはずだが、
今の言葉にそんな要素がまったくなかったからだ。


授業が始まり、アキトは勉強に集中する。
もともと県内で随一の進学校だが、その中でもアキトの成績は上位者である。
だがそんなことも、自分をつまらなくさせてる要素の一つに思えてならなかった。
その原因の最たる物が、兄のハルキの存在との対比だ。。
時々兄を疎ましくもあったが、本気で憎む時は一度足りもなかった。
単純に兄と居る時間が面白く、気をおけないからだ。
相手をリラックスさせる気遣い、安らぎをもたらす雰囲気、
楽しくさせる話術など、憎めない素質においては枚挙に暇がない。
そしてこれらの素質は成績の良さとは無縁だ。

なぜ今まで思い当たらなかったのだろうか。
自分ですら、何を勘違いしたのかラブレターを出す輩がいるくらいなのだから、
兄が女性にもてるのは当たり前だと、女性関係の一つや二つ、あって然るべきだと。

「結衣、先生と……ハルキならお似合いだろうにな……」

どうにも、あの夜の最後が頭から離れない。
我に返る結衣の悲しみに似た表情は、心の奥底に残る癒えない傷だった。
あんな顔をさせたくなかった。
そしてハルキならあんな顔をさせなかっただろうな、とも思った。


ハルキはぼんやりと結衣のチョークの音を聞く。
ある程度学力によってクラス別けされてるのだが、
そのせいもあってか授業は比較的わかりやすい部類に入る。
ハルキの成績自体は、さして勉学に励んでいるわけではないが、下の上の位置をキープしていた。

黒板の数式をもとに行う結衣の解説を聞きながら、
アキトとお似合いの女性であるか、と考えをめぐらすが答えは否であった。
けれど、もともと結衣とお似合いの異性を想像するに、
少なくとも半径100km以内にはいないのではないかと思われた。
たいてい彼女を持て余すに決まっている。
美人でスタイル抜群、性格も良い、そこまでなら引く手あまただろうが、
推測を含むに、家柄、資産、卓越した頭脳、高学歴の上、身長の高さに、神のみぞ知る性欲、
結衣の持つ大樹のような風格が備わると、お付き合いするには高すぎる相手だった。
強引な前提だが似合いの人なんていないと思えば、困難も乗り越えられそうな愛情や、
ほぼ対等に相対することが可能な将棋など、アキトは全然ましな相手に違いない。
アキトの独り言とは反対に、ハルキは自分よりは見込みのある相手だと思った。
むしろ弟の物好きさに感心する、自分なら勘弁してもらいたい気もした。

「まっ、でもあの胸は反則だよな……」

白く凛としたシャツを押し上げる胸。
二つの頂点へ引き寄せられ皺の形状すら美しさを引き立たせる。
はち切れんばかりに谷間の生地を引っ張り、歩くと軽く上下する錯覚に襲われる豊かさ。
下に潜む形の美しさも知っているだけに、授業中にも関わらずいけない気分にさせられる。

「また、あのおっぱいに顔を埋めてみたいな……」

ぼうっと遠目で眺めながら、誰かに聞かれれば危険極まりない独り言を吐く。
ハルキはおっぱいこそが至上と思ってる男だった。

「は〜い、ハルキ君」

独特の間延びした声を聞いて、呼ばれた者のみならずクラス全員に緊張が走る。

「は、はい」
「ぼ〜としちゃダメだよ。わかった?」
「はい!」

はきはきとした返事を返すが、内心動揺が収まらない。
結衣先生が裏で結衣ドンなどと呼ばれるのは、
スパルタ式とも恐怖政治とも呼べそうな教育方針にもあった。
今ハルキになされたのは最後通告だった。二度目は無い。
昨日はどうかしてたとしか思えない、やはり勘弁してもらいたい相手だった。


放課後に入ってハルキは教室を出る。
もとから部活に熱心なほうではないため、無所属で過ごしている。
家事に対して勤しむ義務と意義もあった。
念のため帰る前に、アキトへ一言かけようと教室へ向かった。
だが見渡せど目標は補足できず、まだ残っている人に聞こうとすると肩を叩かれる。

「はぁい、ハルキ君」
「なんだ、結衣先生か……」
「なんだとはずいぶんなお言葉ねぇ」

二人とも昨日の今日であっても、表向きは平然としたものだった。

「いや、別にそういう意味で言ったんじゃないです」
「わかってるわよ。あなたの麗しの君をお探しだろうけど、ここにはいないわ」

微妙に引っかかる言い回しだが、ハルキは反応する気も無かった。
相手が悪いのは重々承知だった。

「先生も部活に顔出すんですよね」
「ええ、職員会議が終わった後だけど」
「それならアキトに、今日は部活が終わったら直帰するよう伝言願えますか」
「うん、いいわよ。でも理由を聞いたら失礼かしら」

予想外な問いかけに、僅かながら躊躇いが生じる。
言わないのは変、しかし言うのもなにか引っ掛かりがある。

「ん〜と、まあ久しぶりに家族団らんで夕食をするってことですね」
「はいはい、わかったわ。泣ける理由ねぇ〜」
「……言ったそばからなんですが、先生に伝言お願いするのが不安です。
変に邪魔立てしないで素直に伝えてくださいよ」

結衣は笑って、何をご冗談を、という風に手をひらひらさせる。

「もう〜、そんなことしないわよ。
そこまで言われたら、早めにでも帰させるわ」

ハルキは結衣の反応を見て、あまりに信用に欠ける発言を恥じ入る。
けして悪人ではないとわかる、だが良くも悪くも常識に囚われない人なのだと思う。
ある意味、漠然とした不信感が育まれる程度にはお互いを知り、仲が良いと言えた。

「まあハルキ君ブラコンだものね。けれど過保護なのは考えものよ」
「かほご……ですかねえ……」
「ふふ、ハルキ君優しいからね、背中を押したくなる気持ちもわかるけど。
でもね、あんまり自分を置いてけぼりにするのも良くないよ」
「はあ?」
「時には二匹のウサギさんを追ってみなさいってこと」
「……はあ」

何を言いたいのかさっぱりわからなかった。
だが自分が何を目指しているか、結衣には丸わかりのようで微妙な気分になる。
その上で止めず、あえて触れない点も余裕の表れに見えた。
先ほどした己の失言も、余裕の無さから来たと思えば格の違いを知らされたようなものだった。

結衣は必要なことは言ったとばかりにきびすを返し、職員室へ向かった。
後姿を見ながら、ハルキはため息を吐く。
彼女にとって自分やアキトはどういう位置付けにいるのだろうか。

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ホワイトボードに、いかにも手作りといった感のあるマグネット式の駒を動かし、囲いや戦型の説明をしていく。
苦心の跡が窺えるが、見栄えもよく出来は悪くなかった。
これまで初心者お断りとも呼べる、体育会系文化部、それが将棋部だったが、
結衣にめった切りされたことと、アキトの個人的人気もあってか、
文字通り駒の動かし方も知らない女子がぼちぼち入部することになったのである。
まさか入部を断るわけにいかず、また顧問の結衣の意向も合って、初心者指導講座が設けられた。

今週はアキトの番とあって、マグネット駒を使い、いくつかの型を説明していく。
プロが行う普及活動の大変さが身にしみる思いだった。
ある程度のカリキュラムは顧問が考えてるとはいえ、中身は当番の裁量に一任される。
人に教えることの大変さは、実際にやってみないとわからないものだ。

「は〜い、質問です。そこは銀で囲ってはダメですか」

初期の頃と随分違う質問内容に、
否応無しにこれまでの長い道のりを思い出してしまう。
普段なにげなくやっている将棋というものをいざ人に教えるとなると、
当たり前のルールが当たり前でないという事実を思い知らされた。

「基本的に金は守りに向いて、銀は攻めに向くと覚えておいてください。
金は動ける場所が広いが、攻めても成ることができない。
銀は動ける場所は金より狭いが、攻めて成ることができる。
もし取られても、金は金のままですが、成り銀は銀に戻るのもポイントです」

がらっと引き戸の音を鳴らし、結衣が部室に入る。
受講側の椅子に座り、楽しそうに笑顔で静聴していた。
講座も終わり、アキトは最後に総括をお願いすることにした。

「先生、何かありますか?」
「ううん、内容についてなら特に無いわ。
それよりみんな、家でお父さんとかお爺さんと指してみた?」
「はいはい、先週はお父さん相手にいいところまでいきましたよ」
「最近、弟に勝てるようになって、すっごい悔しがるんですよ。面白くて面白くて」

結衣は声を上げる女子生徒に対して、満足げにうなずく。

「もう結構やってるみたいね。それじゃあみんなアキト君と指してみる?」
「えっ」
「きゃあ、せんせいっ話がわかるぅ〜」

アキトの返事を待たず、黄色い歓声があがった。
部内一の実力のため、実際に対局する者は部員の一部と顧問ぐらいなもので、
一般のレベルの腕前から見れば、ある意味高嶺の花と呼べる存在だ。
だがアキトにしてみれば、結衣の仕打ちは時間の無駄とも思える行為であり不本意だった。

「ふふ、アキト君、そんな顔しない。やってみると、将棋を教えるのもいいものでしょ」
「まあ……結構面白いですが……」
「さっきハルキ君から伝言頼まれたんだけど、今日は早めに帰って欲しいそうよ。
そういう訳だから、これが終わったらそのまま帰りなさい」
「なにも先生に伝言なんて頼まなくても……」

わざわざ接触の機会を増やそうとする兄の気遣いに、
落ち着けよお前、と今ここにいない人間に言いたくなる。
それに早く帰れなどと言われても困ってしまい、不本意ながらその意向は無視したく思う。
部活動は充実したひと時であるとともに、貴重な結衣との接点でもある。

ハルキが思ってるよりアキトと結衣は確かに仲が良い。
だからこそ馴れ合う今の状況を困ってるのだが、それがハルキには想像の外だった。

「せめて先生と一局させてくださいよ」
「はいはい、ほらみんなを待たせない。……あと指導局の基本、わかってるわよね」
「は、はい」

それは初心者から脱し、ある程度の腕前になったら勝たせることである。
ハンデを付けるのは勿論のことだが、それでも勝ってしまうとやる気を失ってしまうものだ。
上手が無理矢理勝ちにいても良いことはない。

「では八枚落ちからやってみましょう」
「「「は〜い」」」

かしましい声が部室内に響き、アキトは他の部員の目が突き刺さるのを感じた。
本を糺せば、部長たるアキトが結衣に負けたのが原因なのだ。
この状況を何とかしろと言いたいが、
とりあえず自分の実力は棚に上げておかざるをえない歯がゆさからの視線だった。
アキトは部の代表を自負しながらも、気持ちはわかるが無理だよ、と心の中で皆に謝った。

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「ただいま〜」

玄関から聞こえるのはアキトのものだった。
エビの殻を剥きながら時計を見て、いつもより早い時刻の帰宅だと思った。

「おっ、今日は早いな」

アキトは怪訝そうな顔をする。

「お前が早く帰って来いって言っただろうが」
「うん? いや言ってないが」

ハルキはさっと今日一日を振り返るが、やはり言ってないことを確認する。
だが結衣に言づてをお願いした時、ちょっとした経緯から早く帰らせることになったのを思い出した。

「ああそうか……すまんな。本当は寄り道しないでまっすぐ帰れってことだったんだが」
「それくらい、いつも通りなんだから、わざわざ先生に伝言しなくてもいいって。
なんだか、いちいち仲良くさせようと必死な気がするぞ」

ここでアキトはこの先を言うべきか迷ったが、
どうにもしっくりこない違和感から問うことにする。

「はっきり言って最近変だぜ。
ふらっとどこかへ行ったり、妙に俺のことで張り切るし、何かあったのか?」

意外に鋭い弟の指摘に内心驚く。

「ほらやっぱり」

顔に出さなくてもわかるのは、長年の付き合いだけではない。
世間が言う空気を読む、勘とも違う、目に見えない繋がりからくる波長みたいなもの。
アキトにとって確信を持つには充分だった。

「いや、別に無いって」

エビの殻を全て剥き終わり、料理の準備を一段落つける。
だが会話は膠着の様相を帯びていた。

「嘘だね……って言ったそばからなんだけど、
誰だって隠し事くらいあって当然だろうし、別に有るか無いかだのどうだっていいさ。
ただ今回に限っては、気になって仕方ないから理由を聞きたいんだ。
どうして普段から考えられないくらい気に掛けてるんだ?」
「……」

沈思するハルキは、自分でもいささか似合わないものだと自嘲気味に思った。

「ん……と、まあ不審がられるのも嫌だしな。
このさい言ってしまうとさ、実は俺……前にクラスの女子と付き合ってたことあって、
まあ、そのなんだ……お前さ、女子に対してあんまり良い感情持ってないだろ」

図星を突かれ、はたから見ても滑稽なほど顔に出して反応した。
双子でありながら、役者の違いが見て取れる。

「だから黙ってたけどさ、やっぱり結構そういう経験も良かったって言うかさ、
だいたい食わず嫌いなところもあるんだろうから、付き合ってみればいいと思ったからが一つ。
二つ目は、お前が何にも女っ気ないと、どうも俺が卑しい気がしてちょっと負い目もあったんだ」

嘘をつくのにあえて本当のことを混ぜる。そうすれば真実味がます。
ハルキは自分の中で、卑しさを感じていたのは本当だった。


始まりは高校に上がって聞いた父の呟き、心が冷えた瞬間熱いものが欲しかった。
とにかく熱いものに焦がれ、満たされるよう渇望した。
供給に事欠かなかったのをこれ幸いとばかりに、言い寄る女子と何人も付き合った。
この歳で肌を重ねた女性が一人や二人ではないのは充分に異常な数。
だが得るものは一時的な快楽、それも泡沫のように弾けて消える。
彼女も彼が何を求めてるのかわからず、そしてそれが自分ではないとわかると別れていく。
そんな繰り返しだった。
ハルキは次第に汚れていく自分を自覚しながらも、アキトは清いままでいて欲しかった。
それは結衣に対して行った意趣返しの理由にほかならない。


「だけど相手が教師だってのはちょっと意外だったけどな。
まあ今のうちに色々仲良くして、本格的に付き合い始めるのは卒業してからがいいんじゃね」
「けど……」
「ん?」
「ハルキもさあ……結衣先生のこと好きなんだろ……」
「はぁ?」

アキトにしてみれば、これ意外に考えられない理由だったが、
問われた方は思いがけない台詞を聞かされ、開いた口がふさがらない状態だった。

「本当はそれが負い目で、わざわざ俺を先生と仲良くさせようとするんだろ」

こいつは何を勘違いしているんだろか、今まで何を聞いていたのかと呆れる。
やっかいなのはアキトが、まだ嘘をついていると思っていることだった。
思考が錯綜して、混乱の一歩手前の中で必死に計算する。
アキトの言っていることは全部がハズレという訳でもない。
好きか嫌いかと問われれば、後者ではないのは確かだ。だがアキトの誤解なのは間違いなかった。
この誤解を否定すれば、まだ何か嘘をついていると思われる可能性がある。
だが肯定するにはやぶさかではない。
誤魔化すように答えるぐらいしか思いつかなかった。

「い、いや、それはお前の考えすぎだ。
仮に、仮にだぞ、俺が結衣先生のこと好きだとしても、
アキトの方が百倍お似合いだし、先生もアキトの方が良いと思うはずだって」
「そうかぁ? 俺はハルキの方がずっと……」
「だあ!! お前はもっと自分に自信を持てよ、自信がないからそんな妄想じみた考えするんだぞ!!」

さすがにこれにはアキトも閉口としたが、そんなことにかまっていられるほどハルキも冷静ではない。
玄関から戸が開く音が聞こえるのが、まさに救いの鐘だった。

「ただいま。おっ、どうした変な顔して」

アキトはまだ納得のいってない顔を見せているが、父が帰った以上この話題は打ち切られる。

「おかえり。別になんでもないよ。な、アキト」
「あ、ああ」
「ふむ。お、今日はエビチリか。久しぶりだな」
「ほらほら、ご飯炊けたし、父ちゃんも帰ってきたから席に着け。出来立て熱々食わしてやるから」

ハルキはわざとらしく中華鍋をお玉でカンカン鳴らして催促する。
渋々席に付くアキトだったが、心の中にあるわだかまりは当然解けることはなかった。
そして今日の夕飯はいつも以上に美味しかった。


アキトは食べ終わった後、風呂に入って自室に引きこもり予習復習を始める。
父が台所で晩酌をする中、ハルキは隣接する居間で、
葵から強制的に貸せられたクラシックのCDを聞きながら、テレビでサッカー観戦をする。

「ハルキ……今日、帰ってきてからアキトどうしたんだ」
「お年頃のお悩み相談……てところだね。内容は言えないけど」

父もその一言でおおよそのことがわかったのだろう、ははっと破顔一笑してぬる燗をちびりとやる。

「アキトもやるなあ」
「そうだ……ね」

何気なく聞き流すところだったが、アキトも、という台詞が気になった。

「二人とも顔立ちは母似だが、性格でみるとハルキは母に似て、
アキトは私に似てるかと思い、面白いものだと考えていたがな。
あれでなかなか侮れないところがあるもんだ。
まあ良きかな良きかな。それも青春だよ」

上機嫌な父は陽気に一杯ひっかける。
ハルキは自分たちを否定し、自分たちを捨てた母が嫌いだった。
成長し分別がつく今、それぞれの事情があることを考慮しても大嫌いだった。

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火曜日