←第十四話 痛み 〜 side ユキコ 〜

第十五話 産声 〜 side ユキコ 〜

麻酔をうっての無痛分娩なる方法もあるんだって。こんなにも痛いのなら、なんで無痛でやらせてくれないのだろうか。痛くて気絶しそう。気絶してしまったほうが楽かもしれない。むしろ痛すぎて気絶なんかできない。…あれ、矛盾してる。
あのあと、すぐに出産だと意気込んでいた。ところが、分娩室に入ったはいいものの、しばらく放置されてしまう。何やってるのかしら。じれったい。するとまた痛みが襲ってくる。より強く、より長く、さっきよりもいっそうつらい。
時計がないのではっきりとはわからないが、陣痛の間隔はさらに短くなったようだ。それに反して、痛みは1分ちかく続く。それがもうなんど繰り返されたことやら。そして、赤ちゃんが外に出たがっているのだろう。「出してしまいたい」猛烈な欲求が下半身を襲う。
ちょっと下品だけど「大のほう」が近い感覚。ここ半月のあいだ排泄なんかないのだから、いまさらあるわけがない。でもその生理的欲求と区別がつかないのはいただけないわね。あいぃぃぃ痛い痛い。ま、まだなの…もういきんでもよさそうなのに…いきむ…?
はっと冷静になる。わたし、いきむことができない。赤ちゃんが産まれるために、いきむ必要があるはずなのに。ど、どうすれば…どうしようもない…でも、どうにかすれば、なんとか、なるかも、しれ、う、うぐ、むむむむむむ…。
わたしの体は、もうわたしの思い通りには動かせない。でも、わたしの意識にとらわれない機能は異常なく働いているというのなら、産んでみなさいよ。できるでしょ。できないなんて、言わせない。赤ちゃんを無事にそだてた体でしょ。だったら、無事に産ませなさいよ。
おねがい、あかちゃん、わたしのあかちゃん、ゆっくりでいいから、おそとに、おへやから、おそとに、おいで。おねがい。ほら、しんぱい、いらないよ。ゆっくりで、いいから…できたら、もうちょっと、いそいで、くれると、うれしい、けど。
赤ちゃんのために、ちからを振り絞ってみた。無駄かもしれないけど、やらないよりは、まし。案の定、わたしのがんばりに体はまるで無反応。でも赤ちゃんが、ゆっくりと産道をひろげはじめたのがわかった。やった、もうひといき!

「破水がはじまりましたね。子宮口の拡張もきわめてスムーズです。普通、妊婦さんは痛みのせいで体が過度に緊張してしまうものですが、不幸中の幸いといいましょうか、その心配がありません。…排臨開始。時間は?」
「記録しました」
「あとは自然に赤ちゃんが降りてくるのを待ちましょう」

産科医が誰かと話している。自然に、だって。こっちは必死なのよ。子宮が赤ちゃんを追い出そうとでもしているみたいにぎゅうっと収縮してものすごい激痛が腰のあたりをいったりきたりしている。その痛みをはねのけながら、赤ちゃんだけに意識を集中した。
産まれる。産まれる。産まれる。ただそればかり心の中で叫びながら。もうおしまいのほうは頭の中をいろいろな光やら言葉やら形のないものやらがとびかっていて、もうなにがなんだかわやくちゃだった。そして…。


ぅふぎゃぁぁ……
 ほぎゃ、ほぎゃ
  ほぎゃあ…ほぎゃあ…ふぎゅ、ほぎゃあ

…なんの音よ。わたし頭おかしくなっちゃったのかな。…下腹部の痛みも去っている。おまけにおなかから下がなくなったみたいな開放感。その代わりに、からだじゅうをなにかが駆け巡っているような奇妙な感覚。なんだろう、これ。幻覚?

「ユキコ、産まれた、産まれたよ。やった、やったぞ、ユキコ!」

彼の声がする。やっぱりマボロシか。会社にいるはずの彼がここにいるわけないもの。痛みでアタマおかしくなっちゃったのかな。でもこの溢れるような悦びとも感動ともいいあらわしようのない感情は…変な幻覚を見ているかのようで。

「おめでとうございます、元気な女の子ですよ」

という女医の声で、はっと我にかえった。女医が青い術着をまとったなにやら小さなものを腕に抱いている。もぞもぞと動いては、おかしな音を放っているそれを彼にあずけようとして、躊躇しているような、そんな光景。彼がにこにこしながら、わたしの顔を覗き込む。

「そろそろ離してくれるかな、痛いよ、ユキコ」

目の前に彼の手が差し出された。だれかの手を握りしめている。誰の手よ、そんなに固くつないじゃって妬けるわね。彼の手がもみくちゃじゃないのよ…えっ…まさか、わたしの、手…なんで、どうして?

「旦那さん、ご出産のあいだ、ずっと奥様の手を握っていらしたんですよ。ですから、お渡しできなくって」

どうして彼がここにいるのだろう。ずっと手を握ってくれていたって、どういうことだろう。渡すって、何をだろう。まだ頭が混乱していて、うまく考えられない。でも、彼の手を血の気がうすれるほど強く握りしめていたことに、いま、気がついた。
手の力をゆるめると、彼がゆっくりと手を離す。わたしの体は動かない。だから、手を握れるはずがない。なんで、どうして?
ますます混乱するわたしを後目に、彼が女医から「ちいさなもの」を受け取った。眠い朝の目覚まし時計のように、けたたましい音声をあげるそれは…。

「ほぉら、ママだぞう」

赤ちゃん…赤ちゃんね、わたしの赤ちゃん、わたしと、あなたの、赤ちゃん。彼がわたしの顔にくっつきそうなほど赤ちゃんを近づけては、離し、また近づける。赤ちゃんは少しぐずりながらも、あどけないまなざしでわたしをみつめていた。
体中をかけめぐるこの感情の正体が、やっとわかった。いままででいちばん嬉しいんだ、わたし。いままででいちばん幸せなんだ、わたし。


エピローグ 眠姫

検査もひととおり無事に済んだ。母子ともに順調。ユキコが産んだ赤ちゃんは2990グラム、やや早熟かもしれないが健康な女の子だ。いまはユキコの隣ですやすやと寝息を立てている。起こさないように、小声でユキコに話しかけてみる。

「ユキコ、喋れる?」
『…』
「だめ、か」

出産のとき、ユキコは確かに僕の手をしっかり握った。痛みをこらえるためか、赤ちゃんを産むのにいきむためか、それはわからないが、僕の手の骨が軋むほど、強く。体が動いたってことだ。あのときは赤ちゃんのことで頭が一杯だったせいで、気がまわらなかった。
とはいえ、主治医は特段の変化は見られないという。あれきりユキコの体が動く様子もなかった。もちろん『会話』もできない。もっと早く気がついていれば、なにか対策ができたのだろうか。ちいさな後悔の念が浮かんで、消える。
まあ、くよくよしても、はじまらない。変化がないということは、悪化してもいないということだ。これまで徐々に悪くなってきたことを思えば、もしかしたら回復の兆しなのかもしれない。空元気じみた激励を自分自身にぶつける。
根拠はないが、ユキコがふたたび起き上がれると信じている。僕が信じなくて、誰が信じるか。信じるものは救われる。きっと、良くなる。良くなるに違いない。そうさ、赤ちゃんを妊娠するためにユキコの身体が一時的に休眠していただけさ。

「ユキコ、はやく良くなるんだぞ。さもないと…また孕ませちまうぞ」

…我ながらデリカシーのなさに呆れる。けど、下手な慰めよりは僕らしくていいんじゃないかな。そうさ、ぐじぐじしている場合ではない。コートを羽織り、病室をあとにする。なにしろいても立ってもいられない気分なのだ。
子供も産まれて、やるべきことはたくさんある。なんでもいい…僕にできること、僕にしかできないことをするだけだ。眠れる姫君のために。

『…ばか』

ひとりになった病室で、潤んだユキコの瞳が、静かに「言葉」を紡いでいた。



 おしまい