第一話 言葉

『私』『寝る』『すぐ』
「ああ…そうか。もうこんな時間か。じゃ、おやすみ。また明日来るよ」
『違う』
「え?」
『私』『寝る』『朝』『無い』
「…え…?」
『朝』『ない』

ユキコは同じことを繰りかえした。『言葉』は間違っていない。「朝は無い」と言っている。みるみる潤んでゆく目の端から、大粒のしずくがユキコの頬を伝い落ちた。涙のせいで『言葉』が読みとれない。
だがユキコの言わんとすることとは…最期の、夜…?

「…まさか…まさか…そんな、冗談だよな?」

原因不明の全身麻痺がユキコを襲ってからわずか半月しかたっていない。けれど病状は急速に悪化し、いまや指先を動かすことすらできない。
無数の管を繋がれた体は痛々しく、できるものなら僕がかわってやりたいぐらいだ。不思議なことに麻痺したのは随意筋だけで、内臓その他はおどろくほど正常に機能していると主治医は言う。
かといって植物状態というわけでもない。僕らは「会話」ができる…耳は聞こえるものの声が出せず筆談もできなくなったユキコだが、彼女だけの特殊な『言葉』を使ってね。
嘘だと思うかもしれないが彼女の瞳は数十種の単語を表現できるんだ。それが僕には解る。いや正確には僕にしか解らないのだが。
そして明日の朝にはこの会話もできなくなる…つまり瞳を動かせなくなる、ということなのだろうか。ユキコは自分でそのことがわかってしまったのだろう。意思の疎通ができなければ、ユキコにとっては死にも等しい。

『私』『朝』『無い』

ハンカチで涙をぬぐってやると、ユキコは何度も何度も繰りかえす。そういえば「死」とか、そういうたぐいの単語は不吉だからやめようって約束したんだった。
こんなになってまで約束を守っているユキコが健気でいじらしい。

「わかったよ…わかった」

ユキコの腕をとり、ぎゅっと握る。雪花石膏の、とはまさにユキコの肌のためにある表現だろう。病的に青白いってわけじゃないんだ。ちゃんと血がかよっていて、それでいて透き通るように美しい肌。
僕の毛むくじゃらで赤茶けた腕とならべると、いっそう白さがきわだって見える。名は体をあらわす、って本当だな。ろくに化粧もしていないのに、シミひとつなく端正な顔だち。その瞳がゆるく動いた。

『私』『好き』『あなた』『一番』

ユキコが大好きな『言葉』、いや『文章』だ。おもしろいことにユキコは「愛してる」よりも「好き」と言うことが多いんだ。声を失った今でもそれは変わらない。
そういえば、帰ってくるなり「大好き!」って胸にとびこんできたユキコ、とても可愛かったな…なんだかすごく昔のことのように感じられる。

「ああ。僕もユキコが大好きだ。愛してる。世界一、愛してるよ。」
『あなた』『泣く』『だめ』

喋りながら、いつのまにか僕も滂沱の流れで頬をぬらしていた。どういうわけか涙もろい僕は、よくユキコにたしなめられたっけ。

「嬉し涙だよ嬉し涙」
『あなた』『泣く』『だめ』『私』『泣く』『一緒』

「あなたが泣いたら、私まで泣いちゃうじゃない」って、これもよく言われたな。
見るとユキコも涙があふれていて、もう瞳は『言葉』を紡げなかった。僕たちは、くしゃくしゃになった顔をもっとくしゃくしゃにして、しばらく泣き笑いあった。


→第二話 願い