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第十二話 生長

それからふた月ほどは、何事もなく過ぎた。もちろん検査のたびに、胎児が徐々に育っているさまをつぶさにとらえることができる。まだまだちいさいながらも手や足のようなものができはじめ、ヒトの姿になろうとしてゆく過程が見て取れた。
何事もなく。そう、幸いなことにユキコはつわりの症状もないようだった。食事をしていないから、つわりもないのだと僕は思っていたが、どうやらそう単純でもないらしい。しかし、尿検査ではこれといった徴候がみとめられないとのことだった。

「ストレスが原因であることも多いんですよ」

産科医が言う。旦那さんのおかげで奥さんはとてもリラックスできているのかもしれませんね、とも言われた。原因不明の全身麻痺では相当なストレスではないだろうか、と穿った考えが頭をよぎる。でもまあ、つわりでユキコが苦しまずにすむのなら、いいか。
そして、なによりはっきりとしたしるしがあらわれはじめた。ユキコのおなかがすこしづつふくらみはじめたのだ。ぽっこりと、かわいらしく丸みをおびた下腹部。あわせの寝間着をはだけ、そのふくらみをそっと撫でる。僕とユキコの愛の結晶が、ここにあるんだ。
冷えないように夜具をかけなおし、そのうえからもう一度ふくらみをたしかめるように手を添えた。エコーの映像は、確かに胎児そのものを鮮明にうつしだしている。それは理解できるが、僕にとってはユキコのおなかのふくらみのほうが、はるかに実感があった。
ちゃんと妊娠しているんだな…。市販の検査薬やら医者の診断やらで、さんざんわかっているはずなのに。おかしなものだ。時が止まってしまったかのようなユキコの中で、あたらしい生命は着実に時を刻んでいる。ユキコの代わりに…いやユキコと一緒に、だ。

さらに翌月。そろそろ妊娠17週…安定期だ。ようやく僕にもやれることができた。ヤレるといっても、セックスじゃないぞ。助産師さん(けっこうなオバちゃんだ)から指導を受けながら、ユキコに「母乳マッサージ」をするのだ。
乳腺の発達をうながして母乳を出しやすくするとともに、乳頭を丈夫にして赤ちゃんがうまく吸いつけるようにするのがねらいだ。乳房にオリーブオイルを少量まぶし、全体を優しく絞るように、ほぐすように、持ち上げるようにマッサージしてゆく。
さらに乳輪をつまむようにして持ち上げ、ゆるやかにねじり、しずかに圧迫し、そして戻す。要するに乳首をこねまわしているわけであり、いつしか夢中で愛撫している気分になっていたらしい。あんた手つきがいやらしいわね、と言われてしまった。
妊娠による自然なものか、あるいはマッサージの成果かはともかく、ユキコの乳房はいくらか張ってきたようだ。乳輪もひとまわり大きくなり、すこし色も濃くなったような気がする。内緒でユキコの乳首に吸い付いてみたが、まだ母乳は出なかった。
それから妊娠線の予防だ。胎児が急激に成長すると、腹部の膨張に皮下組織が追いつけず裂けてしまうらしい。しかも痕が残るという。それはユキコも嫌だろう。で、それを防ぐためにオイルやクリームなどでマッサージするのがよいと教えられた。
保湿クリームを塗り、まるい丘をなぞるようにしてユキコの白い下腹部を愛でる…いやマッサージする、の間違いだな。もともときめが細かく、しっとりとすいつくようなユキコの肌にクリームが乗ると、いちだんとすべりがよく手触りがここちよい。
まだユキコのおなかはそれほど大きくなっていないが、早めにマッサージを始めると刺激になってよいのだそうだ。おなかだけでなく、胸から脇、背中にかけて揉みほぐすようにしてクリームを塗り込んでゆく。なかなかたいへんな作業だ。
つい過ごして、おなかを冷やさないようにしないと。あるとき半裸になったユキコの胸やおなかをなでまわしていたら、研修医らしい若い娘が扉を開けるなり固まっていた。…いかがわしい行為にふけっているとでも思われたのだろうか。
あげく「し、しつれいしまり」と噛んでしまい、あとを言いきれずにパタパタと出て行った。また変なうわさが立たなければよいが。こんなふうに、さいきん研修医が「見学」と称して同席することもある。たしかに医学的にも貴重なサンプルなのだろう。
迷惑でないといえば嘘になるが、ユキコの妊娠出産に対して病院が全面的に支援してくれることの裏返しだと思えば、それほど腹も立たなかった。


→第十三話 追憶