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第十話 告知 〜 side ユキコ 〜

それからのこと…声がだせるものなら、だれにでもいいから話してあげたい。
ついに彼との『会話』もできなくなって、もしかしたらこのまま死んじゃうのかな、なんて思ったりもした。もう覚悟はできていたし、変に冷めている自分が可笑しかった。彼との交わりを望んだのは、せめてもの抵抗…みたいなつもりだった。
でも、そうじゃなかった。今は、生きたい。希望がある。生きるための活力がどんどん沸き上がってくる。私のおなかの奥でたしかに息づいているものが、私にちからを分けてくれる。せめてもの抵抗なんて、とんでもない。これほど前向きになれるなんて。
…そう。あれから夜があけて、私と外の世界はあいかわらず一方通行だったけれど、内なる変化は前にもまして鮮明に伝わってきていた。子宮の内部を猛然と昇ってくる彼の精子。数はひどく減っていたけど、選り抜かれた精鋭だけがここまで来たってことなのかな。
卵管の途中で動かなくなっていた私の卵子。おねぼうさんね。まだ寝てる。何匹かの精子が表面をノックしていたけど、ぴくりともしない。そのうち、結構な数の精子がやってきて、かわるがわる卵子のまわりを泳いでは、まとわりついたり、つついたりした。
そのうち1匹の精子が、ようやく卵子の殻をやぶることに成功した。つぷり、と音がしたかどうかはともかく、ふたつのちいさな生命の素は、ついに融合することができたようだった。すると、今までじっとしていた卵子がゆっくりと動きはじめる。
受精、ぶじにできたんだね。子宮に向かってころがってゆく。目的地をめざして確かな足どり(?)だ。ときおり振り返るみたいに、くるっとまわる。受精できずにちからつきて弱々しくふるえている精子たちと、お別れをしてるみたいだった。

「奥様だからといって、何をしてもよいというわけではありません」

突然ひびきわたる不機嫌そうな声で、私の意識は引き戻された。お医者様の声…それと、なぜか平謝りの声(彼の声だ)が交互に聞こえてくる。要するに彼が私をむりやりどうにかしたという言い草らしい。誤解よ。私が彼にお願いしたの!あなたに何がわかるのよ?!
思わず怒鳴りつけた…つもりだった。声はおろか『言葉』すら出ないのに。すると私を一瞥したお医者様が、なぜか突然くちごもる。そして妙にばつのわるい顔になって、それから黙ってしまった。…伝わった?また『喋れる』ようになったの?
結局それっきりで、再び『言葉』が使えるようになったわけでもなかった。けれど、不思議なことにお医者様やまわりのひとびとが彼を責めることはなくなったらしい。納得してくれたってことなのかな。

「医者が、ユキコに睨まれたってさ…ありがとう、ユキコ」

彼がくくくっと小さく笑う。お医者様じゃなくて、彼と『会話』できるほうがずっとよかったのに。でも、あなたが喜んでくれるなら、それでいい。彼がキスしてくれた。唇にちょっと触れるだけの優しいキス。それだけで私はまた夢見心地に包まれた。


それから数日。くるんくるんと踊りながら長い旅をしてきた受精卵は、ようやく子宮にたどりついた。すでに子宮では赤ちゃんを育むための準備がととのっている。そのピンク色でふわふわのベッドに、わたしたちの「たまご」が静かに降り立った。
細胞分裂がすすんでサッカーボールみたいになっている受精卵は、もぞもぞとおふとんにもぐり込むようにして、ゆっくり子宮内膜にうずもれてゆく。そして、一瞬ちくっとした…着床、したんだ。ようこそ、赤ちゃんのお部屋に。これから、よろしくね。
すると病院の時計塔から正午を報せる鐘の音が響きわたる。そっか、ファンファーレだね。わたしたちの赤ちゃんを、祝福してくれているんだよ、きっと。…ねえ、あなた。無事、妊娠したよ。わかる?…ふふ、わからないか。そりゃわからないわね。
お昼ごはんを食べに行こうと、ハンガーからコートを外している彼に『話しかけて』みたが、もちろん反応なし。残念。まっさきに、あなたに伝えてあげたかったのに。ベッドを離れる彼の姿は追えないけど、靴音にお見送りをした。そして、思う。
私は、今日から、お母さんになるんだ。

さらに半月ほどたった頃、彼がいつになくばたばたと慌てて病室を出てゆき、また10分もしないうちにばたばたと戻ってきた。紙袋を携えている。包装を解くのももどかしそうに、がさがさと取り出したペン状のものを手にして、私の視界から消えた。
何だろう。ベッドの脇でなにやらごそごそしている。「わざわざそんなもの」「確実ではないですよ」「病院にいるのにねー」と看護士達が彼に話しかける声は聞こえるが、かんじんの彼が何をしているのかが見えない。と思ったら、いきなり顔を覗き込まれた。
満面の笑顔。ものすごく嬉しそう。どうしたのかしら。すると、さっきのペンみたいなものを私に見せる。「判定」「終了」の文字。そして、くっきり示された紫色のライン。妊娠検査薬だ。…ってことは…。とたんに顔から火が出そうになった。
またおしっこ?!もうっ…せめてひとこと断ってよ、恥ずかしい。でも、そんなに喜んでくれるなんて。実のところ4週目に入っているという自覚がすでにある私としては今更であったが、ほころびそうな彼の笑顔を前に、そんな気持ちは吹き飛んでしまった。

「ユキコ、見えるかい。ちゃんとできたみたいだよ。よくやったね」

見えるわよ。本当に嬉しそうなあなたの顔が。看護士たちは「よかったですね」と口々にもてはやし、彼はしきりにおじぎをくりかえしていた。その姿は動物のおもちゃみたいでほほえましかったが、この上なく幸せそうな彼を見て、私も幸せいっぱいになる。
あなた…おめでとう。そして、ありがとう。


→第十一話 萌芽